坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

金曜日, 11月 30, 2007

すべてを黙らせる力

神よ、あなたの御前には静けさがあり、シオンには賛美があります。あなたに誓いが果たされますように。
私たちの救いの神よ。あなたは恐ろしい事柄を持って、義のうちに私たちに答えられます。
あなたは、地のすべての果て果て、遠い大海の信頼の的です。(詩篇65:1,5)
私の心は、毎日に心配の中で、海のように荒れてていても、周りの人の声や自分の声に惑わされても、神様はそのような中で静かさがあります。それは、神様の圧倒的な力からくる自信です。 しかも、それは「義のうちに」答えられるのです。この世の中で探すことの難しい義、自分の中には良いものがない義を、神様はもって答えられるのです。それは、私の信頼の的であり、期待であり、力であり、賛美なのです。主イエスの十字架によって自分が罪とがに圧倒されていたものが、そむきの罪をゆるされ、生きることができるのです。
今朝、私の中で渦巻いていた人間関係、難しい働きを神様の十字架の許しに頼り、おきます。 神様がどのようになされるのか、大きな期待を持って生きていきます。自分の力や知恵に頼るのでなく、神様の力を信じて、人と接します。そこには、自信のない歩みでなく神様の期待にある笑顔を持って生きていきます。

水曜日, 11月 28, 2007

喜びが口からあふれるほど賛美せよ

神よ. あなたは私の神. 私はあなたを切に求めます. 水のない,砂漠の衰え果てた地で,私のたましいは, あなたに渴き,私の身も,あなたを慕って氣を失うばかりです.私は,あなたの力と榮光を見るために,こうして 聖所で、あなたを仰ぎ見ています.あなたの惠みは,いのちにもまさるゆえ,私のくちびるは, あなたを贊美します.それゆえ私は生きているかぎり,あなたをほめたたえ, あなたの 御名により,兩手を上げて祈ります.私のたましいが脂肪とに滿ち足りるかのように,私のくちびるは喜びにあふれて贊美します  詩篇63;1-5
今朝の詩篇は、賛美と明るさにあふれる賛美でした。神様を慕い求めてとめられない、そして5節「私の唇は喜びにあふれて賛美します」と告白するのです。両手をあげて祈ります、と4節には信仰の歩みがあります。しかし、この状況はダビデがすばらしい状況であったときの賛美でしょうか。 聖所で賛美します、と2節にあります。私の聖所とはどこか?と黙想しました。すると、詩篇の前書きでダビデが荒野にいたとき、とあったのです。ダビデは状況がよくて、神様に渇いたのでなく、神様を慕って気を失うばかりです、と言ったのでなく、もう神様なしでは生きれぬ状況だから このような賛美をささげたのです。
私の奉仕は、日ごとに大学に出て行って聖書研究をしたり、留学生とあったり、大学で聖書研究や教会のパーティを宣伝したり、という野戦部隊のような奉仕です。移動するのもバスや地下鉄で動きます。決して経済的にも強い状況ではありません。
しかし、思いました。私の唇は足りない不満を言うのでなく、このバスの中でも喜びを口からあふれるばかりに賛美するものだ、神様の力と栄光をキャンパスと留学生の中で見ることを信じ、歩んでいきます。今日も、主イエスのみなを賛美します。このような奉仕を与えてくださる主イエスを賛美します。

何度も叫べ

私のたましいは 默って, ただ 神を 待ち 望む. 私の 救いは 神から 來る.
神こそ, わが 岩. わが 救い. わがやぐら. 私は 決して, ゆるがされない

