坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

水曜日, 11月 28, 2007

何度も叫べ

私のたましいは 默って, ただ 神を 待ち 望む. 私の 救いは 神から 來る.
神こそ, わが 岩. わが 救い. わがやぐら. 私は 決して, ゆるがされない

私のたましいは 默って, ただ 神を 待ち 望む. 私の 望みは 神から 來るからだ.
오직 그만이 나의
반석이시요 나의 구원이시요 나의 요새이시니 내가 흔들리지 아니하리로다
나의
구원영광이 하나님께 있음이여 내 힘의 반석피난처도 하나님께 있도다 백성들아 시시로 그를 의지하고 그의 앞에 마음을 토하라 하나님은 우리의 피난처시로다 (셀라)
神こそ, わが 岩. わが 救い. わがやぐら. 私はゆるがされることはない.
私の 救いと, 私の 榮光は, 神にかかっている. 私の 力の 岩と 避け 所は, 神のうちにある. 民よ. どんなときにも, 神に 信賴せよ. あなたがたの 心を 神の 御前に 注ぎ 出せ. 神は, われらの 避け 所である. セラ (詩篇62:1~2,5~7

批判もせず、非難もせずにいることが人にはなんと難しいことでしょうか。自分は生まれつき点数をつけだすことをする能力があるんじゃないか、と思うことがあります。たとえば、あの人はこうだとか!ついには、今日の礼拝はまあまよかった、とか今日の説教はこれはあれで~とか思います。アダムの原罪以来、人は自分で善悪を判断し、人を裁くようになりました。
それは、本当に不幸の始まりでした。人を裁くことでどれほど相手も、自分が一番しんどくなるのです。今朝のQTから、神様は言われます。ただ、神様を待ち望めと。しかも、それは一度でなく2度語られます。一度の決心ではすぐに忘れたり、できなかったり、そこで自分を責めたりするのです。何度も、神に叫べ!と言われるのです。人に何か言うべきでなく、自分にも言うべきでなく、裁き主に叫ぶ喜びがあるのです。
私には、先週は非常に大きな悩みがあり、必死で祈っていました。そこで、今週はあまり祈りに力が入らなくても大丈夫のように思いましたが、神様は祈り、神に叫び続けよと言われました。今日も、人や自分でなく神様にだけ頼って祈ります。