坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

木曜日, 4月 29, 2010

神様の言葉を聞くのはSTILL CONTINUE

エレミヤ11;1-8
神様はわたしとの契約を、約束を覚えて必ずなしてくださる方です。神様の救いは、既に罪を赦されて、義とされることは既になされました。しかし、神様の人として生きることは、STILL CONTINUEです。神様の素晴らしい喜びを享受するには、神様との関係を維持していく、もっと付加いい関係を持って、神様の声を聞いていく人生はもっともっとこれからです。今まで、わたしの知らなかった神様との関係、愛する神様の声を、愛する神様と出会う人生を生きていきます。このTORRANCEで、日本語の礼拝を通して、今まで知らなかった主イエス、をもっと体験していきます。神様の声を聞け、と言われて私がどれほど聞かなかったか?どれほど自分の思い通りで行こうとしたのか?分かりません。果たして、自分が人間が、人の言うことを聞かなければ、どのような気持ちになるでしょうか?どのような態度を相手にとるでしょうか?終わりになる関係や、人目には何もないようにしつつも、関係はその根底で終わっていることが無いでしょうか?そのことで、どれほど神様の心を痛めたでしょうか?しかし、主イエスはあきらめない方です。わたしをも、全ての人をも、あきらめない神様の心で生きます。

ラベル:

神様の恵みを引き出す祈りをせよ!

エレミヤ10;12-25
今日のQT箇所は、神様の素晴らしい権勢と力を賛美しながらも、神様の下さるものはそんなものでない、という神様の下さる祝福をつかみ損ねているイスラエルの民について話しました。私たちの人生で一番残念なのは、素晴らしい神様の下さるプレゼントを知らずに、神様の愛と人格を知らずに、受け損ねることです。神様の祝福を出し損ねることです。それは、わたしの罪であり、私が神様との交わりを知らずに、持たずに、受け損ねることです。人の歩みは、神様によって確かにされます。神様の恵みを知らずに、神様の力を知らずに、神様のご人格を知らずに、受け損ねることは残念です。このTORRANCE神様の力を受ける、聖霊の火を受ける祈りをしたい、それを共に分かち合って生きたいと思います。主イエスのミナを賛美します。

ラベル:

水曜日, 4月 28, 2010

主の言葉を聞いている人を見たら人は神様を賛美する

エレミヤ10:1-11
今日の主のみ言葉は、「まわりの異邦人の道に習うな!天のしるしにおののくな!異邦人がそれらにおののいても」と言う言葉でした。異邦人とは今風に言うと、神様を信じない人々、それにしたがなわない人です。また、「イスラエルの家よ、主があなた方に語られた言葉を聞け」とは、神様を信じるクリスチャンよ、あなたがたよ、あなたよ、ということです。神様の言われたことに権威と力と愛と真理を信じ、歩む一日になることを祈ります。神様の言葉によって、歩み現実を知りながらも、この世の権威を恐れずに歩むことを通して、神様のみながあがめられる一日になることを祈ります。そのことを通して、回りの異邦人までも、神様を知り、礼拝していく一日になることを祈ります。神様の軌跡を与えてください、神様のAPPLICATIONを与えてください。ハレルヤ!主イエスをあがめます。

ラベル:

火曜日, 4月 27, 2010

主イエスを誇っている?

エレミヤ9;17-26
わたしたちは、何を自慢して、頼っているのでしょうか?口では、誇っていると言いつつも、行動はどうでしょうか?お金の使い方や、一番現れるのは、時間の使い方で無いでしょうか?神様の恵みに、公儀に、正義に感謝して、その方がわたしの神様であり、最高の主人であることを誇っているのでしょうか?人々に証しているのでしょうか?イエス・キリストをどのように自慢しているのでしょうか?
①主イエスは恵みの方です。死刑囚のような罪人をゆるし、その場でこの人は義人だと言われるのです。その人がしたことは何もありません。代わりに私が十字架で死んだからと言われます。
②公儀で治めてくださいます。わたしたちの偏見でも、人間関係でえこひいきをするでもなくて、防いでもなく、神様の正しい儀と知恵を持って治めてくださいます。そこに、最高の守りがあります。
最高の知恵で導かれる人生に平安があります。
③正義が治めます。私たちの人生には、不正や妥協や隠された罪がたくさんあります。しかし、それをゆるし、きよめて正しい人生へと、正しい関係へと、正しい共同体へと導かれます。その主イエスを賛美し、その主イエスの中で生きます。ハレルヤ!

