坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

火曜日, 12月 23, 2008

人の熱心と神様の熱心




イザヤ9;1-7
しかし, 苦しみのあった 所に, やみがなくなる. 先には ゼブルンの地とナフタリの地は,はずかしめを 受けたが,後には海沿いの道,ヨルダン川のかなた,異邦人のガリラヤは光榮を受けた.やみの中を步んでいた民は,大きな光を見た.死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が 照った. あなたはその國民をふやし,その喜びをまし加えられた.彼らは刈り入れ時に喜ぶように, 分捕り 物を 分けるときに 樂しむように, あなたの 御前で 喜んだ.
あなたが彼の重荷のくびきと, 肩のむち, 彼をしいたげる者の杖を ミデヤンの日になされたように 粉々に砕かれたからだ.ひとりのみどりごが, 私たちのために 生まれる. ひとりの男の子が, 私たちに與えられる.主權はその肩にあり,その名は「不思議な助言者,力ある神,永遠の父, 平和の君 」と 呼ばれる. その主權は增し加わり,その平和は 限りなく, ダビデの王座に着いて,その王國を治め,さばきと正義によってこれを堅く立て, これをささえる. 今より,とこしえまで.万軍の主の熱心がこれを成し遂げる.

万軍の主の熱心と言う言葉を黙想してみました。すると、人の熱心とどう違うのか思いました。
①真実である
②過ちの無い、知識があって正しい。神様の永遠の計画による
③疲れたり、状況によって変わらない
④人のように自分よがりの熱心でなく、全ての人の幸福のために
⑤今は絶望でも、完全に奇跡を起こして変えられる。
⑥また、異邦人の地であるガリラヤは人の期待する場所でもなく、苦難の場所、辱めのあった場所でした。そこに属する人が何がいい者でようか?と言われたくらいです。そのような場所を、そのような人を用いられるのが神様であります。
私の苦難を辱めを、光栄に代えてくださる神様に期待します。期待して新しい歩みへと進みます。