坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

金曜日, 12月 26, 2008

本当に幸福な人は(聖霊に満たされた人とは)




ルカ1:41-45
エリサベツ がマリヤのあいさつを 聞いたとき, 子が 胎內でおどり, エリサベツ は 聖に 滿たされた. そして大聲をあげて言った. 「あなたは女の中の祝福された 方. あなたの 胎の 實も 祝福されています. 私の主の母が私のところに來られるとは, 何ということでしょう.
ほんとうに, あなたのあいさつの 聲が 私の 耳にはいったとき 私の胎內で子どもが 喜んでおどりました. 主によって語られたことは必ず實現すると信じきった人は,何と幸いなことでしょう.」
本当に幸福な人はどんな人でしょうか。それは、
①聖霊に満たされた人です。
②聖霊に満たされると神様のみ言葉を真に受けて信じます、混ぜ物や言い訳をしません。従順を引き伸ばしません。
③不平や不満の代わりに、賛美をします。
④他人の幸福に心から喜びます
⑤比較しません
⑥全ての状況で感謝します
⑦いつも、どこでも、誰と会っても喜びがあります
⑧神様の喜びのニュースを先取りします
⑨未だに状況に変化が無いときにも、神様の預言を計画を信じます。
聖霊に満たされたクリスマスを迎えることを心から信じ、期待して祈ります。



何故、平和が無いのか?




ルカ2:11-15
きょう ダビデの町で,あなたがたのために,救い主がお生まれになりました. この方こそ主 キリストです.あなたがは,布にくるまって飼葉おけに寢ておられるみどりごを 見つけます。 これが, あなたがたのためのしるしです. 」 すると, たちまち, その御使いといっしょに,多くの天の軍勢が現われて,神を贊美して言った。「いと高き所に,榮光が,神にあるように. 地の 上に, 平和が, 御心にかなう人々にあるように.」 御使いたちが彼らを離れて天に歸ったとき, 羊飼いたちは互いに話し合った.「さあ,ベツレヘムに行って, 主が 私たちに 知らせてくださったこの出來事を見て來よう。」

地に平和があった日が世界にはどれくらいあったのか?ということを統計で見るとわずか1年半ほどにしか満ちないほどだそうです。しかも、それは戦争のために準備する日々であったとさえ言われるそうです。何故、私たちには平和が無いのでしょうか?世界のどこかで誰かが戦っているのでしょうか?それは、私たちが神様との関係が罪によって壊れたからです。創世記の時にアダムとエバは自分の生活のためにあせる必要も無く、労働が楽しみとしてありました。しかし、神様に禁じられた善悪の知識の木の実を食べた瞬間、人を裁くことを初め、人のすること、人自身に点数を付けて、価値を付けるようになって、神様が良いといわれた者を否定して、自分の価値を否定してから、平和がなくなったのです。 いつも恐れて生きるようになったのです。その結果は、人を支配するのか、支配されるのかと自分の帝国を作るようになったのです。私たちに平和が無いのは、相手のせいでも、国のせいでもなく、わたしのせいなのです。私の中の罪なのです。神様との関係が回復するために主イエスは来て下さいました。このクリスマスに主イエスを心に迎えることにより、真の平和があることを祈ります。また、その素晴らしいニュースを知ったのはこの世の成功者でもなく、町の外にいたクリスマスのお祝いの外にいたアウトサイダーであった羊飼いたちでした。彼らは平和のニュースを聞いて向かいました。そのニュースが本当であるのか?確かめたいし、そして礼拝したかったのです。人生の目標は主イエスを礼拝することに成功するのかにかかっています。羊飼いに与えられた使命は礼拝することでした。私にとってのベツレヘムにいくことは何でしょうか。なんでもないように思える小さい町に神様の使命を持って行くことは何でしょうか。ある人にとっては故郷の町への(私を知っているある意味でやりにくい)ところで礼拝の生活かもしれません。また、何にも見えない場所、たいしたこと無い場所での働きかもしれません。しかし、羊飼いは福音のニュースを聞いて礼拝の使命を持っていきました。このような、平和のクリスマスと礼拝の使命をもったクリスマスを迎えられることを祈ります。

火曜日, 12月 23, 2008

人の熱心と神様の熱心




イザヤ9;1-7
しかし, 苦しみのあった 所に, やみがなくなる. 先には ゼブルンの地とナフタリの地は,はずかしめを 受けたが,後には海沿いの道,ヨルダン川のかなた,異邦人のガリラヤは光榮を受けた.やみの中を步んでいた民は,大きな光を見た.死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が 照った. あなたはその國民をふやし,その喜びをまし加えられた.彼らは刈り入れ時に喜ぶように, 分捕り 物を 分けるときに 樂しむように, あなたの 御前で 喜んだ.
あなたが彼の重荷のくびきと, 肩のむち, 彼をしいたげる者の杖を ミデヤンの日になされたように 粉々に砕かれたからだ.ひとりのみどりごが, 私たちのために 生まれる. ひとりの男の子が, 私たちに與えられる.主權はその肩にあり,その名は「不思議な助言者,力ある神,永遠の父, 平和の君 」と 呼ばれる. その主權は增し加わり,その平和は 限りなく, ダビデの王座に着いて,その王國を治め,さばきと正義によってこれを堅く立て, これをささえる. 今より,とこしえまで.万軍の主の熱心がこれを成し遂げる.

