坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

金曜日, 2月 12, 2010

イエスを奇跡を起こさせずに、とどめさせる人間の信仰

ヨハネの福音書11
信仰とは、人間が作り出し、成長させるものではありません。今日の聖書本文は、イエスがマルタと話した後に、マリヤに出会う場面ですが、そこにイエスはとどまったとあります。イエスが奇跡を行うために、ベタニャに入ることも無く、既に死んでしまったのだからどうしようもない、生きていたら何とかなるのに、というマルタの進行とイエスへの理解があります、マリヤの周りの人々も彼女を慰めるために、周りによっていきました。そして、しまいにはイエスがいたのに何も出来なかったのか?という文句を言います。神様を自分のタイミング、自分の思い通りに動かそうとするために、そうならないときに、不満が出るのです。全能の神様を勝手に時間と空間の制限へ、私にある範囲で神様の技をしてもある、縛る制限をしようとするから、難しいのです。自由に神様の全能のみ技をなさせない人間の限界ある、制限された信仰があります。信仰は神様からのプレゼントであり、信仰を成長させてくださるのも神様です。実際、私たちの信仰は難しい局面でなかなか神様のタイミングや計画に合わせようとするしかない、弱さがあります。しかし、主イエスはその弱さに理解できない人ではありません。神様の計画にある信仰へとジャンプします。

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