罪を離さないと霊の激動を感じる
ヨハネの福音書13;21-30
主イエス・キリストは「霊の激動を感じられました」それは、主イエスの弟子から裏切りが出ることでした。
罪には、段階があります。それは、急激に失敗する人は少ないということです。もちろん、そういう人もいます。しかし、急激な事故で失敗する人は少ないということです。それは、ユダは
1:普段から会計を任せられるほどに信用が有る人でした。実力もある人だったでしょう。しかも、主イエスがはっきりと「パンを浸したものが裏切る」ということで示されても、疑う弟子がいなかったのです。
それは、ユダの人格の一部分は、立派に奉仕をしながらも、会計では既に盗みを働き、罪を犯しながら歩んでいたことでした。少しずつ、罪はその人格を蝕み、悔い改めないときに、事故を起こします。
2:主イエスは、あえて警告をしてくださったのです。罪の悔い改めのチャンスでした。もしも、罪を悔い改めるなら、回復のチャンスがあったのかもしれないのです。
3:それは、罪を人々と神様の前の明るみに示し、回復のチャンスでした。しかし、それでも自分の道を行く人を止めることはできません。それは、神様は人格を尊重されます。罪の告白も愛の元に自らの意思なのです。
4:すでに夜の時に、罪は起こります。罪を示されても、そこへ進む人は必死で相手を攻撃し、相手のせいにします。
今日、思わされたことは「罪をそのままにしている」ならば、霊の平安が無いということでした。思わされたことは、一つは教会で立派に奉仕をしながらも、お金の問題を抱えている人のことでした。それは、牧師の悔い改めの勧めにもかかわらず、かえって牧師を攻撃している人のことでした。しかも、立派に奉仕をしているのです。罪を抱えている人でも、みかけは立派に奉仕します。しかし、内情はどうでしょうか?また、自分に示されたのは、相手が悪いと思う人であっても、自分の赦さない思いがあるときに「自分の人生の祝福の足を縛る」ことでした。失礼だと思うことがありました。しかし、それを持っているのは自分の責任であり、相手を縛り、自分を縛ります。祝福を閉ざします。主イエスのみなによって、霊の激動を受けて悔い改めます。ラベル: ヨハネの福音書
神様の心が分かるか?
ヨハネの福音書13;12-20
主イエスは弟子たちに、師であり、主である私があなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗いなさい、と言われました。まるで、私の心が、神様の心や願いが分かりますか?という感じです。生きる人生の模範は主イエスです。生きる態度とその結果もたらす祝福を見せてくれます。それは、相手に仕えう心と愛を持たせます。主イエスが私に言われるようです。私の心と願いが分かるのか?分かって欲しい、その祝福を享受して欲しいといわれるようです。しかし、そのような中にもいすカリオテのユダもいました。主イエスの願いは、裏切る弟子にも語られました。神様の心を持って家族にも人々にも仕えます。相手をゆるして仕えます。まず、否定的な相手にも、裏切る弟子にも、十字架の苦難に逃げ出す弟子にも、自分の名誉を優先していた弟子にも語られたイエスのように、否定的や怒りで見ずに、積極的な言葉を持ちます。ラベル: ヨハネの福音書
自らオープンに出来る恵み
ヨハネの福音書13;1-11
主イエスの恵みは、自ら仕えてくださることでした。自らの権威や父なる神様から来ていることをおいて、自ら食卓の後に、手ぬぐいを腰にまとって神様の愛を残すところ無く示されるために、「弟子たちの足を洗いに」いかれました。弟子たちには、その種イエスの姿や愛が理解できませんでした。人のしたくない、人がすることでない、奴隷の仕事である、しかも異邦人奴隷のすることを主イエスがされました。何故でしょうか?
