坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

土曜日, 2月 20, 2010

罪を離さないと霊の激動を感じる

ヨハネの福音書13;21-30
主イエス・キリストは「霊の激動を感じられました」それは、主イエスの弟子から裏切りが出ることでした。
罪には、段階があります。それは、急激に失敗する人は少ないということです。もちろん、そういう人もいます。しかし、急激な事故で失敗する人は少ないということです。それは、ユダは
1:普段から会計を任せられるほどに信用が有る人でした。実力もある人だったでしょう。しかも、主イエスがはっきりと「パンを浸したものが裏切る」ということで示されても、疑う弟子がいなかったのです。
それは、ユダの人格の一部分は、立派に奉仕をしながらも、会計では既に盗みを働き、罪を犯しながら歩んでいたことでした。少しずつ、罪はその人格を蝕み、悔い改めないときに、事故を起こします。
2:主イエスは、あえて警告をしてくださったのです。罪の悔い改めのチャンスでした。もしも、罪を悔い改めるなら、回復のチャンスがあったのかもしれないのです。
3:それは、罪を人々と神様の前の明るみに示し、回復のチャンスでした。しかし、それでも自分の道を行く人を止めることはできません。それは、神様は人格を尊重されます。罪の告白も愛の元に自らの意思なのです。
4:すでに夜の時に、罪は起こります。罪を示されても、そこへ進む人は必死で相手を攻撃し、相手のせいにします。
今日、思わされたことは「罪をそのままにしている」ならば、霊の平安が無いということでした。思わされたことは、一つは教会で立派に奉仕をしながらも、お金の問題を抱えている人のことでした。それは、牧師の悔い改めの勧めにもかかわらず、かえって牧師を攻撃している人のことでした。しかも、立派に奉仕をしているのです。罪を抱えている人でも、みかけは立派に奉仕します。しかし、内情はどうでしょうか?また、自分に示されたのは、相手が悪いと思う人であっても、自分の赦さない思いがあるときに「自分の人生の祝福の足を縛る」ことでした。失礼だと思うことがありました。しかし、それを持っているのは自分の責任であり、相手を縛り、自分を縛ります。祝福を閉ざします。主イエスのみなによって、霊の激動を受けて悔い改めます。

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