坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

土曜日, 2月 13, 2010

自分が負けているように見えても命あるミニストリーは違う

ヨハネの福音書11;45-57
イエス・キリストのラザロの復活の奇跡を見て、2つの反応が起こりました。
①一つは、イエス・キリストを信じる反応。これが普通でしょう
②そして、イエス・キリストを拒否し、自分の立場を否定され、自分の経験や教えを揺るがされることに嫉妬と怒りを覚えて、イエス・キリストをのけ者にしようとする人々→それは、最終的にイエス・キリストを殺そうとする陰謀へと変わります。特に祭司カヤパがイエス・キリストを国民の身代わりにしようと言うことで、くしくも自分で意図せずに、預言をしています。自分の立場や、経験、聖書をよく知っているはずの人がそれを脅かされて、自分よりもセイコウをしている姿を見て、ねたみを起こすことが起こっています。
それは、命の無い宗教です。命の無いミニストリーです。
逆に、イエスはこのねたみのために、公然と歩くことが出来ず、荒野に近いところに避けました。しかし、過ぎ越しの祭りにはイエスを見た人は密告することと陰謀をもたれているのです。人間の眼には、状況はこちらが悪く、悪に悪で対応することがいいように思えても、神様の救いの計画がなされること、信じるなら神様の栄光を見るという(11;40)信仰を持って歩んでいるのでしょうか?悪さえも用いられる神様の全宇宙救出計画を信じ、そのために今の私の大変な状況でも、荒野に近いエフライムの町においあやられたとしても、信仰を持って喜んでいるのでしょうか?神様の栄光を期待しているのでしょうか?主の栄光を期待します。

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