私と主イエスの関係は、人ができない、奴隷になるまで卑しめられた場所まで、死ぬまで従われた主イエスが私の見せたくない、私の聞かせたくない、罪について、けがれたことまで、さわって癒して、きよめて下さったのです。主イエス・キリストがまず、奴隷になってくださったから、私は罪の奴隷から解き放たれて、自由となって、義の僕となったのです。今日の適用はこうでした。
1:まず、主イエスに私の足を洗っていただく(罪のきよめ)
2:罪のきよめ、告白が出来る関係であることを喜ぶ
3:自ら先に行動する。自ら仕えていく
4:今日出会う留学生に声を自ら掛ける。
今日は少しミスりました。疲れていたので、もう少し時間を共にすることが出来ませんでした。また、じぶんの生活を立て直していきます。主イエスにある礼拝の生活をします。ラベル: ヨハネの福音書
神様の栄光の重さを知らないと選択を間違う
ヨハネの福音書12;37-50
主イエスを知っても、信じないと力がありません。神様との関係はありません。救いも得ることが出来ません。また、信じて救われても、従うことがなければ、最大限の祝福を受け損ねます。というよりも、神様の栄光の重さが、地上での人生の安楽さ、栄光とすりかえられてしまうのです。これは痛いことです。しかし、今日のQT箇所のパリサイ人をはばかって、イエス・キリストを信じながらも、告白しなかった指導者たちは大きなものを失ったのです。彼らは目の前にイエス・キリストに出会いながらも、信じることを告白できずに、目の前にいる宗教勢力、社会の目を恐れたのです。目の前にいるイエス・キリストよりも自分の人生や立場や生活を失うことを恐れたのです。どちらが、恐れるべき、怖れるべきでしょうか?もちろん、主イエス・きりストでしょう。どちらが、重い救いを、永遠の命をくれるでしょうか?どちらが永遠の安楽をくれるのでしょうか?どちらが、本当のこの世の栄をくれるのでしょうか?どちらが、本当に永遠に続く栄光をくれるのでしょうか?主イエス・キリストです。しかし、私たちは恐れます。ほんの小さな出来事や、人間関係、問題を恐れます。今日、主イエス・キリストのゆえに恐れない選択と人生を歩みます、少し前の選択は恐れさせることがありました。自分は馬鹿でないかと?思いました。また、そこから来る人間関係の壊れを恐れました。しかし、主イエス・キリストにあって勇気を持って奮い立ちます。神様、弱い私を、信仰のない私を助けてください!ラベル: ヨハネの福音書
栄光とは自ら十字架を選ぶこと
ヨハネの福音書12;20-36
主イエスは、「人の子が栄光を受けるときがきた」と言われました。それは、イエス・キリストの死を意味していました。それは、普通世の中的には、ありえない話であります。また、私たちが、私が選びたくもないし、行きたくも無い道なのです。しかし、自分が死なないかぎりには、私たちの救いはありませんでした。私の命は主イエスのものです。しかし、この告白をマジでするときに私たちの心はなんと震えることでしょう。なんと私たちの者や人間関係や、物や色んなものに頼っていることでしょうか?しかし、信仰とは「私の所有権だったものが、神様のものであることを認め、その管理者として喜びを持って生きることです」その最大の最高のモデルはイエス・キリストです。今日は難しい決断をする日でした。人間的にはしない決断だったかもしれません。しかし、私の所有者はイエス・キリストです。私の境界線はイエス・キリストの所有にあります。それも、イエス・キリストの十字架で買われた人生を誰も奪うことは出来ません。また、犯されることがあってもいけません。それは、全て関係の中にあるものです。いい加減に他の人も、自分自身も扱ってはいけません。主イエスの十字架の人生を、栄光の人生を歩みます。ラベル: ヨハネの福音書
あなたの関心は自分に人気を集めることか?