私のたましいは 默って, ただ 神を 待ち 望む. 私の 望みは 神から 來るからだ.
오직 그만이 나의
반석이시요 나의 구원이시요 나의 요새이시니 내가 흔들리지 아니하리로다
나의
구원영광이 하나님께 있음이여 내 힘의 반석피난처도 하나님께 있도다 백성들아 시시로 그를 의지하고 그의 앞에 마음을 토하라 하나님은 우리의 피난처시로다 (셀라)
神こそ, わが 岩. わが 救い. わがやぐら. 私はゆるがされることはない.
私の 救いと, 私の 榮光は, 神にかかっている. 私の 力の 岩と 避け 所は, 神のうちにある. 民よ. どんなときにも, 神に 信賴せよ. あなたがたの 心を 神の 御前に 注ぎ 出せ. 神は, われらの 避け 所である. セラ (詩篇62:1~2,5~7

批判もせず、非難もせずにいることが人にはなんと難しいことでしょうか。自分は生まれつき点数をつけだすことをする能力があるんじゃないか、と思うことがあります。たとえば、あの人はこうだとか!ついには、今日の礼拝はまあまよかった、とか今日の説教はこれはあれで~とか思います。アダムの原罪以来、人は自分で善悪を判断し、人を裁くようになりました。
それは、本当に不幸の始まりでした。人を裁くことでどれほど相手も、自分が一番しんどくなるのです。今朝のQTから、神様は言われます。ただ、神様を待ち望めと。しかも、それは一度でなく2度語られます。一度の決心ではすぐに忘れたり、できなかったり、そこで自分を責めたりするのです。何度も、神に叫べ!と言われるのです。人に何か言うべきでなく、自分にも言うべきでなく、裁き主に叫ぶ喜びがあるのです。
私には、先週は非常に大きな悩みがあり、必死で祈っていました。そこで、今週はあまり祈りに力が入らなくても大丈夫のように思いましたが、神様は祈り、神に叫び続けよと言われました。今日も、人や自分でなく神様にだけ頼って祈ります。

木曜日, 11月 22, 2007

逆転の神様

神よ、私の心はゆるぎません。私の心はゆるぎません。私は歌い、ほめ歌をうたいましょう。私の魂よ目を覚ませ、十弦の琴よ。竪琴よ。目を覚ませ。私は暁を呼び覚ましたい(詩篇57:8)
朝ごとに新しいのは、神様の力によります。しかし、人の力では古くなり、日ごとに傷ついた状態では立ち上がることさえも出来ません。しかし、神様のあわれみに頼る時に、神様の臨在と力と癒しを回復できることになります。神様は私を救い出すだけでなく、私に関わる人生すべてを回復し、成し遂げてくださる方です。今朝私はその思いをそのまま、賛美することにしました。どうして、すぐに今まで賛美をとめていたのだろうか、と思いました。自分の状況は変わらないと自分で決断しているような、神様の臨在をもって、すべてを変えてくださる神様の力をいただきそこねているような気がしました。賛美を持って、暗闇が暁を呼び覚まし、目を覚ます信仰生活になることを信じます。
神様の臨在と栄光、力を全世界で、国々で、私の今日会う人々へ伝え、宣言していきます。
恥ずかしからず、留学生たちに私になされたかみさまのみわざを宣言します。

水曜日, 11月 21, 2007

14年前の御言葉は今も語る

恐れのある日は私は信頼します」(詩篇56:3)
私を取り巻く環境や、人々は時に「私の言葉を踏みつける」時があります。自分の意見を踏みつけられたり、心を踏みにじられることは、本当に痛みのあることです。それは、時に自分の身近な人から来ることがあります。一生懸命に生きるゆえに、奉仕するゆえに来る痛みがあります。心の傷があります。しかし、神様を恐れる者は、人を恐れる必要が無いことを語られます。
実は、今朝この聖書の御言葉を黙想していたときに、14年前にフィリピン短期宣教に行ったときに、教会の孤児院で作った御言葉しおりに書いた御言葉であることを思い出しました。
神様は、あの日も今日も変わらずに、肉なるものが何が出来るのか、語り続けます。
今日も、神様にある新しい力を得て生きていきます。主を見上げるときに新しい力が天から注がれます。ハレルヤ。主イエスを賛美します。
賛美して、祈って神様の力を得て自分の部屋を出て行きます。



