坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

金曜日, 5月 14, 2010

どんな時に神様を離れる危険があるのか?

エレミヤ17;12-18
主を捨てるもの、主から離れるものに、みな恥を見ると言われます。命の泉なる主なる神様から離れたからだ、と言われます。何故、そんなことをするのでしょうか?そんなことを知っているにもかかわらず、離れるのは何故でしょうか?それは、「自分が主人公になる」時に起こることなのです。自分に、集中するときにおこります。不信仰は、自分にFOCUSがあたり、主語は「わたし」なのです。自分を自生、自制することを知りません、最近の親の一番悪い教育は何でもしてあげて、自分ですることや、忍耐することを教えないことです。大変なときに、何でも助けてしまい、自分の足で生きることを教えないことです。自分のしたいことを抑えれない、自分のものを上げても、他の人にあげる喜びを、愛を知らないことになるのです。主イエスの愛は、徹底的に自己否定と自ら与える愛と喜びに溢れていました。今日の聖書のみ言葉はさらに、聖職者や牧者に向かって語られます。それは、専門的に神様に仕える人がこのような危険にいつもあることを教えます。神様のしもべは、いつも「あわれみ」と「癒し」と「救い」に渇いています。何故なら、自分の罪深さを知り、自分が自己中心で居ることに痛みがあり、そのままでいれないからです。神様の救いと恵みと、憐れみを求めます。わたしを作り変えてください。神様のゆえに、自己を自制して神様の恵みを求めます、その愛を分かち合います。

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