万軍の主の熱心と言う言葉を黙想してみました。すると、人の熱心とどう違うのか思いました。
①真実である
②過ちの無い、知識があって正しい。神様の永遠の計画による
③疲れたり、状況によって変わらない
④人のように自分よがりの熱心でなく、全ての人の幸福のために
⑤今は絶望でも、完全に奇跡を起こして変えられる。
⑥また、異邦人の地であるガリラヤは人の期待する場所でもなく、苦難の場所、辱めのあった場所でした。そこに属する人が何がいい者でようか?と言われたくらいです。そのような場所を、そのような人を用いられるのが神様であります。
私の苦難を辱めを、光栄に代えてくださる神様に期待します。期待して新しい歩みへと進みます。





あなたは神様の言葉に反応するのか?人の言葉に


イザヤ7:2-5、10-15
ところが, 「エフライム に アラム がとどまった. 」という 報告が ダビデ の 家に 告げられた. すると, 王の 心も 民の 心も, 林の 木¿が 風で ¿らぐように 動¿した.
そこで 主は イザヤ に 仰せられた. 「あなたとあなたの 子 シェアル · ヤシュブ とは 出かけて 行って, 布さらしの 野への 大路のそばにある 上の 池の 水道の 端で アハズ に 會い, そこで 彼に 言え. 氣をつけて, 靜かにしていなさい. 恐れてはなりません. あなたは, これら 二つの 木切れの 煙る 燃えさし, レツィン すなわち アラム と レマルヤ の 子との 燃える怒りに,心を弱らせてはなりません.
アラム は エフライム すなわち レマルヤ の 子とともに, あなたに 對して 惡事を 企ててこう 言っています. 主は 再び, アハズ に 告げてこう 仰せられた. 「あなたの 神, 主から, しるしを 求めよ. よみの 深み, あるいは, 上の 高いところから. 」 すると アハズ は 言った. 「私は 求めません. 主を 試みません. 」 そこで イザヤ は 言った. 「さあ, 聞け. ダビデ の 家よ. あなたがたは, 人¿を 煩わすのは 小さなこととし, 私の 神までも 煩わすのか. それゆえ, 主みずから, あなたがたに 一つのしるしを 與えられる. 見よ. 處女がみごもっている. そして 男の 子を 産み, その 名を『インマヌエル 』と 名づける.
この 子は, 惡を
退け, 善を 選ぶことを 知るころまで, 凝乳と 蜂蜜を 食べる.
このクリスマスの前に、私は誰の声を聞くのでしょうか。人間的な状況でしょうか。人間の圧迫する声でしょうか。それとも、神様の声を聞いて反応するのでしょうか。神様は私が声を聞いて反応をするのを待っておられます。周りは厳しい状況で「私の心は現実の状況、情報に心が揺れそうです」神様の声は、すぐに状況を帰る声に聞こえないかもしれません。早く変えてほしいのに。 しかし、神様は私が神様の声を聞いて反応できる人であることを望みます。そのような関係であるならば、状況は何事も無いのです。主はアハブ王にさえこのように声をかけられました。最悪の王のときに、救い主が与えられるといわれたのです。私たちにとって、最悪の状況が神様にとって最高のBIGPRESENTをもってこられる日になることを信じます。

神様のスケールには限界が無い


第二コリント10:2-18
私たちは, 自己推薦をしているような 人たちの 中のだれかと 自分を 同列に 置いたり, 比較したりしようなどとは 思いません. しかし, 彼らが 自分たちの 間で 自分を 量ったり, 比較したりしているのは, 知惠のないことなのです.
私たちは, 限度を 越えて 誇りはしません. 私たちがあなたがたのところまで 行くのも, 神が 私たちに 量って 割り 當ててくださった 限度內で 行くのです. 私たちは, あなたがたのところまでは 行かないのに 無理に 手を 伸ばしているのではありません. 事實, 私たちは, キリスト の
音を 携えてあなたがたのところにまで 行ったのです. 私たちは, 自分の 限度を 越えてほかの 人の ¿きを 誇ることはしません. ただ, あなたがたの 信仰が 成長し, あなたがたによって, 私たちの 領域內で 私たちの ¿きが げられることを 望んでいます. それは, 私たちがあなたがたの向こうの地域にまで 音を 宣べ傳えるためであって, 決して他の人の領域でなされた ¿きを誇るためではないのです. 誇る者は,主にあって誇りなさい. 自分で自分を推薦する人でなく,主に推薦される人こそ,受け入れられる人です.
神様の計画の中で私は生きるときに、
①自分のしたことを誇る暇はありません
②満足している暇もありません
③人に自分のしたことを宣伝している暇もありません
④人の決めた満足や人の決めた尺度でもがく必要もありません
⑤何故なら、福音を待っている人がいるからです。
⑥神様の与えられた計画の中で人に会い、奉仕するときに自由です。
⑦福音の影響力を喜び、誇っている必要があります。それは、人への自慢でありません。
⑧無限の福音の影響力を人の自慢で止めてはいけません。
⑨神様に会って主イエスを誇る人は自然体です。聖い人です。
私は今朝感謝することがありました。サラン教会で人間関係を作ってきたこと、奉仕してきたことの結論として、私を主イエスにあって推薦してくださる人がいるからです。
キリストの福音の影響力を広める人生を歩ませてください。