月曜日, 11月 19, 2007

神様の祝福を信じよ

神よ、私の祈りに耳を入れ、私の切なる願いから、身を隠さないで下さい(詩篇55:1)
先週の特別早朝祈祷会の恵みに引き続いて、今朝は早朝祈祷会に行きました。そこで、多くの涙を流しての祈りと回復と癒しを体験したのですが、QTでも恵みを受けました。そこにチャレンジを受けたのですが、神様が祈ったら答えてくださることを信じ、期待しているのか?ということでした数多くの痛みや傷を受けるとがっかりして、期待をしない外見だけの祈りとなってしまいます。
それでも、神様は憐れみ深い方です答えてくれますが、今朝の祈りはもっと、癒しを求めてとことん祈れ、神様の祝福をあなたは信じているのか?ということでした。昼も夜も、悪の周りを歩く代わりに神様の下を歩き、叫び求めているのか?ということでした。祈りの門を開いてください、と祈りながら歩んでいるのか?ということでした。逃れ場を求めるときに、神様が私の逃れ場所である、と信じてJESUS IS MY ANSWERと告白しているのか、という神様の言葉でした。神様の癒しを感謝し、もっと祈ります。祝福を信じて。

日曜日, 11月 18, 2007

恐れの無いところで恐れる理由は

神は天から人の子らを見下ろして、神を尋ねもとめる、悟りのある者をいるかどうかをご覧になった
(詩篇53:2)
神を尋ねもとめない人生は、自分の力や人の権威、お金に頼るために何かが起こるたびに自分の力で解決しないといけません。そのために「恐れの無いところ」で恐れる必要が出てきます。
逆に、神様を尋ねもとめる人はどのような態度で生きるでしょうか。①謙遜に自分の知恵や力に頼らず、御言葉を読む
②神様の声を聞いたら、それに従う
③祈り、神様の力を求める
④何よりも、神様の臨在を求める
⑤逆境のときに、主を賛美する
⑥価値観に永遠に残ることに重点をおく
⑦お金や自分の力や一時的なものを見抜く神様の知恵を求める
⑧愛を大事にする(神様と人を大事にする)
⑨状況に神様のみこころを求めて、投げやりにならない
⑩神様の祝福を信じる
⑪苦しみの中で神様の祝福を信じ、罪を犯さない、罪を犯すことに恐れを持つ
⑫状況を解釈することでなく、神様の計画から聞こうとする、そこから話そうとする
結論:神様の臨在を求める人生を歩む。私は果たして、神様を求めるひとか、というと何と少ないことか思いました。自分の黙想の中であげたリストを実行することと、特に早朝特別祈祷会の終わった後も祈る人として歩むことを決断します

金曜日, 11月 16, 2007

more than i can be

「見よ、彼こそは、神を力とせず、おのれの豊かな富にたより、おのれの悪に強がる」
「しかし、この私は、神の家にあるおい茂るオリーブの木のようだ。私は世々限りなく、神の恵みにより頼む」(詩篇52:7-8)
今週も、いよいよ週末に向かっています。今朝の特別早朝祈祷会も大きな恵みがありました。昨日から、留学生の為に通訳の奉仕をしています。これも大きな恵みで感謝です。日本では、なかなか早朝祈祷会が見られない風景ですが、韓国でもなかなか見られない朝から1万人以上がささげる大きな恵みです。
さて、罪とは何でしょうか?神様との関係が壊れることです。悔い改めとは何でしょうか。それは難業でも苦行でもなく、神様より好きだった罪を嫌いになることです。神様の愛するものを愛することです。現実の中で、神様より現実を優先して生きることや、小さいうそをつくことはないでしょうか。
今朝も、神様が私に下さった恵みは「罪の悔い改め」でした。同時に、それが嫌なものでなく、つらいものでなく、神様を愛することであり、神様に頼るものでした。
そこで、自分の力で何とかしようとするから、難しいのであり、神様があなたを超越して働かれる大きなみわざをすることができないのです。私の考えよりも、私を大きく用いられる、私を超えて持ちいらえる、神様の計画に頼るのでしょうか。それとも、自分の富に頼るのでしょうか。
神様に頼って、私を持って大きくする神様に頼るのでしょうか。
神様の心を持って、神様が私を大きく用いてくださることに進むのでしょうか。
自分人の問題が神様に用いられるときに、解決され、国と民族のために用いられることを信じ、祈ります。