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月曜日, 4月 26, 2010

使命

エレミヤ9;10-16
今朝のQT,そして礼拝に於いて再確認することがありました。それは、全能全知の神様の下さる夢に、願いに、使命に反応する人生でした。12節「知恵があってこれを悟ることの出来る者は誰か?主の御口が語られたことを告げ知らせることの出来るだれか。どうして、この国は滅びたのか?どうして、荒野のように焼き払われて、通る者もいないのか」このメッセージにわたしは知恵は無いですけど、神様の聖霊様による知恵を下さい、わたしがここにおります、このTORRANCEで神様の愛を、神様の悔い改めのCALLINGを叫ばせてください、本当に最高に、あなたらしい輝く人生を生きるために、伝えさせてください、わたしの神様から下さった使命をなさせてください、と祈りました。この使命のために、神様の愛に反応する人生を送らせてください、と祈りました。その日の礼拝は、宣教師先生の呼ばれた証と、ローマ人の手紙から使徒として召されたパウロについてのメッセージでした。恵みによって、今のわたしになされたことを感謝し、主の召しに行きます。また、短期宣教にいけるように、信仰を持って準備します。

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日曜日, 4月 25, 2010

神様を人格的に知るとどうなるか?

エレミヤ9;1-9
今日の聖書箇所には、「わたしを知ろうとしない」という言葉が2度出てきます。それは、どういう意味でしょうか?神様を知るなら、知っているなら、知りたいなら、どういうことが起こるのでしょうか?
①悪から悪へおこうなうことが出来ない、罪から離れて神様に行こうとする。神様の義と罪は相容れないものです。
②神様を人格的に知るなら、わたしをどれほど愛されているのか分かります。
③神様がわたしをどれほど大事にされているのか?思うときに、大事な人生を生きます。
自分の価値どおりの人生を行きます。
④神様にあるきよさを知るなら、罪を離れていく人生を行きます。それが、神様と共に生きる道であり、そこに’幸福があるからです。
⑤神様がどれほど真実な方であり、信頼できる方であるのか?思うときに、一番信頼できる方は誰か考えます。他に頼る人や、偶像に頼る人生がどれほどむなしいものでしょうか?
⑥神様がどれほど、わたしの悔い改めに真摯に愛して、赦してくださる方なのか?と思います。今日、神様を知る中で神様の人格を知って生きたいと思います。わたしの人生を通して、わたしの人格を通して、知る神様を持って生きたいと思います。神様の愛と真摯さ、ゆるしがありますように。

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土曜日, 4月 24, 2010

神様の心と同じように痛んでいる預言者の心

エレミヤ8;13-22
預言者とは誰でしょうか?神様の声を聞き、宣言し伝える人です。そこには、純粋さがないといけません。自分の心や願い出なくて、神様の心を伝えれる人でないといけません。預言者エレミヤの心は神様の心と同じように痛んでいました。それは、人々の罪の生活、神様と切り離された生活、神様に頼らずに、人に頼る人生に、偶像に頼る人生へのむなしさ、その人への愛ゆえの痛みでした。神様の心を共有した人である預言者だったのです。その人生が同じだったのです。私たちこそ、厳密に言うと、聖書の言う預言者ではないかもしれません。しかし、神様の心を持っているでしょうか?神様の目を持って生きているでしょうか?神様のビジョンを持って生きているのでしょうか?

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金曜日, 4月 23, 2010

自分の現実を知れる謙遜は祝福になる

エレミヤ8;1-12
誰もが、自分の現実を認めることを喜ぶでしょうか?成功しているうちは、喜ぶでしょう。また、自分のいい部分だけを言って貰えるのは喜びでしょう。しかし、自分の過ちや罪や失敗や足りない部分を指摘されるのは嫌がります。また、何よりも相手を恨み、傷つきます。そこには、真の悔い改めや回復がありません。ただ、自分の仲の恨みや傷があります。今日の聖書箇所には、南ユダ王国の政治的、社会的、宗教的なリーダーたちの死んだ後に、彼らのしたことの報いや辱めがあることを示します。それは、神様を離れていき、神様の警告にも関わらずに、罪から離れずに、神様から離れたままでいたのです。私たちの人生に、私の人生に、神様の言葉に素直に自分の姿を悔い改める心があれば、どれほど感謝なことでしょうか?死んでからも、攻められるような人生でなくて、生きていたときには、人の目があって誰も言わないでいた真の姿のために、神様の声を無視して生きればよかったのが、実の姿を見せられたときに、誰も何も言ってくれない、そんな中で生きて、むなしい、後にまで悪い影響を残すよりは、神様の声に、状況を通して、御言葉を通して、神様の前に素直な、人の前に素直な人生を歩むことを祈ります。主の前に、人の前に悔い改めます。主よ、ひごとに愛を持って教えてください。

