坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

火曜日, 5月 11, 2010

神様がわたしの主であることを知る

エレミヤ16;10-21
罪とは、私たちが、神様を捨てて、離れることです。神様の律法を守らないことです。それは、偶像礼拝や他の宗教と違って、それを守らないと呪われると言う恐れでなくて、わたしを最高に幸福にすると言う神様の愛なのです。それを守らないときには、自分の損なのです。そこには何よりも、最高の良いものを提示されたのに、拒否されている神様の痛みがあります。本当は強要してもいいのに、神様はまずは人格的な関係を望まれます。その結果、他の国に移されて「救いと導きの神」から「義と裁きの神」となられます。しかし、変わらないものがあります。それは、回復を望まれている神様の愛なのです。イスラエルの南ユダの人々はわたしたちは神様の下さった相続地に汚れと罪をもたらし、汚しているものに、神様に隠させるものはありません。罪を隠すことは出来ないのです。愛する関係のもの同士に隠せるものはありません。まして、全能の神様に隠すことなのできないのです。神様の愛は、わたしを回復に向かわせ、その力なる神様に出会わせます。わたしの名が主であることを知る、と言われます。神様は主なのです。わたしの主なのです。わたしの主なる神様への賛美をささげる一日にします。なります。

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