木曜日, 11月 15, 2007

あなたが欲しいのだ

神へのいけには砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ、あなたはそれをさげすまれません
(詩篇51:17)
今朝も、特別早朝祈祷会が続いています。そこでも、QTでもはんこを押されたように神様が下さったメッセージは「聖霊の満たし、癒し」そして揺るがない心は日ごとに新たにされないといけない、昨日の聖霊の満たしや罪の許しをもって、今日を生きることは出来ない、ということでした。
聖霊の満たしは、悔い改めから始まります。それを神様は決してさげすまれないのです。私は、何を恥ずかしがっているのか?と思いました。さげすまれずに、許してくださるのが既に分かっているのです。だからこそ、罪の悔い改めが出来るのであり、素直になれるのです。
罪の特性は、①隠すこと②神様との自然な関係を壊す③その結果、人との関係が自然に出来なくなるのです。しかし、神様の恩寵が待っているのです。
神様は、私の為に主イエス・キリストを十字架で下さいました。
私のささげ物とか、全焼のいけにえを欲しいのでなく、私の心を、私の人生を
私を欲しいといわれるのです。宗教行為を求めておられるのでないのです。そこから、真の悔い改めが喜びのもとに始まります。素直になって生きていくのです。
イエス・キリストが私の生き方であること、価値観だからです。

日ごとに、神様の恵みに、恩寵にあわれみを求め、悔い改めていきます。

水曜日, 11月 14, 2007

You raise me up


神よ.御惠みによって,私に情けをかけ,あなたの豊かなあわれみによって,私のそむきの罪をぬぐい去ってください. どうか私の咎を,私から全く洗い去り, 私の罪から, 私をきよめてください. まことに,私は自分のそむきの罪を知っています. 私の罪は, いつも私の目の前にあります.私はあなたに, ただあなたに,罪を犯し, あなたの御目に惡であることを 行ないました. それゆえ,あなたが宣告されるとき, あなたは 正しく,さばかれるとき,あなたはきよくあられます.(詩篇51:1-4)
ダビデがバテ・シェバのもとに通った後に、罪の悔い改めをするダビデの姿は、神様の前に罪を犯したことを告白します。また、神様の下へあわれみを祈ります。人の前に、他人に罪を犯したこともあるけれど、 それよりも、神様の前に罪を犯したこと、神様との関係が壊れたことを恐れます。
神様との約束を破ったこと、神様のみ言葉を無視したことを、悔い改めます。
神様を恐れぬところから、神様のみ言葉を後ろに投げ出すことから罪が始まります。
信ずるべき神様の約束の御言葉を破ったことから始まるのです。
そこから、人への被害や働き、ミニストリーに破壊が来ます。
ダビデは、まず神様に罪を許されること、罪をきよめられることから始めました。
罪許されることから、きよめられることから、神様と共なる人生と働きが始まります。
今日、神様に罪許された喜び、罪犯さずにきよく生きる喜びがあることを感謝し、
祈ります。
YOU RAISE ME UP MORE THAN I CAN BE
神様、あなただけが罪を清めてくださる方です。私を今までより大きくしてくださる方です。
世界にビジョンを持つ人にしてください。御言葉どおりになると信じます。