ヨハネの福音書12;12-19
主イエスを、王を迎えた人たちには二つの反応がありました。エルサレムに入場されるイエスに「ホザナ、王の王イエスに」と賛美を捧げる人たち(そこにはイエスが死者を復活させた奇跡を見て信じる人たちがいました)がいるのと、パリサイ人たちのようにイエスが人気を持っていくのにねたみと嫉妬と怒りをもち、陰謀をめぐらせている人がいました。それは、自分の宗教人としての立場や生活が崩れていくことに我慢なら無かったのです。それに対して、主イエスはどうだったでしょうか?彼は権威や力を捨てて、平和の王としてこらえた、自分を十字架にかけて殺して、罪の購いとなるために来られたのです。人を支配するために来ませんでした。かえって、罪の支配を打ち破り、私を自由にするためにいらっしゃったのです。彼の一番の目的は私を罪から自由にする人生でした。それは、自分の人気でなくて、自分に集中させる人生でなくて、イエスは神様であるのに、神様に人々を集中させる人生を謙遜に、自分を捨てて歩みました、そのゴールは地上での人生だけでなくて天国の人生とつながっているものでした。しかし、パリサイ人の目的は自分に人気を集中させる地上の富や名声にありました。主イエスはロバの子に乗ってこられたのと逆にです。今日、私の人生を主イエスに集中してもらう人生を歩みます。他の人が人気が有ることにも、主イエスの十字架の道、本当に神様から人気を得る人生を歩みます。他の人の成功に拍手をします。ラベル: ヨハネの福音書
自分が負けているように見えても命あるミニストリーは違う
ヨハネの福音書11;45-57
イエス・キリストのラザロの復活の奇跡を見て、2つの反応が起こりました。
①一つは、イエス・キリストを信じる反応。これが普通でしょう
②そして、イエス・キリストを拒否し、自分の立場を否定され、自分の経験や教えを揺るがされることに嫉妬と怒りを覚えて、イエス・キリストをのけ者にしようとする人々→それは、最終的にイエス・キリストを殺そうとする陰謀へと変わります。特に祭司カヤパがイエス・キリストを国民の身代わりにしようと言うことで、くしくも自分で意図せずに、預言をしています。自分の立場や、経験、聖書をよく知っているはずの人がそれを脅かされて、自分よりもセイコウをしている姿を見て、ねたみを起こすことが起こっています。
それは、命の無い宗教です。命の無いミニストリーです。
逆に、イエスはこのねたみのために、公然と歩くことが出来ず、荒野に近いところに避けました。しかし、過ぎ越しの祭りにはイエスを見た人は密告することと陰謀をもたれているのです。人間の眼には、状況はこちらが悪く、悪に悪で対応することがいいように思えても、神様の救いの計画がなされること、信じるなら神様の栄光を見るという(11;40)信仰を持って歩んでいるのでしょうか?悪さえも用いられる神様の全宇宙救出計画を信じ、そのために今の私の大変な状況でも、荒野に近いエフライムの町においあやられたとしても、信仰を持って喜んでいるのでしょうか?神様の栄光を期待しているのでしょうか?主の栄光を期待します。ラベル: ヨハネの福音書
イエスを奇跡を起こさせずに、とどめさせる人間の信仰
ヨハネの福音書11
信仰とは、人間が作り出し、成長させるものではありません。今日の聖書本文は、イエスがマルタと話した後に、マリヤに出会う場面ですが、そこにイエスはとどまったとあります。イエスが奇跡を行うために、ベタニャに入ることも無く、既に死んでしまったのだからどうしようもない、生きていたら何とかなるのに、というマルタの進行とイエスへの理解があります、マリヤの周りの人々も彼女を慰めるために、周りによっていきました。そして、しまいにはイエスがいたのに何も出来なかったのか?という文句を言います。神様を自分のタイミング、自分の思い通りに動かそうとするために、そうならないときに、不満が出るのです。全能の神様を勝手に時間と空間の制限へ、私にある範囲で神様の技をしてもある、縛る制限をしようとするから、難しいのです。自由に神様の全能のみ技をなさせない人間の限界ある、制限された信仰があります。信仰は神様からのプレゼントであり、信仰を成長させてくださるのも神様です。実際、私たちの信仰は難しい局面でなかなか神様のタイミングや計画に合わせようとするしかない、弱さがあります。しかし、主イエスはその弱さに理解できない人ではありません。神様の計画にある信仰へとジャンプします。ラベル: ヨハネの福音書