愛されてるから尊敬するしもべ、尊敬されているから愛するリーダー

第二コリント10:7-8
また, あなたがたの 從順が 完全になるとき, あらゆる 不從順を 罰する 用意ができているのです. あなたがたは, うわべのことだけを 見ています. もし 自分は キリスト に 屬する 者だと 確信している 人がいるなら, その 人は, 自分が キリスト に 屬しているように, 私たちもまた キリスト に 屬しているということを, もう 一度, 自分でよく 考えなさい.
あなたがたを 倒すためにではなく, 立てるために 主が 私たちに 授けられた 權威については, たとい 私が 多少誇りすぎることがあっても, 恥とはならないでしょう.
最近、面白い文章を知り合いの先生のブログで見ました。それは、「愛されているから、尊敬できる下の人」「尊敬されるから愛するリーダー」 ということでした。非常に的を得ている文章でないかと思いました。教会のリーダーであるとまさにそうでないかと思います。しかし、本当は「尊敬されてなくても愛さないといけない」のがキリストを信じる人の姿でないか、キリストの模範でないかと思いました。
お互いが、キリストにある共同体の中にあるときに、「世に、肉に属する人」でなく「天国に属する人」としてみる時に、キリストにある従順とリーダーシップ(権威)が持たされます。
この世の権威でない者に属するときに、愛と従順はなされていきます。
愛せるから尊敬するのでなく、尊敬されるから愛するのでなく、
愛せなくても尊敬するし(愛さないといけません)、尊敬されなくても(尊敬されないといけません)愛さないといけません。神様にあるリーダーシップの権威を認め、もって行きます。

木曜日, 12月 18, 2008

福音の告白に従順しているのか?

第二コリント9:10-15
蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は, あなたがたにも蒔く種を備え,それをふやし, あなたがたの 義の實を增し加えてくださいます. あなたがたは,あらゆる点で豊かになって,惜しみなく與えるようになり,それが私たちを通して,神への感謝を生み出すのです. なぜなら,この奉仕のわざは,聖徒たちの必要を十分に滿たすばかりでなく,神への多くの感謝を 通して,滿ちあふれるようになるからです.
このわざを 證據として,彼らは、あなたがたがキリストの
音の告白に對して從順であり,彼らに,またすべてのに惜しみなく與えていることを知って,神をあがめることでしょう. また彼らは,あなたがたのために祈るとき, あなたがたに與えられた絶大な神の惠みのゆえに,あなたがたを慕うようになるのです.ことばに表わせないほどの賜物のゆえに,神に感謝します.
今日のQT箇所は、使徒パウロが神様への感謝を表すならば満ち溢れるというメッセージを送っている箇所です。私達は何とけちなのでしょうか。また、何と批判や非難をして「あれは聖書的でない」とか「教会の問題がどうたらこうたら」と言います。しかし、聖書のメッセージはこうです。あなたが福音の告白に従順しているのならば豊かにささげる、感謝する、というのです。また、その結果は豊かにあふれるのです。考えてみると、批判や非難は「自分のお金だ」というところからきます。また、自分の時間や自分の人生であると考えます。そうかもしれません。しかし、私の人生はイエス・キリストによって買い取られた人生なのです。罪から、キリストの十字架の死という世界で一番高い、値の付けられない値で買い取られたのです。それなら、その人生を大事に生きようとしないでしょうか。人生の主人なる方がイエス。キリストのはずなのです。所有権が移っているはずなのです。今週の英語礼拝の説教の中でこのような言葉がありました。「GOSPEL IS FREE BUT NOT CHEEP」神様の値の付けられない十字架で贖いだされた人生を福音の告白に従います。第二コリント9-;10-15

火曜日, 12月 16, 2008

神様にも人にも推薦される人であれ


第二コリント8:16-21
私があなたがたのことを思うのと同じ熱心を,テトスの心にも與えてくださった神に感謝します.彼は 私の 勸めを 受け 入れ,非常な 熱意をもって, 自分から 進んであなたがたのところに 行こうとしています. また 私たちは,テトス といっしょに, ひとりの 兄弟を 送ります. この 人は,
音の働きによって,すべての敎會で稱贊されていますが, そればかりでなく,彼は,この 惠みのわざに 携わっている 私たちに 同伴するよう 諸敎會の 任命を 受けたのです. 私たちがこの働きをしているのは, 主ご自身の榮光のため, また, 私たちの 誠意を 示すためにほかなりません. 私たちは,この獻金の取り扱いについて, だれからも 非難されることがないように 心がけています. それは,主の御前ばかりでなく,人の前でも 公明正大なことを 示そうと 考えているからです. また,彼らといっしょに,もうひとりの兄弟を送ります. 私たちはこの 兄弟が 多くのことについて 熱心であることを,しばしば認めることができました. 彼は 今, あなたがたに 深い 信賴を 寄せ, ますます熱心になっています.
信頼される人はどんな人でしょうか?
①:神様の恵みを知っている人です。自分の力でないことを知っている人です。
②:神様の恵みのわざに同伴する人です。
③:神様の栄光のためにします
④:誠意を持ってします
⑤:神様のみでなく、人々から認められる人です。 使徒パウロは献金の取り扱いを公明正大としています。誰からも非難されることがないようにと言っています。
⑥神様への、人への熱心な愛と献身がある人です。
聖書を読みながら、思うことが一つありました。一つはノンクリスチャンの人からの質問でした。神様とつながっていることは人にもわかるのでしょうか?と言う質問でした。それは、その人の生き方が十分に神様につながっているのなら十分に分かることです。また、献金の扱いを見るときに隠されたものは必ず明らかにされう、と言うことでした。韓国の教会にいると大きな教会で、組織であり、いろんなことがありすぎるように感じます。経済的にも十分にサポートされているように感じます。しかし、そのような中でこそも十分に神様にも人にも、明らかにされる人生があるのです。
もちろん、お金だけでなく倫理的にもそうです。私の人生は神様に栄光が表されているのでしょうか。誠意を持って人に接しているのでしょうか。天国に行ったときに、神様の祝福があるのでしょうか。本当に反省、悔い改めさせられます。神様、あわれみ導いてください。