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木曜日, 4月 22, 2010

従順する秘訣は愛しているか?だ

エレミヤ7;21-34
神様への従順と聞くと、まずは大変なイメージがありませんか?もしくは、嫌々したがっているような、損するような、犠牲をすることのイメージでないでしょうか?しかし、今日の聖書のみ言葉はそんな誤った従順への誤解を解いてくれます。それは、「あなたがしあわせになるために、私が命じる全ての道を歩め」という神様の言葉に現れます。神様の心は、あなたが幸せになるために、神様の師赤穂の幸福の人生のゴールデンルールを歩みなさい、ということなのです、それは、神様の愛のメッセージなのです。毎朝、神様に愛されているメッセージを聞いて、ハレルヤ!と喜んで歩んでいるでしょうか?また、神様を愛しているゆえに、自ら喜んで従っているのでしょうか?従順しないといけないとか?従順の難しさを考えなくても、愛する声を毎日聞いていれば、従うことが喜びです。神様の愛の声を毎日聞いていきます。

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水曜日, 4月 21, 2010

神様の神殿に仕えながらも、’無視するクリスチャンライフ

エレミヤ7;12-20
神様の神殿で仕えながらも、神様の呼ばれた場所であるシロにいながらも、罪を犯す非常識が今日のエレミヤを通してのメッセージです。それは、ノンクリスチャンへのメッセージではありません。クリスチャンが今風に言えば、教会に通いつつも、犯している罪について指摘されます。人間としても、クリスチャンとしても、神様の言葉を聞きながらも反対の行動や生活をしていることに指摘されます。神様を信じながらも、神様の言葉を知りながらも、信じるといいながらも、反対の生活を送る、妥協の生活を送る、ことへ指摘されます。しかも、それは「しきり」に「たえず」の神様の熱心な指摘なのです。それは、神様の愛からです。あきらめない愛です。わたしはその愛を聞いて悔い改めているのでしょうか?また、その愛で人に接しているのでしょうか?本当に心が試されています。自分の怒りをSTOPできないでいるのでないでしょうか?神様のしきりに、絶えず声を掛けられる愛に悔い改めていきます。

ラベル:

月曜日, 4月 19, 2010

礼拝を宣言せよ!

エレミヤ7;1-11
礼拝は、神様の言葉が与えられて、宣言される時です。そこに、全ての人はひれ伏しします。神様の権威がある場所です。エレミヤに主の言葉が臨み、宣言せよ、と言われました。21世紀の北米にあるわたしにとって、礼拝をスタートすることは大きなプレッシャーです。びびりまくっていますが、神様の言葉をいただいて、宣言することは、それを超える私たちの人生をしびれさせるものです。呼ばれた場所で、どのような状況の中で、豊かな中でも、貧しさの中でも、主イエスを礼拝します。人々を招き、礼拝します。罪の中にいる人々に、神様と関係の無い人生を歩んでいる人々に、全く頼りにならないもの頼っている人に、救い(神様とつながる)を伝えます。OCEAN WILL PART神様によって、海を開き、この在留異邦人として生きているこの国に、神様のなされた救いと神様のこれからもなされるみわざを伝え、共にSHAREし、神様を礼拝し、弟子訓練していきます。アーメン、ハレルヤ!

ラベル:

幸福の道を探す見張り人

エレミヤ6;16-30

主なる神様は言ってくださいます。あなたの幸福の道を探せ、平安の道を探せ、と。普通、人にこのような祝福を言ってくれる人はいません。神様は見張りを立てよ、といわれます。どこに見張りを立てるのでしょうか?わたしの心です、神様の愛のみ言葉を失って、自分の思い通りに生きようとする、勘違いにです。サタンの策略はこうです。自分の思い通りに生きるのが自由なんだよ、ラクなんだよ、と言います。しかし、真の自由は、真理に基づいているものです。真理にあってこそ、自由なのです。罪に縛られるのを自由とは言いません。神様の下さる律法もわたしを縛るためでなくて、わたしを罪から守る大事な愛です。わたしを罪から誘惑から守り、神様へと導く教師だったのです。サタンはそれを誤解させ、間違った情報を入れさせます。しかし、神様の幸福は、真理にあります。今日、わたしの心を照らす、主に出会う日曜日になることを信じます。神様のみ言葉を信じ、従います。ハレルヤ!主の下さる幸福を、平安を信じ歩みます。


ラベル:

日曜日, 4月 18, 2010

神様の言葉はそしりか?愛か?

エレミヤ6;1-15
神様の言葉は、時に厳しく、痛みを伴うことがあります。あんまり聞きたくないと思うことがあります。罪を指摘されることが、人間にとって嬉しいことでなくて、自分の言い訳や言い逃れをすることに始まるからです。しかし、神様の指摘や厳しい言葉は、回復のためであり、わたしにとって愛の回復を望むからです。そして、それは神様の愛と赦し、を前提にします。神様はそのために既に主イエス・キリストを十字架に掛けてくださいました。そのことを聞いているでしょうか?また、それとも自分の反対や自己防衛に走っていないでしょうか?もしくは、その神様の愛を伝えているのでしょうか?厳しいことを言うのを誰もが嫌がります。逆恨みされるし、多くの人の反感を買い、人々から喜ばれることでないからです。しかし、今日のみ言葉1節「のろしをあげよ!」とあります、災いの時に神様からの警告を宣言しているのでしょうか?神様の愛を受け取っている人として、悔い改めがあり、その神様の愛を伝えているのでしょうか?のろしをあげているのでしょうか?わたしはこう黙想しました。神様の愛のメッセージを、祈り会を持ってスタートして、伝えていきます。