火曜日, 11月 13, 2007

罪と親しくするな

おまえは、戒めを憎み、わたしのことばを自分の後ろに投げ捨てた。おまえは、盗人に会うと、これをくみし、姦通する者と親しくする。
神を忘れる者よ、さあ、このことをよくわきまえよ(詩篇50:17-18,22)
今朝も早朝祈祷会が続き、大きな恵みが続いています。その中で、早朝祈祷会でオ・ジョンヒョン牧師様の最初の祈りの導きは「罪の悔い改め」でした。きよさ、性的なきよめ、神様の守りのために祈りました。そして、祈りの門を開いてください、という祈りに続きました。神様の言葉をないがしろにする者は、自分の後ろに神様の言葉を置くとは、本当にそのとおりです。自分には、最初あまりピンと来なかったのですが、神様の恵みの場所には本当にきよめられる必要があることを感じました。罪と罪の影響を与える人と親しくする、罪と親しくなる、これくらい大丈夫だと思う罪さえも、神様は拒まれます。その罪と親しくするのなら、神様のきよい臨在の中に入ることは出来ないのです。今朝の御言葉は神様を知らない悪者でなく、神様を知る者、神様のある指導者に向けられたものです。私の親しくする人は誰か、私に影響を与える人は誰か、私の聞く、話す言葉は何か、黙想させられました。神様に会って悔い改めをします。
聖い影響力を与える人に、与える人との付き合いを持ちます。
罪を持ってくる人に、会ってはいけない人に会わないようにします。
神様、聖い臨在の中に入れてください。

月曜日, 11月 12, 2007

私の感謝のいけにえは何か?

感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き方に果たせ。
苦難の日にわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。
(詩篇50:14-15)
神様は、今日の詩篇にあるように私が何かささげないと困る方でも、貧乏な方でもありません。 では、何を私たちに求めておられるのでしょうか。 それは、救われた者としての生き方です。
神様の下さった使命を生きることです。永遠に実の結ぶ人生です。 そこから、感謝や献金や伝道、牧会がでてきます。
今朝のQTは私にとって負担の感じるものでした。今週から特別早朝祈祷会があり、
出勤は午前2時50分ほどでした。すごく、大きな恵みと祈りの喜びと教職者同士の分かち合いは涙の流れる感動がありましたが、体があまり調子のよくないことを感じていました(今も)。 そこで、これ以上に何かすることに喜びがわきにくい状況でした。
そこに、先週であった未信者の方からの文字メールがありました。
「教会にいってみたい」という大変嬉しいニュースでした。この方に出会ってから
毎朝祈り、他の方にも祈ってもらっていました。 しかし、私の汚い心は、献身してない心は疲れを感じていました。 でも、神様のみ言葉に従って、一歩歩みました。
すると、今度未信者の方から教会に来るという話になりました。 神様に従うときに、呼び求めるとき答えられる神様を賛美します。 私をより大きくする神様の前にひれふします。

恐れるな!!!

しかし、神は私の魂をよみの手から買い戻される。神が私を受け入れてくださるからだ。セラ
(詩篇49:15)
今朝の恵みは、恐れるな!!!でした。今日の賛美の奉仕は新しい賛美チームになってから
2週目でした。新しいチームはまだまだ足りないところもあり、構成しきれない部分だらけです。
1週目は無事にすばらしい恵みがあったものの、昨日の賛美練習も完全な満足とは言い切れませんでした。2週目になって、やっぱり新しいチームはという人の評価がきたら、どうしよう?
神様の前にどうだろうか。そんなことを考えていました。 でもそれは、神様の前に賛美者の姿でありませんでした。 礼拝者の姿でもありませんでした。 神様の前に最善を尽くし、適当な礼拝でなく、最高の礼拝として 人を恐れずに礼拝者として奉仕します。
ちなみに、この日の礼拝は予期しなかったこともありましたが、 神様が生きておられる礼拝となりました。

