坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

日曜日, 4月 04, 2010

召命は神様のTOUCHからだ!

エレミヤ1:1-10
今日から、エレミヤ書のQTです。サラン教会で最後の説教をしたのがエレミヤ書、そして結婚の導きを得たのもエレミヤ29;11からでした。これからの毎日のQTが、神様の導きにとても気になります。エレミヤが「主の言葉」を受けたのは、ユダ王国のリバイバルをなして言ったヨシヤ王の宗教改革の時代とそして、実際に南王国ユダが滅びることを目の前にして、預言の成就を見ると言う時期でした。時代的にも、状況的にも、苦しいときでした。そして、彼は若いときに、ベニヤミンの地にいた時に、「主の言葉」を受けました。彼にとって、神様の召しは非常に恐れとプレッシャーを抱かせました。若いときに、状況も難しいときにどのように行動すべきでしょうか?わたしにとって、年齢は若くなくても、恐れのある状況です。立ち上がるべきときに、恐れがあります。しかし、今朝の御言葉の中で、主イエスのTOUCHがありました。このエレミヤ書の箇所は、オンヌリ教会でVISION礼拝を始めたときの御言葉です。若い人たちを神様のビジョンで胸を熱くしてもらい、神様の計画を持って生きることを願い、日本宣教のビジョンを持って歩んでもらう、本当に自分自身も燃やされる礼拝でした。今、自分が一人で立とうとするときに、恐れがあります。以前の他の伝道師たちが共にいるわけでもありません。状況も何もか開かれているわけでありません。エレミヤにとっての状況はわたしよりも、遥かに難しい状況だったでしょう。自分の国が滅びるときに、「あなたを母の胎内にいるときから選んだ、国々の預言者として召した」と言われるのです。何と深い神様の計画でしょうか?生まれる前から、神様の召しと計画があるのです。それは、決して絶望の状況でなくて、そのような状況の中で、国々の(全世界)預言者とされたということなのです。ありえない話で無いでしょうか?エレミヤもそれを信じることも、受けることも難しい状況でした。しかし、そんなエレミヤに神様のTOUCHがあります。彼の唇に触れてくださったのです。今朝、主イエスの十字架に触れた人の説教がありました。イエスの十字架に触れた人に神様のTOUCHによって立てられることを信じます。主イエスのあってたちがあって生きます。主イエスの福音を国々に伝えていきます。

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