人の力では不可能な時に東問西答はおこる
ヨハネの福音書11;17-27
韓国語で、東問西答<>という言葉があります。それは、東はどこ?と聞いているのに西を答える、というようなとんちんかんな、かみ合わない会話を言います。聖書には、福音書には、主イエスと会衆、主イエスとパリサイ人、そして主イエスと弟子たち、という仲にそれがよくみられます。それは、神様の知恵と御言葉が、人間にはあまりに理解できず、自分の宗教的な立場やプライドから、そして人間的な観点から話すために起こることです。主イエスは、昨日のQT箇所で「神様の栄光を見て信じるために」と言われました。弟子たちは、マルタとマリヤたちは主イエスを信じていたはずなのに、聖書の言うメシアであるならば当たり前のことを理解できず、信じれずにいます。何故でしょうか?彼らの眼には、地上の人生が全てであったからです。
イエス・キリストがエルサレムから3KMのベタニヤに着いたときには、ラザロが死んで墓に入って4日過ぎていました。既に、人間の力では死人をどうすることもできません。そこで、マルタの最初の言葉が21節「主よ、ここにいてくだされば、私の兄弟は死ななかったでしょうに」という痛みのある嫌味でした。さらに、22節「主イエスが願うならば、神様は何でも与えてくださる」という言葉で、自分の願うどおりに主イエスが動いてくれなかった、という文句だったのです。それに、主イエスは23節「あなたの兄弟はよみがえります」と宣言されました。神様のみ心だったのです。ところが、それに対しても、マルタは24節「終わりの日に彼がよみがえることを知っております」という、傷から来る嫌味もしくは、人間的な聖書の解釈でで返したのです。すでに、彼女にそういう余裕は無く、人間的に話すことしか出来なかったでしょう。実は必死で平静を装いながらも、相手を傷つけることなく、言おうとした言葉だったかもしれません。普通なら、主イエスの言葉に「はい?」か「いいえ」で答えるはずでしょう。しかし、そのどちらもありませんでした。
そして、主イエスは私はよみがえりであり、命であり、私を信じるものは死んでも生きる、というご自身のアイデンティと信じるものへの身分の変化、アイデンティを語りました。しかし、それにもマルタは主イエスのアイデンティに反応することも、復活をも答えずに、「復活を信じますか」という質問に、「はい」でも「いいえ」でもないのです。ただ、あなたは「世に来られる神様の子」であることを信じます、と返事をします。全くのかみ合わない会話です。主イエスの意図されることや、願いではなくて、常に自己解釈しての答えであります。人の力では不可能なときに、奇跡は起こります。また、人の頭や経験や自分の立場では、人間の傷があるときには神様の奇跡やクリスチャンの身分を理解できません。ですから、主イエスのみ技をとどめてしまいます。今日、主イエスの信仰の招きに「はい」と答えていきます。ラベル: ヨハネの福音書
神様のMASTER PLANには愛がある
ヨハネの福音書11:1-16