ラベル:

土曜日, 4月 17, 2010

祝福を拒む自己中心の愛

エレミヤ5;20-31

神様は下さるのが好きな方です。しかも、最上のものを、最高のタイミングで下さる方です。それは、神様がイスラエルに先の雨と後の雨を下さったことでも明らかです。イスラエルの土地は先のアメと後の雨が無くては耕して、人間が努力しても実りを見ることが出来ない地域です。そこには、絶対の神様の恵みが無くてはいけません。そこには、先の雨があっても後の雨が無くては実りを、結果を祝福を得ることが出来ません。そのために、どうすればいいのでしょうか?自分だけを愛する、自分だけの幸福を求め、神様のみ言葉を聞かない、状況を通しても語られる神様を見ようとしない、高慢な姿勢から、神様の恵み無しに生きれない、自分を認めて、悔い改めながら生きることです。それがなくては、いくら与えるのが好きな神様でも与えることが出来ません。神様の前に御言葉を聞き、神様の前に従順できる人に、低いものに恵みは、後の雨が注がれます。その日を期待して投げやりならずに信仰を持って歩みます。

ラベル:

金曜日, 4月 16, 2010

CATCH THE FIRE

エレミヤ5;10-19

神様は度重なる罪の中で、決してある程度の罪をのぞいたからOKとは言われません。神様は完全に罪を除け!と言われます。それは、完全なきよさを望まれるきよい神様の義と、何よりも、神様の愛から来るものです。その罪をのぞけ、神様のものでないものを除け、と言われます。不純物を除け、と言われます。何故そこまで言われるのでしょうか?それは、神様の炎を受けるためです。御言葉を軽んじ、罪の結果を軽く見るこの時代に、わたしに、神様の愛を受けるために、神様の指名の人生を受けるために、神様は罪を完全にのぞかられるのです。主のきよめの炎受けます。


ラベル:

木曜日, 4月 15, 2010

この時代は罪を悟らないけど、真実を求めよ!

エレミヤ5:1-9
主は公儀を行うものを探しておられます。そして、真実を求めるものを探しておられます。しかし、この世は、この時代は罪を指し示しても、堅い心で悟りません。また、自分の罪を認めません。指摘されるのを怒ります。自分の失敗から悟ることをしません。そんな損をしても何知らぬ顔です。そんな時代に、主イエスは真実を捜し求める人を求めておられます。わたしはそれでも、真実を求め、神様の愛に反応しているのでしょうか?そこに、賛美と感謝と、真実を求めたいと思いつつも弱いわたしへの悔い改めと謙遜さがあるのでしょうか?主の真実さをこの世で価値観をとして持っていきます。また、そこにわたしを愛してくださり、人々を愛する神様の愛を伝えていきます。

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水曜日, 4月 14, 2010

苦難の時に本当に頼りになるのは誰か?

エレミヤ4;23-31
神様の裁きは、徹底的な義です。しかし、神様の愛はあわれみがあります。必ず、希望を残してください。今日の聖書のみ言葉は
①「山々が揺れ動き」→安定の無い人生、揺れ動く人生を示します。
②光の無い→NO HOPE、希望の無い、いくべきところが見えないのです。
③人は一人もいない→孤独な、人の住めない過酷な状況と寂しさを感じます
④荒野に住む→生活の出来ない、将来を期待できない、計画できない、人生です。流浪の厳しい人生です。
⑤空の鳥もいない→安心も、とどまるところの無い場所です。落ち着くことが出来ません。
しかし、それでも神様はあわれみを裁きの中でも、残されます。そのような神様をまともに知るならば、神様意外に頼るしか、あわれみを求めるしかありません。しかし、人は他のものを頼り、間違いを起こします。しかし、神様のあわれみに出会うときに、この世に無い無限の愛を知ります。それ以外に頼る方はいません。神様の愛にだけ頼っていきます。そこに全ての助けがあることを信じます。

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火曜日, 4月 13, 2010

外見でなくて、心をきよめると外見もよくなる

エレミヤ4:11-22
今日も、神様は言われます。100%の従順でないのは、純粋な従順でないのは、雑種だ!と。その恐ろしさとその清さを持っていない人は、神様と共に入れないことと、神様の夢を見れずに、神様の仕事をすることが出来ないことを言われます。神様は仕事や奉仕よりも、、神様との関係(それは罪からの清さです)を大事にされます。そこに、神様の栄光と働きと素晴らしい神様の愛が流れていきます。仕事でなくて、外見でなくて、心の中にあるきよい愛を神様は喜ばれます。奉仕者として、自分はいつも結果や外に見えることを気にしてしまいます。しかし、神様は清い関係の中からでてくる神様のビジョンを、奉仕を通して、栄光をお受けになり、神様の技をなされます。神様を知ることは、①神様の清さを知ることです、そして、②自分の罪の穢れを認め、知り、悔い改めることです。そこに、神様を知ることが出来ます。心からの邪念を取り除けとはわたしにとって心痛いことです。刺されることです。しかし、神様の前に今朝も悔い改めて、神様を知ることを求めます。

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月曜日, 4月 12, 2010

神様の誘いは、収穫ある人生だ!