月曜日, 12月 15, 2008

愛の真実


第二コリント8:1-8
さて, 兄弟たち. 私たちは, マケドニヤ の 諸敎會に 與えられた 神の 惠みを, あなたがたに 知らせようと 思います. 苦しみゆえの 激しい 試練の 中にあっても, 彼らの 滿ちあふれる 喜びは, その 極度の 貧しさにもかかわらず, あふれ 出て, その 惜しみなく 施す 富となったのです. 私はあかしします. 彼らは 自ら 進んで, 力に 應じ, いや 力以上にささげ, 聖徒たちをささえる 交わりの 惠みにあずかりたいと, 熱心に 私たちに 願ったのです. そして, 私たちの 期待以上に, 神のみこころに 從って, まず 自分自身を 主にささげ, また, 私たちにもゆだねてくれました. それで 私たちは, テトス がすでにこの 惠みのわざをあなたがたの 間で 始めていたのですから, それを 完了させるよう 彼に 勸めたのです. あなたがたは, すべてのことに, すなわち,
信仰にも, ことばにも, 知識にも, あらゆる 熱心にも, 私たちから 出てあなたがたの 間にある 愛にも 富んでいるように, この 惠みのわざにも 富むようになってください. こうは 言っても, 私は 命令するのではありません. ただ, 他の 人¿の 熱心さをもって,あなたがた自身の愛の眞實を確かめたいのです.
ささげることが、自分にとって喜びでしょうか。ささげることが自分にとって、恵みでしょうか。それが思えない時は、まだまだ私は神様の恵みを知らないのです。果たして、本当に自分はけちであると思います。今はお金がないからという理由でささげない人は、お金があってもささげないでしょう。他の人はもっともらっていると思います。また、自分のささげ物は少ないと言うなら、神様はまことのささげものである心を喜ばれることを忘れているのです。果たして、キリストへの十分の一献金は「愛の真実」なのです。お金は自分は何を大事にしてるのか一番分かりやすいものです。神様の愛を大事にしているのでしょうか。現実的に、一番分かりやすいのは教会への献金です。不足で問題のある教会へささげるのは、自分の信仰を試されます。しかし、私の人生、お金、時間は神様のものであり、ささえらえていることを告白する、感謝できるチャンスなのです。神様に会って成長とは
1;信仰
2:ことば
3:あらゆる熱心(一部だけでなく、自分の得意な部分のみならず)
4:愛
5:恵みのわざ
極度の貧しさにあってもマケドニアの教会は自分の力以上に献金しました。私はどうでしょうか。
もう一度、神様へのささげ者の祭壇を立て直します。

人を生かす悲しみ

第二コリント7:8-11
あの 手紙によってあなたがたを 悲しませたけれども, 私はそれを 悔いていません. あの 手紙がしばらくの 間であったにしろあなたがたを 悲しませたのを 見て, 悔いたけれども,
今は 喜んでいます. あなたがたが 悲しんだからではなく, あなたがたが 悲しんで 悔い 改めたからです. あなたがたは 神のみこころに 添って 悲しんだので, 私たちのために 何の 害も 受けなかったのです. 神のみこころに 添った 悲しみは, 悔いのない, 救いに 至る 悔い 改めを 生じさせますが, 世の 悲しみは 死をもたらします.
ご 覽なさい. 神のみこころに 添ったその 悲しみが, あなたがたのうちに, どれほどの 熱心を 起こさせたことでしょう. また, 弁明, 憤り, 恐れ, 慕う 心, 熱意を 起こさせ, 處罰を 斷行させたことでしょう. あの 問題について, あなたがたは, 自分たちがすべての 点で 潔白であることを 證明したのです. 神様の御心にそった悲しみは、人を活かします。また、悔い改めは新しい命を起こします。神様と人との関係を回復して、人を傷つけるものでありません。しかし、世の悲しみは死をもたらします。 そして、罪を処罰させます。私にとって、このような歩みが、関係があるでしょうか。 罪への処罰と救いへの悔い改めがあるのでしょうか。主よ、本当に汚れた私をきよめてください、 と祈るばかりです。また、罪は人間関係の中にあります、神様の関係の中にあります。
新しいいのちを生み出す神様との関係を取り戻します。主よきよめてください。

指導者との関係

第二コリント7:2-7
私たちに 對して 心を 開いてください. 私たちは, だれにも 不正をしたことがなく, だれをもそこなったことがなく, だれからも 利をむさぼったことがありません.
責めるためにこう 言うのではありません. 前にも 言ったように, あなたがたは, 私たちとともに 死に, ともに 生きるために, 私たちの 心のうちにあるのです.
私のあなたがたに 對する 信賴は 大きいのであって, 私はあなたがたを 大いに 誇りとしています. 私は 慰めに 滿たされ, どんな 苦しみの 中にあっても 喜びに 滿ちあふれています.
マケドニヤ に 着いたとき, 私たちの 身には 少しの 安らぎもなく, さまざまの 苦しみに 會って, 外には 戰い, うちには 恐れがありました.

