坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

金曜日, 2月 05, 2010

奇跡の事件を無為にするのか?賛美するのか?

ヨハネの福音書9:13-29
イエス・キリストが目を開けた人を捕まえて、パリサイ人の所に連れて行きます。それは、主イエスを賛美し、メシアを送られた神様を賛美するのでもなく、人として癒されたことに共に喜ぶという人としての当たり前の態度でなくて、主イエスを貶め、殺そうとする殺意を具現化する裁判へ持っていくためでした。神様の奇跡がなされて、否定できない「しるし」であるにもかかわらず、それを人と神様と共に喜ぶ時間とするよりも、主イエスの弟子として神様に近づくことよりも、嫉妬と宗教意識と自分の宗教的な立場に縛られる結果となりました。それは、人を殺すという行為へ進み、自分の意志や感情を神様に用いていただくよりも、目に見えにくいけど、結果としてサタンの喜ぶ行為へと進んでいったわけです。はたして、私の周りに起こる事件や人をどのように解釈しているのでしょうか?それにどのように反応しているのでしょうか?どのように、私の心や目を神様の計画にあってみているのでしょうか?癒された人は、パリサイ人から迫害され、両親からも、あれはもう大人です、助けをもらうことが出来ませんでした。しかし、そのような中で主イエスの弟子として迫害されて、あかしし、喜んで迫害を受けました。主イエスの弟子は、奇跡を賛美を持って迎え入れ、迫害されるときも、感謝と賛美をし、証のときとします。主イエスにある事件を神様の賛美で受け入れ、迫害を喜びを持って受け入れ、証の時とします。

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