坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

月曜日, 12月 01, 2008

生きた交わりをするためには

第一コリント16:1-2、5-6、9
さて, 聖徒たちのための 獻金については, ガラテヤ の 諸敎會に 命じたように, あなたがたにもこう 命じます. 私がそちらに 行ってから 獻金を 集めるようなことがないように, あなたがたはおのおの,いつも 週の 初めの 日に, 收入に 應じて, 手もとにそれをたくわえておきなさい.
そして, たぶんあなたがたのところに 滯在するでしょう. 冬を 越すことになるかもしれません. それは, どこに 行くとしても, あなたがたに 送っていただこうと 思うからです.
私は, いま 旅の 途中に, あなたがたの 顔を 見たいと 思っているのではありません. 主がお 許しになるなら, あなたがたのところにしばらく 滯在したいと 願っています.
しかし, 五旬節までは エペソ に 滯在するつもりです. というのは,働きのための
い門が私のために 開かれており,反對者も大ぜいいるからです.
使徒時代の教会をみて驚くことは、問題がある教会にしても良い教会にしても、生きている感じを受けることです。エネルギーの無い教会と言うよりは神様にあっても、問題があっても生きている教会を感じます、最初の聖書箇所は献金についての勧めであります。というよりは、命令もでもあります。現在の教会が多くの難しい部分を献金についてかかえているのでないでしょうか。しかし、はっきりと聖書はキリストにある愛として教会がささげる祝福を語っています。使徒パウロもコリントに訪問するときに、教会にとどまる話をしています。彼は、信仰の素晴らしい人だけでなく、問題のある人とも深く付き合ったのです。衣食住を共にしての交わりは素晴らしくもあり、大変でもあったでしょう。誰しも、一緒にいて楽な人と付き合いたいと思います。しかし、まことの愛は問題のある人とも付き合います。また、それだからこそ、献金の問題もいうことが出来るのです。人の深い部分に付き合い、愛するからこそ、難しい部分を語ることが出来るのです。福音を伝えるためには、多くの反対者がいます。それは、外部の人のみならず、内部の攻撃もあります。しかし、それは福音が伝えられるところでは 当たり前なのです。私にとって、難しい部分「心を開いて問題のある人」と付き合うことを目指して歩みます。それは、目下の人のみならず、目上の人も意味します。神様の恵みを持って歩みます。