霊的な指導者である使徒パウロとコリント教会の信徒たちの関係は壊れた部分があったようです。それを回復するために、パウロはどういったのでしょうか?権威を振りかざすのでもなく、「あなたたちと私は生死を共にする関係である」と話したのです。苦しみの中でも、喜びの中でも信頼できる関係である必要があるのです。私と共に死ぬ人がどうして信頼できないことがあるでしょうか。
果たして、私はこのような指導者と会ったことがるのでしょうか。また、自分がそのような指導者であるのでしょうか。神様と私の関係から、そのリーダーシップはを学び、体験し、それが来ます。
そこに満ち溢れる喜びがあります。問題だらけのコリント教会への使徒パウロのアプローチは、自分が命をささげること、そしてテトスを送ることして、回復することが出来たのです。
私と指導者、指導者としての私に神様にある生死を共にした喜びがあることを祈ります。

金曜日, 12月 12, 2008

キリストの大使の生き方2


第二コリント6:1-2

私たちは 神とともに 働く者として, あなたがたに 懇願します. 神の 惠みをむだに 受けないようにしてください. 神は言われます. 「わたしは, 惠みの 時にあなたに 答え, 救いの 日にあなたを 助けた. 」確かに,今は惠みの時,今は救いの日です.
私たちは, この 務めがそしられないために, どんなことにも 人につまずきを 與えないようにと, あらゆることにおいて, 自分を 神のしもべとして 推薦しているのです. すなわち 非常な 忍耐と, 惱みと, 苦しみと, 嘆きの 中で,
また, むち 打たれるときにも, 入獄にも, 暴動にも, 勞役にも, 徹夜にも, 斷食にも,
キリストの大使の生き方は
1:チャンスを逃さない生き方です。それは霊的に目覚めていないといけません
2:恵みを無駄にせずに、自分や周りの人々に伝えていきます。
3:人につまずきを与えないようにします
4:それは、自分よりも自分の命よりも尊い使命なのです。
5:どんな状況にあっても忍耐できる力なのです。
今日の聖書箇所は、もう自分が忍耐できないことだらけのリストが列挙されています。しかし、信仰を持つ人は最後には、いや、すでに最高のイエスのいのちと神様の子供である富や権能があるのです。驚くべきことでないでしょうか。キリストの大使として生きるゆえの素晴らしい約束を見て今日を歩みます。今日は聖書研究をする日なのですが、少し難しい人とする予定です、またその人とは記憶が迫っているので、恵みを無駄にしない救いのときなることが出来るように祈ります。

キリストの大使の生き方1

第二コリント5:11-21
こういうわけで, 私たちは, 主を 恐れることを 知っているので, 人¿を 說得しようとするのです. 私たちのことは, 神の 御前に 明らかです. しかし, あなたがたの 良心にも 明らかになることが, 私の 望みです.
私たちはまたも 自分自身をあなたがたに 推薦しようとするのではありません. ただ, 私たちのことを 誇る 機會をあなたがたに 與えて, 心においてではなく, うわべのことで 誇る 人たちに 答えることができるようにさせたいのです.

キリストの大使としての人生はどんな人生でしょうか
1:人をおそれる人生でなく、神様をおそれる人生です。それは、うわべだけでなく心からの生き方をもって人に仕えます。
2:それは、必ず神様にも人の前に分かる生き方です。
3:キリストのために狂っていると思われる人生であり、本当に正しい意味でキリストのために狂う人生です。ありきたりの適当な人生ではありません。何となくの人生ではありません
4: 自分が主イエスによってどれほど赦されたのか、どれほど待っていただいたのか、知っている人生です。
5:全く新しい被造物として生きる人生であり、自分が他の人と比べて劣っているなどなく、他の人と何の差別もありません。
6:人を裁くためでなく、人格者として扱い、いわれのない苦しみをしたイエス・キリストの愛で他の人に仕える人です。
本当に、違反行為をしているのに私たちは何と裁く行為や、指摘する行為が多いのでしょうか。何と待ってあげることが出来ないのでしょうか。頭で、キリストは私にそうされていないと知っていながらも、そうはしない、そうはできないことが多くあるのでしょうか。
しかし、キリストの使節は和解させるための使命があります。それは、喧嘩を続行させるためでなくキリストに会って神様と私たちの和解の務めをするのです。それは、柔和な人でないといけません。今日、愛を持つ神様の人格者として仕えていきます。

