坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

水曜日, 12月 03, 2008

人間的な計算でなくて、聖さと誠実さをもて

第二コリント1:12-13、
私たちがこの 世の 中で, 特にあなたがたに 對して, 聖さと 神から 來る 誠實さとをもって, 人間的な 知惠によらず, 神の 惠みによって 行動していることは, 私たちの 良心のあかしするところであって, これこそ 私たちの 誇りです.
私たちは, あなたがたへの 手紙で, あなたがたが 讀んで 理解できること 以外は 何も 書いていません. そして 私は, あなたがたが 十分に 理解してくれることを 望みます.
しかし, 神の 眞實にかけて 言いますが, あなたがたに 對する 私たちのことばは, 「しかり. 」と 言って, 同時に「否. 」と 言うようなものではありません.
私たち, すなわち, 私と シルワノ と テモテ とが, あなたがたに 宣べ 傳えた 神の 子 キリスト · イエス は, 「しかり. 」と 同時に「否. 」であるような 方ではありません. この 方には「しかり. 」だけがあるのです.
神の 約束はことごとく, この 方において「しかり. 」となりました. それで 私たちは, この 方によって「ア ― メン . 」と 言い, 神に 榮光を 歸するのです.
キリストに似ている人は誰でしょうか?どんな人でしょうか?それは、信じられる人です。キリストが人間的な計算で人と付き合ったり、こう言ったら、自分に責任があるからとか、いろいろ考えながら言葉は良さそうなだけであったらどうでしょうか?だまされる人はいるかもしれません。しかし、それはいつかわ時間がたてば、わかることです。そばにいると分かってくることです。キリストは常に「しかり」であるように、矛盾が無いように、クリスチャンはキリストに似るものとして「しかり」であるべきです。この世の人の付き合いであるならば、計算が必要でしょう。しかし、クリスチャンは透明な人であり、信じられる人であることがまことのキリストのに姿です、非常に難しいチャレンジでないでしょうか。でも、それが出来ない無理だ、と言うのでなく使徒パウロにしてくださったように神様の恵みを待ち望むたいと思います。クリスチャンは一人の孤独な高嶺にいるのがクリスチャンの信仰生活でありません。クリスチャンは人間関係の真っ只中で信じれる人であるべきです。
今日の働きの中に、人々の出会いの中に信じられる人になって行きます。