主イエスの愛された弟子である、マルタとマリヤそして弟のラザロがいました。そのラザロが死ぬ病にいた時に、「これは死で終わるものでなくて、神様の栄光のためである」といわれました。次の5節に「主イエスははマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」とあります。神様の計画には、神様の勝手な都合など言うことはありません。私たちは、世の中の、人生の、いろんな悪い権力や権威主義の下にあって、上からの計画を信じれません。恐れます、利用されるのでないかと。しかし、まことの真理なる神様の計画は愛です。彼らにとって、最高の人生を待っています。そして、主イエスの弟子たちは神様の計画やラザロへの神様のわざ、主イエスの言葉を分からずに、信じれずにいました。主イエスが全能の神様であるならば出来ないことはないことを知らずに、信じれずにいました。私たちクリスチャンはどうでしょうか?本当に神様の計画が、最高の驚きべき事件を起こし、神様の愛の下にあると告白できるのでしょうか?いよいよ、主の働きにスタートしようとしています。神様の計画には、愛が土台にあることを信じ、歩んでいきます。ラベル: ヨハネの福音書
使命に忠実なら200倍、千倍、万以上の祝福がある
ヨハネの福音書10;31-42
またしても、イエスを殺そうとするユダヤ人の陰謀と怒りが起こりました。イエスは自分たちがイエスの言葉を信じられないなら、奇跡を、もしくはイエスの矛盾の無い人生を通して信じよといわれました。また、聖書を解き明かされて、神様から使わされたことを証されました。それは、イエスを殺そうとしているユダヤ人への神様の愛です、悔い改めるように、可能性の無い自分の反対者、自分を殺そうとする人へのメッセージなのです。また、自分の役割に忠実なバプテスマのヨハネを通して、「しるし」をお行わなかったにもかかわらず、しんじつなはなしを、証を通して、多くの人がイエスを信じることになりました。自分の役割に飽きることなく忠実に、投げることなく、忠実に、愛して生きるところに、神様の大きな祝福と働きと用いられることがおこります、今日も、あきらめずに愛し、仕えます。ラベル: ヨハネの福音書
安全な人生を生きたいですか?
ヨハネの福音書10;22-30
主イエスは、
WHEN:冬に
WHERE:エルサレムの宮の中で
信じないユダヤ人たちと終わることの無い論争をしていました。それは、論争でなくて自分たちの立場や宗教のために、主イエスをメシアとして受け入れない一方的な論争でした。主イエスは、ユダヤ人たちがメシアなる主イエスを受け入れない理由を私の羊でない、という所属、アインデンティの問題を言われます。神様の羊は、①私の声を聞き分ける、世の中の声と、宗教SHOWをする人の声を、御言葉を区別します。
②自分の所属はどこか?誰か?自分の所属は地上に住んでいても、天国であることを知っている人
③自分の主人は、世の中でなくて、父なる神様と一つである主イエスである人
神様の羊の特徴は何でしょうか?
1:神様、主人の声を聞き分けて、世の声についていきません。
2:神様が私を知っていることを喜びます。罪のゆえに隠れずに、義としてくださる神様に知ってもらえる喜びを持ちます。
3:FOLLOWING JESUSイエスに従い、ついていきます。
28節
神様の羊、民たちの安全は何でしょうか?
①永遠の命を与えられた。人生の最後の目標、ゴールが決まっていてそこから今の人生をどのように生きるべきか知っていく人生です。なんと、幸いなことでしょうか?むなしい健闘をしない、ということです。
②決して滅びることの無い人生、すでにつみ赦されて、義とされていく人生です。裁きは終わったからこそ、罪の告白が出来るのです。
③誰も、神様の手から私を奪い去ることが出来ないのです。何故でしょうか?29節→偉大な神様に誰も勝てないからです。私は、はたしてそんな偉大な神様に声に聞き従い、頼っているのでしょうか?それとも、外を捜し求めているのでしょうか?外を頼って、世の中に声に揺るがされている人生を歩んでいるのでしょうか?
安全なる羊飼いイエスの声を聞いていきます。ラベル: ヨハネの福音書
良い牧者と宗教SHOWをする人の違いは?