火曜日, 12月 09, 2008

私たちの土台











第二コリント4章7-10
確かに, 私たちは 見るところによってではなく,
信仰によって 步んでいます.
私たちはいつも 心强いのです. そして, むしろ 肉體を 離れて, 主のみもとにいるほうがよいと 思っています. そういうわけで, 肉體の 中にあろうと, 肉體を 離れていようと, 私たちの 念願とするところは,主に喜ばれることです. なぜなら,私たちはみな,キリストのさばきの 座に 現われて, 善であれ惡であれ,各自その肉體にあってした行爲に應じて報いを受けることになるからです.
私の人生の目標はなんでしょうか。また、私の人生において何かを成し遂げたと言うことはあるでしょうか。何を買った、とか家を買った、ということにそれを言ったり、また事業を成し遂げた、こういうポジションについたことは大事で、必要なことかもしれません。しかし、もしもそれらが一番ならば、私たちの人生の目標は手段とすれ変わってしまうことがあるのでないでしょうか。
1:地上にいる状態であっても、私たちの願うことはもっと素晴らしい天国の状態を待ち望む信仰である。それは、この世のものだけ最高の価値や安心を置かない旅人として信仰の姿勢である。
2:天国に行くことへの保障として御霊をすでにくださっている
3:天国に行くものとして主の御許に行くことに最高の価値を置く人生である
すると、今の人生はどうなるのでしょうか。それは、どのようなことがあっても、主キリストに喜ばれる人生を生きることです。主イエスは私の人生の主でしょうか。どんなことがあっても、どのようなことをしていても、主なのでしょうか。私の都合のよい時だけ主でないでしょうか。それでは、主イエスを喜んで生きる人生を得ることは出来ません。今日主イエスを主人とする喜びの人生を歩んで生きます。

私の人生は最高だと叫べる理由

第二コリント4章13-
私は 信じた. それゆえに 語った. 」と 書いてあるとおり, それと 同じ 信仰を 持っている 私たちも, 信じているゆえに 語るのです.
それは, 主 イエス をよみがえらせた 方が, 私たちをも イエス とともによみがえらせ, あなたがたといっしょに 御前に 立たせてくださることを 知っているからです. すべてのことはあなたがたのためであり, それは, 惠みがますます 多くの 人¿に 及んで 感謝が 滿ちあふれ, 神の榮光が現われるようになるためです.

私の人生は満足しているでしょうか?また、感謝で溢れているでしょうか。それとも、不満や不平があるのでしょうか。また、自分の足りないものを卑下したり、その傷から人を批判したり、ということがないでしょうか。それと、聖書の出てくる人とは信仰が私と違うからと考えたりしていないでしょうか。
しかし、聖書は神様ははっきりと明確に語られます。「私は信じた」という信仰と同じ信仰の霊をもっている私たちも、あなたがたも同じ信仰であり、同じ告白であり、同じ神様の力、効果があるのであると。考えてみると、①:私の人生は地獄でなく天国にいけるだけで感謝なのに、②:そのキリストの力、命は日々私を新しくしてくれます。③:そして、今のときの軽い艱難は、私たちのうちに働いて計り知れない思い永遠の栄光をもたらします④:神様の栄光の同労者となれるのです。
それを考えるときに、私の人生は最高でないでしょうか。また、今のときの艱難は私のうちに働いて思い永遠の栄光をもたらします。すると、今の苦難は将来への思い永遠の栄光を受けるための大事なものなのです。それは、私を駄目にするのでなく、聖化していくものです。新しくするものです。
今朝、与えられている艱難を大事なひよう、こやし、それよりももっと素晴らしい私へ永遠の栄光をもたらすものとして、受け止めていきます。

神様の命が私の中にあることは


第二コリント4章7-9
私たちは,この寶を,土の器の中に入れているのです.それは,この測り知れない力が神のものであって,私たちから出たものでないことが 明らかにされるためです.
私たちは, 四方八方から 苦しめられますが,窮することはありません.途方にくれていますが,行きづまることはありません.迫害されていますが,見捨てられることはありません.倒されますが,滅びません.

私の中の最高の宝なんでしょうか。多くの場合知っている答えですが、現実の中で忘れていることがどれほど多いでしょうか。どれほど考えずに、どれほど神様は私の小さい現状に関心がないさ、とか思いがちなことでしょうか。また、自分の器の大きさや賜物がある人がすごいと人は考えがちです。

しかし、本当にすごいものは「キリストの命」が私の中にあることです。普段は、自分の力や人の器を見るために、比較してしまい自分で高慢やコンプレックスに陥りやすいものです。


そんな時に、私たちを目覚めさせてくれるのは「苦難」という恵みです。死を前にしての苦難とはなかなかないかもしれません。でも、目の前に迫る苦難はたくさんあるのでないでしょうか。


もしも、キリストの命が死を刺し通すことにリアリティがあり、どのような苦難も勝利する「無限のキリスト」の命、力があると信じるならどうでしょうか。私の毎日は変わるのでないでしょうか。


私を取り巻く現実は、四方八方からつまるような状況があります。しかし、キリストの無限の力に頼って、ただキリストの命だけがあらわされる人生を進ませてください、と祈りました。