神様の前に実の結ぶ人生を

魂のあがないしろは高価であり、永久にあきらめなくてはいけない。 彼らは、心の中で、彼らの家は永遠に続き、その住まいは代々にまで及ぶと思い、
自分たちの土地に、自分たちの名をつける(詩篇49:8,11)
自分の魂は、永遠に買うことのできない水準のものであり、人はとこしえまで生きることのできないことを覚えるとき、主イエス・キリストの十字架の前に降伏し、感激の涙と感謝の人生を生きる以外になくなることを覚えます。また、カトリックの免罪符であるとか、救いはお金でも行いでもない、 ということがはっきりとわかります。
こうして、与えれた人生に感謝して、大事に生きないといけません。
神様に会った使命ある人生を生きる喜びがあります。でも、多くの人はどうでしょうか。
自分が永遠に生きれなくても、代々への土地を引き継ぐとは、神様の使命ある人生と
違う方向に来ます。家を買ったり、車を買ったり、それは絶対に必要なことであり、
悪いことでありません。喜ばしいことです。でも、それが自分たちの土地に自分の名前をつけるような、地上にしか価値を置かない人生ならさびしいことです。
わたしは、天国の名前の刻まれていることを喜ぶ人生を送りたい、と思います。
それは、神様の愛されている人々のために生きることです。
今日、与えられた留学生との交わり、伝道を祈って仕えます。

私の神の都はどこか

私たちは聞いたとおりを、そのまま見た。万軍の主の都、われらの神の都で。
神は都を、とこしえに堅く立てられるセラ(詩篇48:8)
永遠の神の都を「われらの」と言えることはなんと幸いなことでしょうか。 人のでなくて、私の、われらの神の都なのです。
神の栄光、力があふれる場所、神様の都が自分のものなのです。 そこで、神様の栄光を黙想し、賛美できるのはなんと言う力でしょうか。
また、神様の都に住めるとは何という安心でしょうか。
そこで、黙想したのは「神様の都」はどこか、ということでした。
死んでから行く場所、天国のみがそういう場所でしょうか。
今いる私の礼拝する場所、教会、事務所でした。 神様の力と栄光の臨む場所が、遠い場所でなく 自分の今いる場所で臨む一日を送ります。
神様は私に隣にいらっしゃいます。
 

木曜日, 11月 08, 2007

褒め歌をささげよ

全ての国々の民よ。手をたたけ、喜びの声をあげて神に叫べ(詩篇47:1)
賛美って、すごく活動的なものだなと朝のQTで第一番に思いました。とある教会は静かに賛美することを好みます。それも、素晴らしいし、静かに語りかける神様のみ声を聞くことを思います。
でも、それだけでなく神様への喜びの声をあげて賛美することは、自分の迷いや自分の悩みだけに閉じこもっているところから、全能の神様の力強い御手を経験することになります。
それを通して今朝更に思わされたことは、私が恐れるのは神様のみである、ということです。
それは、人を恐れることでないということを更に導かれました。
神様の声を聞いて賛美し、生きる人は人を恐れず、神様の偉大な力を賛美します。
その感動に満ちた人生を生きます。
今日は、留学生の働きで神様の働かれる感動がありました。
自分が悩んだり、長く滞っているような働きが、開かれた気がしました。
神様にある感動あふれる賛美をささげます。
力強いイエスのみわざを賛美します。
手をたたいて喜びの声をあげ、賛美します。

水曜日, 11月 07, 2007

共にいる神様による勇気

万軍の主はわれらと共におられる(詩篇46:7)
最近は、いろんなことを前にして周りからの、自分で、プレッシャーを感じることがあります。早く、この時期が過ぎてくれれば~とか、いろんな現実から逃げたくなるときがあります。また、自分はあせっているのでないか、と思うときがあります。そんな朝に与えられた御言葉は、私と共にいる神様でした。神様はわれらの避け所であり、とりでであっても、それを味わうこと無くて何の意味があるでしょうか。それにしても、何と力強い宣言でしょうか。力なる神様が私と共にいるのに、何を恐れることがあるのでしょうか。何を迷うことがあるのでしょうか。
人からさせられているプレッシャーでなく、人からさせられている奉仕でなく、神様の声を聞き、そのビジョンを持って、しかも神様と共にいる奉仕をなのです。
楽しさと喜びのあふれる奉仕や人生で無いでしょうか。
神様と生きるなら、人を恐れるのでなく、自信あふれる人生を生きるのです。
今日を自信を持って歩みます。