エレミヤ4;1-10
今日のエレミヤ書は、神様が帰るのなら何処に帰るのか?「あなたの人生の創造者である神様の元に戻れ!」という誘いをしてくれています。世の中は、悪いことをしていてもほってかれます。逆恨みされることや、自分の責任が無いからです。しかし、父なる神様は愛を持って、人格的に戻ることを誘ってくれます。それも、本当に厳しくしかってもいいのに、愛を持ってまず人格的に扱ってくれるのです。そして、その誘いは単に罪からの回復だけでなくて、収穫のある人生へ誘ってくれます。神様は、開拓すべき地で働け!と言われます。必要の無いところで時間や労力を使うな!と言われます。神様の収穫の地でのみ働くことが大事です。わたしたち人間は自分が前に立つのが好きで、何かすることで自分の価値を探します。そして、用いられないとがっかりします。ある話の時に、奉仕者がいないのを聞いて、私がしましょうか?と何の考えも無しに、祈りも無しに言いました。すると、もっと大きなところでチャンスがありますから、その時に奉仕してください、と言われました。お上手を言われたよりも、はっとしました。神様の言われるときにのみ、集中して奉仕べきであると思いました。神様の働かれる場所で、その人に、その時に奉仕します。

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最も麗しい地に入れる神様の愛


エレミヤ3;1-9-25
今日は、引越しの日でした。初めてのこの国で、一人暮らし、そいて荒野に出て行くような気持ちです。今までのKOREAN HOST FAMILYの愛から独立して出発します。いろいろな準備で大変な中、また不安な中で神様の下さった約束は、最も麗しいゆずりの地に、あなたを招き入れる、そして神様が父であることを語ってくださいました。なんと安心なみ言葉でしょうか!大きな励ましでありました。そして、主は自分の道を曲げること無くて語れました。神様の下さった道をまっすぐに歩んでいきます。父なる神様、わたしを罪から守ってください。神様の福音を伝える喜びと確信で生かせて下さい。これからの人生をさらにゆだねます。神様に用いていただく人生としてください。神様に任された仕事と奉仕で、譲りの地を、不満持たずに、感謝して、最高の人生として歩ませてください。あなたを信じ、愛します。この引越しに多くのプレゼントをいただきました。生活必需品の数々、特に、KOREAN HOST FAMILYであるキム・ヨンソン後夫妻の愛とサポートに心より感謝します。

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土曜日, 4月 10, 2010

回復の最初は悔い改めの前に、神様の愛からだ

エレミヤ3;11-18
イスラエルの民を神様は回復させてくださるとこに気がついたことがあります。それは、自分の中で「悔い改め」が先だと思っていたのが「神様がいつまでも怒っていない、しからない」というあわれみがあってこそ、最初に回復のステップが可能であるということです。神様が他人と、外で恥ずかしい行いをしていたのに、それを「自分の咎を知れ」といわれて、あなたのたった一人の夫となる、と宣言されるのです。なんと言う神様の愛とあわれみでしょうか?
Q:私の今日、いつまでも怒っていること、ゆるさないでいること、はなんでしょうか?
神様の最初に許しと回復まで宣言される、それは何でしょうか?それを行っているでしょうか?それが、難しいことを覚えます。
また、神様は牧者を送り、知識と分別によってあなたを育てる、とあります。人を支配するためでなくて、私を育てるために送ってくださるのです。
Q:私は神様に育てられているのでしょうか?神様からの知識から分別をいただいて人を育ているでしょうか?祈り、更に求めます。
神様の回復は、霊とまことによる礼拝です、ゆるしだけでなくて、礼拝者としてしてくださるまでです。そこまでいかないといけません。ここで、まず愛から差し出します。私を人格者として扱ってくださって主イエスを賛美し、その愛を先に差し出します。