木曜日, 12月 04, 2008

キリストの香りとは何だろうか

第二コリント2:12-17
私が, キリスト の 音のために トロアス に 行ったとき, 主は 私のために 門を 開いてくださいましたが, 兄弟 テトス に 會えなかったので, 心に 安らぎがなく, そこの 人¿に 別れを 告げて, マケドニヤ へ 向かいました. しかし, 神に 感謝します. 神はいつでも, 私たちを 導いて キリスト による 勝利の 行列に 加え, 至る 所で 私たちを 通して, キリスト を 知る 知識のかおりを 放ってくださいます. 私たちは, 救われる 人¿の 中でも, 滅びる 人¿の 中でも, 神の 前にかぐわしい キリスト のかおりなのです.
キリストにある「命の香り」がする人とはどんな人でしょうか?
それは、①:神様に導かれている人です。自分の力ではなく、死をも前にして神様にすべてを委ねている人です。
②どこにいても、誰といても変わらない信仰を持った一貫性のある人です
③その人に会えないと安らぎのないほど、人に安心感を与える人です。その人に会うことで、神様の働きに安心を与えます。
④勝利を歩む人です
⑤勝利にある行列にともなる人です。一人で信仰生活をするものでありません。共同体の仲間、家族とともに歩むものです。
⑥キリストにある知識を持ちます。私たちは何にも準備もなく、勉強もしないのでなく、キリストにある知識を持ちます。また、それを伝える力を持たないといけません。しかし、それは人の前にも神様の前にも誇るものでありません。
私はキリストにある香りがしているでしょうか。私の顔の表情や心はどうでしょうか。
明日は、クリスマスパーティがあります。キリストの香りが溢れる日となることを祈ります。

水曜日, 12月 03, 2008

人間的な計算でなくて、聖さと誠実さをもて

第二コリント1:12-13、
私たちがこの 世の 中で, 特にあなたがたに 對して, 聖さと 神から 來る 誠實さとをもって, 人間的な 知惠によらず, 神の 惠みによって 行動していることは, 私たちの 良心のあかしするところであって, これこそ 私たちの 誇りです.
私たちは, あなたがたへの 手紙で, あなたがたが 讀んで 理解できること 以外は 何も 書いていません. そして 私は, あなたがたが 十分に 理解してくれることを 望みます.
しかし, 神の 眞實にかけて 言いますが, あなたがたに 對する 私たちのことばは, 「しかり. 」と 言って, 同時に「否. 」と 言うようなものではありません.
私たち, すなわち, 私と シルワノ と テモテ とが, あなたがたに 宣べ 傳えた 神の 子 キリスト · イエス は, 「しかり. 」と 同時に「否. 」であるような 方ではありません. この 方には「しかり. 」だけがあるのです.
神の 約束はことごとく, この 方において「しかり. 」となりました. それで 私たちは, この 方によって「ア ― メン . 」と 言い, 神に 榮光を 歸するのです.
キリストに似ている人は誰でしょうか?どんな人でしょうか?それは、信じられる人です。キリストが人間的な計算で人と付き合ったり、こう言ったら、自分に責任があるからとか、いろいろ考えながら言葉は良さそうなだけであったらどうでしょうか?だまされる人はいるかもしれません。しかし、それはいつかわ時間がたてば、わかることです。そばにいると分かってくることです。キリストは常に「しかり」であるように、矛盾が無いように、クリスチャンはキリストに似るものとして「しかり」であるべきです。この世の人の付き合いであるならば、計算が必要でしょう。しかし、クリスチャンは透明な人であり、信じられる人であることがまことのキリストのに姿です、非常に難しいチャレンジでないでしょうか。でも、それが出来ない無理だ、と言うのでなく使徒パウロにしてくださったように神様の恵みを待ち望むたいと思います。クリスチャンは一人の孤独な高嶺にいるのがクリスチャンの信仰生活でありません。クリスチャンは人間関係の真っ只中で信じれる人であるべきです。
今日の働きの中に、人々の出会いの中に信じられる人になって行きます。

火曜日, 12月 02, 2008

イエス意外に頼る人がいない人は幸いだ!

第二コリント1:8-9
兄弟たちよ. 私たちが アジヤ で 會った 苦しみについて, ぜひ 知っておいてください. 私たちは, 非常に 激しい, 耐えられないほどの 壓迫を 受け, ついにいのちさえも 危くなり,
ほんとうに, 自分の 心の 中で 死を 覺悟しました. これは, もはや 自分自身を 賴まず, 死者をよみがえらせてくださる 神により 賴む 者となるためでした.
ところが 神は, これほどの 大きな 死の 危險から, 私たちを 救い 出してくださいました. また 將來も 救い 出してくださいます. なおも 救い 出してくださるという 望みを, 私たちはこの 神に 置いているのです.

私たちは神様意外に頼るものや、人生設計や計算など、そしてお金、人間関係など何といろんなものに頼っているのでしょうか。使徒パウロはこう言っています、死ぬ手前にまで行って、神様意外に頼る方がいないこと、本当の希望を知ったと。何と、私たちは神様以外に希望があるのでしょうか。
しかし、本当の希望や変わらない慰めは神様にしかありません。最近の私は来年度の進路のことについて心配がありました。今年一年、悩みの時間を過ごしました。そのような中で神様の導きでないか、ということがありました。不思議なくらいにすっと一瞬でいろんなことが進むかに見えました。しかし、一時期それがストップしているかのような感じを受けました。少し心配になりました。
こんな時に今日教えられたことが、神様にのみ頼ることです。神様の完全な計画を信じることです。
神様以外に頼るものが無いことは何と幸福なことでしょうか。そう告白できる人はまことの強さと慰めを持つことが出来ます。神様の完全な計画に耳を澄まして、神様のタイミングで歩んで生きます。

月曜日, 12月 01, 2008

本当男らしい生き方とは?


第一コリント16:13014、16
目を 覺ましていなさい. 堅く 信仰に 立ちなさい. 男らしく, 强くありなさい.
いっさいのことを 愛をもって 行ないなさい.