ヨハネの福音書10:11-21
まことの牧者と偽牧者との違いは何でしょうか?それは、十字架の福音です。福音とは愛です。しかも、見返りを求めない愛です、支配しない愛です。その人の幸福のために愛します。その人を罪から自由にする愛です。そのために、自分を犠牲にしても、喜びがあります。自分の利益のためでありませんから、神様のものである群れを、神様の所属として扱います。自分の所属ではありません。そこには、一つの群れがあります。そこに、指導者が立てられます。それは、主イエスに聴き従うことが会ってこそ、初めてなされることです。命を捨てる牧者である主イエスに従うことが、牧者です。自ら捨てる権威を持っています、他人にさせられる従順ではありません。自ら進んでするのが従順です。しかし、宗教SHOWをする人には、従順がありません。自らの立場と経験が優先し、羊のための何よりも犠牲がありません。まことの愛でなくて、自由にする愛でなくて、自分が褒められ、自分に集中させます。神様の所属の羊ではないのです。固執するのです。神様のみ声を聞く、従うところに、自らが主イエスに牧されている人に、牧者となっていく祝福があります。主イエスの犠牲があるところに、もう一度、命を得る権威があります。自ら命を捨てない人には、もう一度命を得る権威は必要が無いでしょう。はたして、自分のようなものがそんなことができるのか?他の人がしたらとか、自分はそこまで出ないから、という言い訳が自分の心に浮かびます。しかし、主イエスに仕える人に例外はありません。また、良い牧者と宗教SHOWをする人と中間などとあるのでしょうか?黒と白と中間の灰色はあるのでしょうか?黒でないのなら、白であるしかないのです。今日も、主イエスに期待して、告白を捧げます。弱い私を用いてくださる主イエスを信じます。アーメンラベル: ヨハネの福音書
羊飼いの声を聞き分ける霊性を持て
ヨハネの福音書
まことの羊飼いとは誰でしょうか?それは、たった主イエスのみです。しかし、ときに人は自分の代わりの人間をたてて、主イエスの声を聞こうとします。時に、牧師を用いて、神様の声を聞こうとします。それを逆に、宗教家たちは自分たちの立場や、自分の王国を造ろうとしてしまいます。悪い牧者は、そのような罪を犯そうとしてしまいます。また逆に、羊である私たちは、直接に神様と話せるのにもかかわらず、直接に神様との関係をもてるにも関わらず、人を通してでなくて、話せる関係を自ら捨てているのです。神様の招待を断っているのです。神様の関係であるにも関わらず、人を通すことがありえるでしょうか?神様の子供としての関係よりも、マネージャーを通すのでしょうか?主イエスとの直接の神様のことしていきます、ラベル: ヨハネの福音書
主イエスを知ると礼拝する
ヨハネの福音書9:30-41
主イエスを信じることと、教会生活、礼拝生活が別だと考える人がいます。それは、全くの的外れです。異聞がどのような罪から救われて、神様とつながったならば、神様を神様とする時間、神様と出会う時間である礼拝を抜かすことはありえません。その方の愛を拒否しているのと、失礼に馬鹿にしているのと同じであります。何よりも、その素晴らしい十字架の愛を受けたならば、主イエスを愛して答える人生、時に迫害にあっても、従う人生が喜びです。何故なら、私の霊的に目の見えない人生を、目的を知らない人生を導いてくださるのに、神様をもっと知って生きる人生が開かれるのに、礼拝せずに、主イエスの弟子にならずにいられません。目を開いてもらった人が、告白します。「神様は罪人の言うことはお聞きにならない」と。彼が癒されたのは、神様の技である以外ありえないことを告白します。パリサイ人は自分たちの主張を守り、自分たちこそが、聖書を知っており、その教えを守っているといい、主イエスを否定します。そこには、いっそ自分たちが目が見えない、と告白するなら罪が無い可能性があるにもかかわらず、主イエスを拒否し、彼を殺そうとした宗教家の姿があります。かえって、目の見えなかった人のほうが主イエスを知ったのです。自分を癒してくださったのは、神様の送られた愛である主イエスをメシアとして受け入れて、主イエスを礼拝し、従う弟子となったのです。アイロニカルなことですが、神様を知っているという宗教家が主イエスを受け入れず、知らないといわれている目の見えなかった人が、主イエスを信じ、従ったのです。主よ、私の心を低くし、霊の目を開いてください。ラベル: ヨハネの福音書
奇跡の事件を無為にするのか?賛美するのか?