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金曜日, 4月 09, 2010

価値ある関係を維持せよ

エレミヤ3;1-10
今日のエレミヤ書もすごく直接的です。淫行をする結婚している女性が、離別されて、再び前のような祝福された関係をもてるのか?回復できるはずがあるのか?と言います。今日の教訓は
1:取り戻すことのできない罪を犯すな!聖い結婚という関係を、その価値を見誤るな!また、その結婚とは、常に動く関係であることを覚えて、よく維持し、成長させないといけない。
結婚とは、単に制度でなくて聖く維持されるべき、喜びのある関係で無いといけないのです。もしも、そうでなくて、制度してあるならそこは地獄です。愛のある家庭に、天国があります。しかし、愛の無い家庭は地獄なのです。愛のあるところに、聖さがあります。
2:目を上げて「裸の丘を見よ」とあります。そこには、恥ずかしさが無いのか?という問いかけがあります。罪に対する恥ずかしさがあるのは、STOPサインになります。しかし、それを失った霊的な無感覚がどれほど恐ろしいことでしょうか?
3:後の雨が来ないのは何故でしょうか?人間的に一生懸命に仕事をしても上手くいかないのは、神様の関係が壊れているからです。それは、神様のことを後回しにしては、祝福はないのです。
イスラエルには、後の雨がないと地の収穫が無いと聞きました。神様の最終的に祝福をもらわないとどうしようもないのです。神様とともに仕事をしないと自分の企業をすることができないです。
4;そして、言葉だけで「心の無い」悔い改めを嫌われます。それは、主イエスとの関係だからです。主イエスお求めるのは、心のある関係だからです。
5:背信のイスラエルを見て、ユダは何故学びば無いのか?人の罪を見て、非難だけして、人を罪に定めるよりも、自分が罪に気をつけて正しい関係を神様と人と持つべきなのに、心を尽くして主に帰るべきなのに、そうしなかたったのです。
今日、主イエスにある関係を持っていきます。大事な鳥度もすことのできない関係を壊さずに歩みます。

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木曜日, 4月 08, 2010

人は手にはいらないとILEGALを考える

エレミヤ2;26-37
罪は、自分がほしくて手に入らないとわかると不正をしてでも、手に入れようとします。そこに、罪への意識は無いかもしれませんが、それは神様を離れた関係から起こる罪であり、IDEAなのです。タマルを求めたダビデの息子は、罪の中で関係をおこしました。正しい関係で、彼女を求めることができるにもかかわらず、です。人間は手に入らないと思いつめて不正を犯して、罪を犯そうとします。しかし、神様との関係にある正しい道があるはずのです。罪を犯す前に、神様の道があるのです。罪の結果への神様の裁きは、王様、民、宗教指導者、すべてのリーダーたちに(政治、社会、宗教;神様との関係の仕事)望み、罪の結果である辱めが起こる、と言われます。罪は不正ですから、神様との関係が無い中からおこるものですから、辱めがあります。まともな関係の中でできないことなのです。しかし、罪に麻痺した世界にはそれがわからないときがあります。自分自身もそうです。罪を犯すことを当たり間の問題が無いようにするために、「木や石(自分で作った偶像)自分の父や母とします」その神様によって、自分の罪や不正を(いまだ不正だと言い訳している段階)正当化します。自分のアイデンティを自ら壊しておいて、自らの好き勝手な人生を生きておいて、失敗して、問題を犯したときに、その時になって、神様に助けを求めます。まさに、私のような人で無いでしょうか?他の宗教とキリスト教の違いは何でしょうか?関係の宗教であるといえます。何か、修行をしてlお金を持っていって、得る祝福や利益でなくて、関係から来るものです。親しくない人を助けるものではありません。キリストにある関係と、神様の家族の関係を持っていきます。神様助けてください。

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水曜日, 4月 07, 2010

罪の内容はぶっちゃけやばすぎなREALだ!

エレミヤ2;14-25
罪を犯した人の内容が今日のエレミヤ書には、性的な罪について書かれており、また性的な罪を比喩して、ほかの偶像に使えることを書いています。罪とは、非常に汚いものであり、REALなものです。汚れとは、隠せないものです。神様の子供であった人が、罪の奴隷となり、罪のしもべとなります。それは、自分が自由に生きたいように快楽を(いや、快楽と思っていないかもしれませんが)楽しむ、非常に恥ずかしい、刺す痛みのあるものです。主が導いたのに、道の途中で神様をあなたが捨てたとエレミヤ書は告げます。神様はあなたを捨てることがありません。しかし、私が神様を捨てるのです。自分のしたいように生きるのが、自由だと勘違いをしてです。それは、自分の本来の姿を失った、苦しい人生なのです。警告を受けているうちが幸いです。警告されているうちが、神様の愛なのです。今日、神様の純粋な愛のうちに回復します。神様の愛を宣言し、伝えます。

ラベル:

火曜日, 4月 06, 2010

First LOVEを取り戻せ!

