あなたの人生は罪が刻まれるのか?主への信頼が刻まれるのか?
エレミヤ17;1-11
神様は「ユダの罪は、鉄の筆と、金剛石のとがりでしるされ、彼らの心の板と彼らの祭壇の角に刻まれている」と言われます。罪は、決して消すことの出来ないものです。また、その影響は「彼らの子達に、アシュラ像を覚えている」と言われるほどのなのです。罪は決して消すことも出来ず、しかもそれは自分で終わるだけでなくて、周りへの悪い影響になって行くのです。その結果は、自分の大事にしていた財産、宝を失って、敵に渡すことになります。そのような人生を誰が生きたいのでしょうか?心が主から離れるものは、人間にだけ頼り、②しあわせが訪れても、会うことがありません、しかし、主に信頼するものには、神様の祝福と人間からの祝福もあります。どうしたらいいのでしょうか?今日の聖書箇所に急に現れるように感じる箇所が9節にあります。それは、「人の心は何よりも陰険で、直らない、誰がそれを知ることが出来よう」とあります。それは、わたしたちの心が主についていないかぎり、直すことの出来ない、癒されることの無い心であることを教えてくれます。神様についていてこそ、自分の人生の思いや心が深く知られ、生き方の行いの実を結ぶことができるのです。果たして、私はどうでしょうか?最近思ったことは、担当牧師になると「横から何かアドバイスやまずいことをしている時に言ってくれる人がいない」ということです。上から言われることは「神様のみしか」いないということです。これは、本当に大変で危険なことだと思いました。私自身も神様の前に謙遜さが無い、心の陰険なものだからです。直せない心を神様に癒し続けてもらっているものです。また、もう一つを教えられたものは「人を見る哲学」です。それは、人の心は陰険であり、人間的に期待するものでなくて、どこまでも主の癒しと赦し愛の対象であり、それが必要であるということなのです。どこまでも、主イエス・キリストの十字架によって赦され、愛されて、神様の心についていくものであることを信じ、祈ります。主イエスにある交わりの中に生きます。
ラベル: エレミヤ
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