ヨハネの福音書9:13-29
イエス・キリストが目を開けた人を捕まえて、パリサイ人の所に連れて行きます。それは、主イエスを賛美し、メシアを送られた神様を賛美するのでもなく、人として癒されたことに共に喜ぶという人としての当たり前の態度でなくて、主イエスを貶め、殺そうとする殺意を具現化する裁判へ持っていくためでした。神様の奇跡がなされて、否定できない「しるし」であるにもかかわらず、それを人と神様と共に喜ぶ時間とするよりも、主イエスの弟子として神様に近づくことよりも、嫉妬と宗教意識と自分の宗教的な立場に縛られる結果となりました。それは、人を殺すという行為へ進み、自分の意志や感情を神様に用いていただくよりも、目に見えにくいけど、結果としてサタンの喜ぶ行為へと進んでいったわけです。はたして、私の周りに起こる事件や人をどのように解釈しているのでしょうか?それにどのように反応しているのでしょうか?どのように、私の心や目を神様の計画にあってみているのでしょうか?癒された人は、パリサイ人から迫害され、両親からも、あれはもう大人です、助けをもらうことが出来ませんでした。しかし、そのような中で主イエスの弟子として迫害されて、あかしし、喜んで迫害を受けました。主イエスの弟子は、奇跡を賛美を持って迎え入れ、迫害されるときも、感謝と賛美をし、証のときとします。主イエスにある事件を神様の賛美で受け入れ、迫害を喜びを持って受け入れ、証の時とします。ラベル: ヨハネの福音書
遣わされた人の特徴
ヨハネの福音書9:1-12
神様に遣わされた人は、主イエスのような特徴があります。まず、
1:自分の思いで勝手な行動をしないことです
2:主の栄光のためにいきます
3:主の時と今何をなすべきかをしっています。
4物事を見るとき、事件を見るときに、人を判断するときに、主の計画を見ます。運命や自虐論になりません。人のせいにしません。
5:どんなときも、神様の最善なる計画を信じ、神様の愛を持って人に対し、物事へ向かいます。
今日の聖書箇所では、目の見えない人へ「この人の罪か?両親の罪か」という旧約聖書からの教えを弟子たちは主イエスに尋ねます。もちろん、それが聖書からも言われているときもあります。しかし、今日の場合は人の弱さや完全な痛みに思えることが、主の栄光とみわざをなされるためであることを主イエスは語られます。今日、主イエスの目で積極的に期待します。そして、今日なすべきことを主の働きの人生を歩んで生きます。それは、牧師や教職者のみがする、歩む人生でなくて、家庭でも、仕事先でも、人間関係の中でも主イエスのみわざを期待して歩む人生です。今日も、主イエスのみ業に期待しています。ラベル: ヨハネの福音書
神様のマスタープランを知る人
ヨハネの福音書8:48-59
イスラエル民族の父である、また信仰の父であるアブラハムは「メシアなるイエス・キリスト」が来られることを待ち望み、喜んでいました。それは、天地創造の前から神様と共におられたことを知っていたからです。
アブラハムは、神様の友とされた人です。それは、神様の秘密の人類救出計画のための最終兵器であるイエス・キリストを知っており、信仰を持って待ち望んだのです。そこまで、神様の夢を、愛を計画を分かち合う中であるとは、なんと素晴らしいことでしょう。私たちは、友人関係や人間関係に於いて、また家族関係に於いて親しいもの同士だけが、分かち合える感情や喜び、痛みを知っています。また、人生の計画を未来を分かち合います。それは、お互いを信頼しあい、分かち合うことを喜びとするのです。はたして、ユダヤの民は神様の関係を持っていたなら、主イエス・キリストが来られた時に、その方が約束のメシアであることを知ることもなく、かえって、自分の宗教的な立場や考えのために、神様を知るどころか、主イエスを殺そうとしたのです。神様のマスタープランを知る人の人生は、命の関係にあふれています。そして、神様と親しく交わり、神様と語り合い、神様の計画に会って自分の役割を知って、自分にも他人にも、最高の人生を生きれます。しかし、宗教的なユダヤ人は、何度も主イエスに向かって「あなたは誰ですか?」