坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

木曜日, 2月 11, 2010

人の力では不可能な時に東問西答はおこる

ヨハネの福音書11;17-27
韓国語で、東問西答<>という言葉があります。それは、東はどこ?と聞いているのに西を答える、というようなとんちんかんな、かみ合わない会話を言います。聖書には、福音書には、主イエスと会衆、主イエスとパリサイ人、そして主イエスと弟子たち、という仲にそれがよくみられます。それは、神様の知恵と御言葉が、人間にはあまりに理解できず、自分の宗教的な立場やプライドから、そして人間的な観点から話すために起こることです。主イエスは、昨日のQT箇所で「神様の栄光を見て信じるために」と言われました。弟子たちは、マルタとマリヤたちは主イエスを信じていたはずなのに、聖書の言うメシアであるならば当たり前のことを理解できず、信じれずにいます。何故でしょうか?彼らの眼には、地上の人生が全てであったからです。
イエス・キリストがエルサレムから3KMのベタニヤに着いたときには、ラザロが死んで墓に入って4日過ぎていました。既に、人間の力では死人をどうすることもできません。そこで、マルタの最初の言葉が21節「主よ、ここにいてくだされば、私の兄弟は死ななかったでしょうに」という痛みのある嫌味でした。さらに、22節「主イエスが願うならば、神様は何でも与えてくださる」という言葉で、自分の願うどおりに主イエスが動いてくれなかった、という文句だったのです。それに、主イエスは23節「あなたの兄弟はよみがえります」と宣言されました。神様のみ心だったのです。ところが、それに対しても、マルタは24節「終わりの日に彼がよみがえることを知っております」という、傷から来る嫌味もしくは、人間的な聖書の解釈でで返したのです。すでに、彼女にそういう余裕は無く、人間的に話すことしか出来なかったでしょう。実は必死で平静を装いながらも、相手を傷つけることなく、言おうとした言葉だったかもしれません。普通なら、主イエスの言葉に「はい?」か「いいえ」で答えるはずでしょう。しかし、そのどちらもありませんでした。
そして、主イエスは私はよみがえりであり、命であり、私を信じるものは死んでも生きる、というご自身のアイデンティと信じるものへの身分の変化、アイデンティを語りました。しかし、それにもマルタは主イエスのアイデンティに反応することも、復活をも答えずに、「復活を信じますか」という質問に、「はい」でも「いいえ」でもないのです。ただ、あなたは「世に来られる神様の子」であることを信じます、と返事をします。全くのかみ合わない会話です。主イエスの意図されることや、願いではなくて、常に自己解釈しての答えであります。人の力では不可能なときに、奇跡は起こります。また、人の頭や経験や自分の立場では、人間の傷があるときには神様の奇跡やクリスチャンの身分を理解できません。ですから、主イエスのみ技をとどめてしまいます。今日、主イエスの信仰の招きに「はい」と答えていきます。

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