パウロ が, 自分の 手であいさつを 書きます.
主を 愛さない 者はだれでも, のろわれよ. 主よ, 來てください.
主 イエス の 惠みが, あなたがたとともにありますように.

本当の男らしい、女らしい生き方とは何でしょうか。まことの人間としてふさわしい生きたかは何でしょうか。それは、神様を愛する人生です。それは、①:神様を愛するゆえに、罪を離れていきます。
②:自分中心の人生でなく、神様中心の人生を歩み、隣人を愛する本当の喜びを享受します。
③:人の足りない部分を批判するのでなく、補うことに喜びを持ちます。
④:人を見下すよりは、愛を持って仕えようとします。イエスがされたようにです。
⑤:復讐して罪深い反応をするのでなく、赦しあいします。それは、自分を幸福にし、周りを幸福にします。
⑥:すべての人に挨拶が出来ます。関係の悪い人には挨拶ができないので無いでしょうか。神様の恵みを持った人は多くの人に自由に挨拶が自分から出来ます。
神様を愛する喜びが溢れるときに、まことの自由と人としてふさわしい生き方が出来ることを信じます。

生きた交わりをするためには

第一コリント16:1-2、5-6、9
さて, 聖徒たちのための 獻金については, ガラテヤ の 諸敎會に 命じたように, あなたがたにもこう 命じます. 私がそちらに 行ってから 獻金を 集めるようなことがないように, あなたがたはおのおの,いつも 週の 初めの 日に, 收入に 應じて, 手もとにそれをたくわえておきなさい.
そして, たぶんあなたがたのところに 滯在するでしょう. 冬を 越すことになるかもしれません. それは, どこに 行くとしても, あなたがたに 送っていただこうと 思うからです.
私は, いま 旅の 途中に, あなたがたの 顔を 見たいと 思っているのではありません. 主がお 許しになるなら, あなたがたのところにしばらく 滯在したいと 願っています.
しかし, 五旬節までは エペソ に 滯在するつもりです. というのは,働きのための
い門が私のために 開かれており,反對者も大ぜいいるからです.
使徒時代の教会をみて驚くことは、問題がある教会にしても良い教会にしても、生きている感じを受けることです。エネルギーの無い教会と言うよりは神様にあっても、問題があっても生きている教会を感じます、最初の聖書箇所は献金についての勧めであります。というよりは、命令もでもあります。現在の教会が多くの難しい部分を献金についてかかえているのでないでしょうか。しかし、はっきりと聖書はキリストにある愛として教会がささげる祝福を語っています。使徒パウロもコリントに訪問するときに、教会にとどまる話をしています。彼は、信仰の素晴らしい人だけでなく、問題のある人とも深く付き合ったのです。衣食住を共にしての交わりは素晴らしくもあり、大変でもあったでしょう。誰しも、一緒にいて楽な人と付き合いたいと思います。しかし、まことの愛は問題のある人とも付き合います。また、それだからこそ、献金の問題もいうことが出来るのです。人の深い部分に付き合い、愛するからこそ、難しい部分を語ることが出来るのです。福音を伝えるためには、多くの反対者がいます。それは、外部の人のみならず、内部の攻撃もあります。しかし、それは福音が伝えられるところでは 当たり前なのです。私にとって、難しい部分「心を開いて問題のある人」と付き合うことを目指して歩みます。それは、目下の人のみならず、目上の人も意味します。神様の恵みを持って歩みます。

無駄でないわたしの日常生活

第一コリント15:57-58
しかし, 神に 感謝すべきです. 神は, 私たちの 主 イエス · キリスト によって, 私たちに 勝利を 與えてくださいました.
ですから, 私の 愛する 兄弟たちよ. 堅く 立って, 動かされることなく, いつも 主のわざに 勵みなさい. あなたがたは 自分たちの 勞苦が, 主にあってむだでないことを 知っているのですから.

私にとって、また私たちにとって日常生活はどれほど重要であるのか?思うことがあるでしょうか。
神様の前に、罪を犯さずに歩むことの喜びと自由。それは、永遠の天国へと続く祝福の決め手となるのです。神様の前に福音を伝えることや、奉仕に疲れることがあるかもしれません。また、倒れることがあるかもしれません。しかし、その時に忘れてはいけないことは「神様の前に覚えてくださる」という神様の愛、恵み、導きです。私の歩みや日常生活や、そして未来への歩みに疲れることがあります。しかし、今日また神様が覚えてくださることを喜んで歩みます

霊的な種をまけ


第一コリント15:35-49
霊的な命をもつ人生とはなんでしょうか。クリスチャンは神様の命を持って歩んでいるのです。しかし、気がつかないうちに私たちの人生の行動、優先順位、過ごす時間、過ごす人々は朽ちないものや、この世のものに侵されがちになります。たとえ、牧師であっても気がつかないうちに、知らないうちに、霊的な命を、朽ちないものを蒔くよりも、朽ちるものを蒔く時間が多くなってしまいます。
最初のアダムは、罪によって死を持ってくるものとなりました。しかし、最後のアダムであるイエス・キリストは命を持ってきました。私は、その命を受けたものです。その命を心から享受する人生を歩んでいるでしょうか、また、その命を次の人々へ流しているのでしょうか。
今日の歩みを、霊的な命を蒔くために、朽ちない、永遠の命をもって歩む人として、主の栄光の命を求めてスタートします。