という質問をし、答えをもらっても受け入れず、主イエスを殺そうとします。宗教的な立場を揺るがされることが嫌であり、人々の目を恐れ、人気を気にします。それは、生きた信仰ではありません。果たして、私たちは自分の立場や宗教的な偏見によって、神様の声をとどめることがないでしょうか?また、主イエスとの生きた関係を持っているのでしょうか?神様のマスタープランの話を聞き、興奮して、神様の働きに加わっているのでしょうか?自分の役割や正目に感謝して、喜んでいるのでしょうか?神様のマスターピースとしての人生を担っているのでしょうか?それは、命あるミニストリー、人生です。主イエスの計画の人生の前に、自分の人生の計画を白紙にして、歩みます。
自分のアイデンティらしく生きよ
ヨハネの福音書8;31-47信じたユダヤの民たちへイエスは、「神様のみ言葉へとどまる」ように伝えます。それは、主イエスの弟子とて生きることの唯一の条件でした。そして、それは弟子として縛るのでもなく、真理はあなた方を自由にするという祝福の言葉でした。アブラハムの子孫であることは、信仰の子孫です。血統により無条件になることのみならず、罪人であったアブラハムが信仰により義と認めれられていく子孫です。それは、アブラハムの子孫であるならば、自分の義で義とされないこと、信仰によってのみ義とされることを信じます。また、神様のみ言葉を自分の基準としていきます。それは、宗教的な価値観でなくて、生き方の問題です。そして、信仰による義の祝福を全世界に流して生きます。そして来られる主イエスを迎え、信じます。神様のみ言葉に従っていきます。しかし、その役割をまともに果たすことが出来ないために、そのまま生きれないために、罪の奴隷となってしまうのです。自分のしたいことをしているように思えて、実は罪の奴隷となっているのです。それを砕くのは、イエス・キリストとの十字架の血潮意外にありません。キリストを信じる共同体をつなぐのは、血の関係です。十字架の血による関係です。宗教や制度ではありません。お金でもありません。関係は生きたものです。十字架のアイで生きる人がクリスチャンです。イエスの弟子です。イエスは信じた人にすぐに弟子としての召しをされました。それは、素人を無理やり引っ張るのでなくて、愛による人が一番輝く人生でした。イエスの弟子として生きることが最高に輝く人生としての価値観を信じ、いきます。ラベル: ヨハネの福音書
疑問に完全に答えら得る主イエス
ヨハネの福音書8:21-30主イエスの話に人々はついていいけません。「あなたがたは自分の罪の中に死んでいる」や「主イエスの行かれることにあなたがたは来ることができない」(21節)などのことです。それに、対してユダヤ人たちは、「自殺するのか?」(22節)などと東を聞いて西と答える、とんちんかんな問答をします。天から来られて地上の所属でないイエス(23節)と答えられます。そうです、罪の中に死んでいる人は、霊的に死んでいる人は、地上の肉体にのみ所属しています。しかし、主イエスを信じ、天国の命を得る人は、霊的に生き、全的な堕落から救われ、永遠の滅びからすくわれているのです。そして、ユダヤ人は彼らの次の質問である「あなたは誰ですか?」という(25節)質問に、28節「父から使わされたもの」「父なる神様に教えられたことだけを行う」神様でありながらも、人間として最高の謙遜を見せてくださり、いやそれは本来の人間が持つべき姿です、「神様と共にいつもおられる」という人間本来があるべき幸福な姿、安全な姿を見せます。そして、神様はひとり残されることが無い、といわれます。人間は本来孤独な存在ではありません。何故なら、神様がともにいてくださるからです。それが罪のために人間は神から自らはなれて孤独な存在となられたのです。自分が神様から使わされたことに脚色を少しも加えない、人は少しくらいと何か色をつけてしまいます。真実な証です。また、自分の願いどおりにするのでなくて、神様の願いどおりにするイエスを見て、そのような人々の疑問に答えられるイエスを見て信じる人が起こりました。天国に所属しているものとして、生き、証します。人を赦し、愛します。ラベル: ヨハネの福音書