エレミヤ2;1-13
私にとって一番価値あるものはなんでしょうか?そして、この世で一番価値のあるものは何でしょうか?それは、物でなくて関係です。仕事場でなくて、関係です。そして、いつまでもなくならいものがあるならば、それを手放さない、でしょう。それは、神様への最初の愛です。いつまでもなくならない愛であり、いつまでも消えない関係です。それを壊すのは何でしょうか?人間自らが壊してしまうのです。神様の永遠の愛を忘れてしまうのです。エレミヤに次のような主のみ言葉がありました。それは、神様のみ言葉が望むのは一方的な恵みです。しかし、主のみ言葉を聴く人は、聞き続ける関係を持ち続けます。生きた関係です、昨日の恵みでは生きません。FIRST LOVEから、神様への信頼と神様の声を聞く生活があります。その信頼は、今まで私を死の谷を歩ませ、導き、エジプトから解放された神様からきます。私の人生の導き手であり、罪からの解放者であり、自由を与え、愛と恵みによって導かれた方です。その方を信じるときに、永遠になくならない泉がわきます。神様の関係はそのようなものです。しかし、それを壊れた水がめに取り替えます。それは、自分の生きたいように生きたい、というサタンのうそに騙された、人間は「自分のためにバアルという偶像を作り、偽預言者をたて、預言者も自ら欺きます」主を求めません。主の臨在を求めません、主がともにいる関係を捨てて逃げます。それは、自らを壊す行為です。今日、主イエスへの愛の関係を更に求めます。私の価値観を新たにします。

ラベル:

月曜日, 4月 05, 2010

わたしは神様のみ言葉を成すために何を見ているのか?

エレミヤ1;11-19
主はエレミヤに語れます。「あなたは何を見ているのか?」と。それは、今のわたしたちにも同じです。主の与えた御言葉を成すために、主の使命をなすために何を見ているのか?と問われます。それは、主の与えられた使命のために、あなたの状況を見ているのか?現実を見ているのか?あなたの過去の痛みを見ているのか?それとも、主の与えられた状況をビジョンを持ってみているのか?と問われるのです。神様のみ言葉を成すために、ビジョンを持って、行動しているのか?物事を神様の視野で見て、準備しているのでしょうか?神様は北の国からのユダ王国への偶像礼拝の裁きを

下すことを宣言されます。また、それを宣言するエレミヤに、恐れるな!腰の帯を締めよ、と言われます。それは、真理を持って準備せよ、しっかり立て、とうことです。もしも、しっかり立たないならば、あなたを打ち砕くとまで言われます。恐れるな、そしてあなたを城壁のある町、鉄の柱、青銅の城壁とした、と言われます。若く弱いものを最強の強い者として、人々が頼るものとして立てる、と言われるのです。主は救いと叫べ、と言われるのです。今日、主のなされる御業のために準備して出て行きます。今日の礼拝に向けて、神様の状況を見るビジョンを与えてください、心を、計画をなさせてください。

ラベル:

日曜日, 4月 04, 2010

召命は神様のTOUCHからだ!

エレミヤ1:1-10
今日から、エレミヤ書のQTです。サラン教会で最後の説教をしたのがエレミヤ書、そして結婚の導きを得たのもエレミヤ29;11からでした。これからの毎日のQTが、神様の導きにとても気になります。エレミヤが「主の言葉」を受けたのは、ユダ王国のリバイバルをなして言ったヨシヤ王の宗教改革の時代とそして、実際に南王国ユダが滅びることを目の前にして、預言の成就を見ると言う時期でした。時代的にも、状況的にも、苦しいときでした。そして、彼は若いときに、ベニヤミンの地にいた時に、「主の言葉」を受けました。彼にとって、神様の召しは非常に恐れとプレッシャーを抱かせました。若いときに、状況も難しいときにどのように行動すべきでしょうか?わたしにとって、年齢は若くなくても、恐れのある状況です。立ち上がるべきときに、恐れがあります。しかし、今朝の御言葉の中で、主イエスのTOUCHがありました。このエレミヤ書の箇所は、オンヌリ教会でVISION礼拝を始めたときの御言葉です。若い人たちを神様のビジョンで胸を熱くしてもらい、神様の計画を持って生きることを願い、日本宣教のビジョンを持って歩んでもらう、本当に自分自身も燃やされる礼拝でした。今、自分が一人で立とうとするときに、恐れがあります。以前の他の伝道師たちが共にいるわけでもありません。状況も何もか開かれているわけでありません。エレミヤにとっての状況はわたしよりも、遥かに難しい状況だったでしょう。自分の国が滅びるときに、「あなたを母の胎内にいるときから選んだ、国々の預言者として召した」と言われるのです。何と深い神様の計画でしょうか?生まれる前から、神様の召しと計画があるのです。それは、決して絶望の状況でなくて、そのような状況の中で、国々の(全世界)預言者とされたということなのです。ありえない話で無いでしょうか?エレミヤもそれを信じることも、受けることも難しい状況でした。しかし、そんなエレミヤに神様のTOUCHがあります。彼の唇に触れてくださったのです。今朝、主イエスの十字架に触れた人の説教がありました。イエスの十字架に触れた人に神様のTOUCHによって立てられることを信じます。主イエスのあってたちがあって生きます。主イエスの福音を国々に伝えていきます。