火曜日, 11月 06, 2007

私の言葉は

「あなたは人の子らに勝って麗しい。あなたのくちびるからは優しさが流れ出る。神がとこしえにあなたを祝福しておられるからだ」(詩篇45:2)

最近、指摘されることがありました。その言葉を話すときに、どんな表情や声の調子か自分で知っていますか。人への忠告や、苦言を言うときに私の態度、声の調子、顔の表情が厳しいということでした。愛の足りない人であることを刺されました。そんな最近に、詩篇のみ言葉が与えられました。
私の唇は、神がとこしえの祝福を下さっているのに、私の唇は「神の威厳と栄光」そして「神の王権」やさしさを伝えいるのだろうか、と思うと
その逆であることを覚えました。
「あなたの神は喜びの油をあなたのともがらにまして、あなたにそそがれた」ということを黙想しました。賛美をするときに、神様の喜びの油を注がれることを覚えながら、
人の唇は、私の唇は「賛美」もでるけど、「やさしくない」言葉がでることを覚えました。
本当にいたい話です。しかし、
神様の油そそぎによってきよめられること、愛に変わること祈り、悔い改めました。
神様の愛によって話すものとなりますように。
神様の油注ぎの力に歩むものとなりますように。


月曜日, 11月 05, 2007

永遠の命をちょっとした適用から

彼らは自分の剣によって地を得たのでもなく、自分の腕が彼らを救ったのでもありません。ただ、あなたの右の手、あなたの腕、あなたの御顔の光が、そうしたのです。あなたが彼らを愛されたからです。(詩篇44:3)
今朝の恵まれたことは、私が礼拝の司会のたびに、告白する聖書箇所から「神様の右の手」ということでした。私の人生は、神様が備えてくださったものであり、今の生活も、奉仕も、人々も、神様の下さったものです。自分にとって、将来や現在の問題悩む時間がソウルにてありました。神学校の同期生を見ると、それぞれの人生を歩んでいます。意味の無い比較から来る落胆、実際に起こる問題への不安に、もう一度、神様の右の手がされたことを思い出しました。
それは、私を愛されている神様によるのです。今の生活や将来を神様にゆだねる決心をしました。
神様の愛なしには、私は生きていくことが出来ないのです。逆に、それがあるのなら生きていけるのです。神様の愛を持って、また永遠の命を生きようと思いました。
具体的に何が出来るのか、黙想したときに
すれちがった副牧師の挨拶の笑顔が本当に素晴らしいことを感じました。
神様に愛されているものとして笑顔を持って生きます。それは、神様に愛されていることからくるものです。永遠の命であるイエスと共に生きているからです。

告白する恵み

「あなたは私の力の神だからです」(詩篇43:2)
私にとって最近は、落ち込むことや厳しいことがありました。そういう時は、自分を責めることや、神様をあがめることが少なくなってしまったり、失敗のゆえに人の前に出ることが難しくなります。
恥で倒れてしまいます。落胆して、神様からも人からも離れてしますことがあります。
私だけでしょうか。
しかし、今朝与えれた恵みは「私の神様を告白」することでした。
落ち込むと、神様を告白することが難しくなります。こんな私が告白していいのだろうか。また、逆の行動するのでないか。
でも、ペテロは告白しました。生活は失敗だらけです。神様を命をかけて愛するといっても、
その反対ばかりです。しかし、神様は愛する告白を喜ばれます。
私も資格の無い自分ですが、神様に告白します。私の力の神と。