何故、平和が無いのか?
ルカ2:11-15
きょう ダビデの町で,あなたがたのために,救い主がお生まれになりました. この方こそ主 キリストです.あなたがは,布にくるまって飼葉おけに寢ておられるみどりごを 見つけます。 これが, あなたがたのためのしるしです. 」 すると, たちまち, その御使いといっしょに,多くの天の軍勢が現われて,神を贊美して言った。「いと高き所に,榮光が,神にあるように. 地の 上に, 平和が, 御心にかなう人々にあるように.」 御使いたちが彼らを離れて天に歸ったとき, 羊飼いたちは互いに話し合った.「さあ,ベツレヘムに行って, 主が 私たちに 知らせてくださったこの出來事を見て來よう。」
きょう ダビデの町で,あなたがたのために,救い主がお生まれになりました. この方こそ主 キリストです.あなたがは,布にくるまって飼葉おけに寢ておられるみどりごを 見つけます。 これが, あなたがたのためのしるしです. 」 すると, たちまち, その御使いといっしょに,多くの天の軍勢が現われて,神を贊美して言った。「いと高き所に,榮光が,神にあるように. 地の 上に, 平和が, 御心にかなう人々にあるように.」 御使いたちが彼らを離れて天に歸ったとき, 羊飼いたちは互いに話し合った.「さあ,ベツレヘムに行って, 主が 私たちに 知らせてくださったこの出來事を見て來よう。」
地に平和があった日が世界にはどれくらいあったのか?ということを統計で見るとわずか1年半ほどにしか満ちないほどだそうです。しかも、それは戦争のために準備する日々であったとさえ言われるそうです。何故、私たちには平和が無いのでしょうか?世界のどこかで誰かが戦っているのでしょうか?それは、私たちが神様との関係が罪によって壊れたからです。創世記の時にアダムとエバは自分の生活のためにあせる必要も無く、労働が楽しみとしてありました。しかし、神様に禁じられた善悪の知識の木の実を食べた瞬間、人を裁くことを初め、人のすること、人自身に点数を付けて、価値を付けるようになって、神様が良いといわれた者を否定して、自分の価値を否定してから、平和がなくなったのです。 いつも恐れて生きるようになったのです。その結果は、人を支配するのか、支配されるのかと自分の帝国を作るようになったのです。私たちに平和が無いのは、相手のせいでも、国のせいでもなく、わたしのせいなのです。私の中の罪なのです。神様との関係が回復するために主イエスは来て下さいました。このクリスマスに主イエスを心に迎えることにより、真の平和があることを祈ります。また、その素晴らしいニュースを知ったのはこの世の成功者でもなく、町の外にいたクリスマスのお祝いの外にいたアウトサイダーであった羊飼いたちでした。彼らは平和のニュースを聞いて向かいました。そのニュースが本当であるのか?確かめたいし、そして礼拝したかったのです。人生の目標は主イエスを礼拝することに成功するのかにかかっています。羊飼いに与えられた使命は礼拝することでした。私にとってのベツレヘムにいくことは何でしょうか。なんでもないように思える小さい町に神様の使命を持って行くことは何でしょうか。ある人にとっては故郷の町への(私を知っているある意味でやりにくい)ところで礼拝の生活かもしれません。また、何にも見えない場所、たいしたこと無い場所での働きかもしれません。しかし、羊飼いは福音のニュースを聞いて礼拝の使命を持っていきました。このような、平和のクリスマスと礼拝の使命をもったクリスマスを迎えられることを祈ります。
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