坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

木曜日, 4月 08, 2010

人は手にはいらないとILEGALを考える

エレミヤ2;26-37
罪は、自分がほしくて手に入らないとわかると不正をしてでも、手に入れようとします。そこに、罪への意識は無いかもしれませんが、それは神様を離れた関係から起こる罪であり、IDEAなのです。タマルを求めたダビデの息子は、罪の中で関係をおこしました。正しい関係で、彼女を求めることができるにもかかわらず、です。人間は手に入らないと思いつめて不正を犯して、罪を犯そうとします。しかし、神様との関係にある正しい道があるはずのです。罪を犯す前に、神様の道があるのです。罪の結果への神様の裁きは、王様、民、宗教指導者、すべてのリーダーたちに(政治、社会、宗教;神様との関係の仕事)望み、罪の結果である辱めが起こる、と言われます。罪は不正ですから、神様との関係が無い中からおこるものですから、辱めがあります。まともな関係の中でできないことなのです。しかし、罪に麻痺した世界にはそれがわからないときがあります。自分自身もそうです。罪を犯すことを当たり間の問題が無いようにするために、「木や石(自分で作った偶像)自分の父や母とします」その神様によって、自分の罪や不正を(いまだ不正だと言い訳している段階)正当化します。自分のアイデンティを自ら壊しておいて、自らの好き勝手な人生を生きておいて、失敗して、問題を犯したときに、その時になって、神様に助けを求めます。まさに、私のような人で無いでしょうか?他の宗教とキリスト教の違いは何でしょうか?関係の宗教であるといえます。何か、修行をしてlお金を持っていって、得る祝福や利益でなくて、関係から来るものです。親しくない人を助けるものではありません。キリストにある関係と、神様の家族の関係を持っていきます。神様助けてください。

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