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土曜日, 4月 03, 2010

イエスの復活は人を立ち上がらせる

ヨハネの福音書20;11-23
主イエスの死は、弟子たちや女性たちを悲しみと絶望に落としました。また、主イエスの死は、人生の目標を失わさせました、それは、いまだに彼らが聖書の預言とイエスがメシアであることを人間的にしか理解できてなくて、自分の理解の中に、神様を、自分を、自分の人生を閉じ込めている時間でした。ですから、今日マリヤが復活の主イエスにお会いした時に、墓の管理人だと思ったという現在の友人同士で「何か勘違いをした」時の笑い話になるような状態だったのです。しかし、そんな女性に最初(大変光栄な、イエスを愛された女性答えてくださりました)に復活のイエスは現れてくださり、ご自分が弟子たちに現れてくださることを使命としてくださいました。しがみついてはいけない、と。弟子たちに現れたイエスは
①聖霊を受けるように言われました。それは、もはや自分の力で聖書を信じるのでなくて、聖霊によって聖書を読み、信じ、そこに生きるためです。
②あなた方の罪をゆるされることを宣言され、人々の罪をゆるす権能を与えられました。それは、罪からのすべての痛みから関係から自由になることでした。
③罪から自由にされた人には、平安があります。人との関係、神様の関係にこれ以上に恐れがありません。
④そして、聖霊の人は遣わされます。それは、主イエスと同じ召しのある遣わされることでした。私のたちの主イエスの復活は、私を賛美させ、立ち上がられさせます。私の倒れた人生を、壊れた人生を立て直し、目的のある人生に戻します。今日、復活の主イエスによって立ち上がる人生を歩みます。ハレルヤ!復活の主イエスを賛美します。

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金曜日, 4月 02, 2010

イエスの死はまことの献身を生み出す

ヨハネの福音書19;31-42
主イエスの十字架の死は、①イエスの弟子でありながらも、ユダヤ人を恐れていて公に信仰を示せなかったアリマタヤのヨセフという人と、②夜に人の目を恐れてイエスを尋ねてきたニコデモという人を、信仰の告白と献身へ導きました。また、③イエス・キリストの十字架の死は「血と水が流れる」ことを通して、確かに人間の死を医学的にも確証させました。それは、私たちがイエスを信じるためなのです。主イエスの死は、終わりでもなく、かえって恐れさせるためでもなくて、主イエスを信じる、という告白をさせるためだったのです。そして、④一つ一つの聖書の預言が成就することを通して、イエスを信じるようにするためだったのです。聖書の主イエスへの預言が350あると言われます。それを完全に成し遂げるための確率はアメリカで一番広いテキサス州にコインひとつをおいて、テキサス中にコインを人間の腰まで敷き詰めて、それで探せるなら、ということだそうです。主イエスの死は、人の死の終わりや、無力さでなくて、人の献身を、命を生み出しました。今日、主イエスを証していきます

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木曜日, 4月 01, 2010

人生を完了させるのは愛

ヨハネの福音書19;23-30
主イエスは、十字架にかけられたときに、ご自分の着物が分けられたり、くじ引きされる、屈辱にあいます。それは、どんな辱めだったことでしょうか?それは、先日のQTにあったように、詩篇22編の成就でした。辱めを受けること、それを黙って受け取ることも、主イエスの使命でした。しかし、その使命の根底にあるのは主イエスの愛でした。神様への愛であり、人間への愛であり、私への愛でした。イエスに最後までついていった女性たちは、イエスを最後まで愛されました。そして、イエスもご自分が死ぬ最後の瞬間、何もできないはずの瞬間に、一番自分が余裕が無くて、それをだれも文句の言うことの無い瞬間に、母や女性たちや弟子たちを愛されました。ヨハネに向かってイエスの母を託されたのです。今日のQTから学べることはなんでしょうか?
1:愛が人生を完成させることです。イエスの十字架は愛を持ってなされたことであり、従順なのです。それは、関係です、神様と私とイエス様の愛の関係なのです。
2:愛するとは、最後まで愛することです。途中で投げ出すのが私たちですが、イエスの愛は最後までです。それは、相手のために命を投げ出すことでした。それは、変わることが無く、永遠の愛です。主イエスの愛を賛美します。責任を持った愛を持ちます。
3:愛とは、自分を明け渡すことです。自分の主張や、意見でなくて、願いどおりの相手でもなくて、お渡ししていくことです。神様にお任せすることです。それは、現実的には相手に明け渡すことでもあります。
4:私に与えられた使命とは、仕事でなくて、愛の関係なのです。愛をなしていくことがそれ自体が使命なのです。人間は勘違いして、仕事や成果をなそうとします。しかし、愛を持っていくところに神様の奇跡が起こります。十字架の奇跡が全世界の運命を変え続けています。その人生を変える主イエスの十字架の愛で生きます。