坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

月曜日, 12月 15, 2008

愛の真実


第二コリント8:1-8
さて, 兄弟たち. 私たちは, マケドニヤ の 諸敎會に 與えられた 神の 惠みを, あなたがたに 知らせようと 思います. 苦しみゆえの 激しい 試練の 中にあっても, 彼らの 滿ちあふれる 喜びは, その 極度の 貧しさにもかかわらず, あふれ 出て, その 惜しみなく 施す 富となったのです. 私はあかしします. 彼らは 自ら 進んで, 力に 應じ, いや 力以上にささげ, 聖徒たちをささえる 交わりの 惠みにあずかりたいと, 熱心に 私たちに 願ったのです. そして, 私たちの 期待以上に, 神のみこころに 從って, まず 自分自身を 主にささげ, また, 私たちにもゆだねてくれました. それで 私たちは, テトス がすでにこの 惠みのわざをあなたがたの 間で 始めていたのですから, それを 完了させるよう 彼に 勸めたのです. あなたがたは, すべてのことに, すなわち,
信仰にも, ことばにも, 知識にも, あらゆる 熱心にも, 私たちから 出てあなたがたの 間にある 愛にも 富んでいるように, この 惠みのわざにも 富むようになってください. こうは 言っても, 私は 命令するのではありません. ただ, 他の 人¿の 熱心さをもって,あなたがた自身の愛の眞實を確かめたいのです.
ささげることが、自分にとって喜びでしょうか。ささげることが自分にとって、恵みでしょうか。それが思えない時は、まだまだ私は神様の恵みを知らないのです。果たして、本当に自分はけちであると思います。今はお金がないからという理由でささげない人は、お金があってもささげないでしょう。他の人はもっともらっていると思います。また、自分のささげ物は少ないと言うなら、神様はまことのささげものである心を喜ばれることを忘れているのです。果たして、キリストへの十分の一献金は「愛の真実」なのです。お金は自分は何を大事にしてるのか一番分かりやすいものです。神様の愛を大事にしているのでしょうか。現実的に、一番分かりやすいのは教会への献金です。不足で問題のある教会へささげるのは、自分の信仰を試されます。しかし、私の人生、お金、時間は神様のものであり、ささえらえていることを告白する、感謝できるチャンスなのです。神様に会って成長とは
1;信仰
2:ことば
3:あらゆる熱心(一部だけでなく、自分の得意な部分のみならず)
4:愛
5:恵みのわざ
極度の貧しさにあってもマケドニアの教会は自分の力以上に献金しました。私はどうでしょうか。
もう一度、神様へのささげ者の祭壇を立て直します。