坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

火曜日, 2月 16, 2010

栄光とは自ら十字架を選ぶこと

ヨハネの福音書12;20-36
主イエスは、「人の子が栄光を受けるときがきた」と言われました。それは、イエス・キリストの死を意味していました。それは、普通世の中的には、ありえない話であります。また、私たちが、私が選びたくもないし、行きたくも無い道なのです。しかし、自分が死なないかぎりには、私たちの救いはありませんでした。私の命は主イエスのものです。しかし、この告白をマジでするときに私たちの心はなんと震えることでしょう。なんと私たちの者や人間関係や、物や色んなものに頼っていることでしょうか?しかし、信仰とは「私の所有権だったものが、神様のものであることを認め、その管理者として喜びを持って生きることです」その最大の最高のモデルはイエス・キリストです。今日は難しい決断をする日でした。人間的にはしない決断だったかもしれません。しかし、私の所有者はイエス・キリストです。私の境界線はイエス・キリストの所有にあります。それも、イエス・キリストの十字架で買われた人生を誰も奪うことは出来ません。また、犯されることがあってもいけません。それは、全て関係の中にあるものです。いい加減に他の人も、自分自身も扱ってはいけません。主イエスの十字架の人生を、栄光の人生を歩みます。

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