坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

土曜日, 2月 06, 2010

主イエスを知ると礼拝する

ヨハネの福音書9:30-41
主イエスを信じることと、教会生活、礼拝生活が別だと考える人がいます。それは、全くの的外れです。異聞がどのような罪から救われて、神様とつながったならば、神様を神様とする時間、神様と出会う時間である礼拝を抜かすことはありえません。その方の愛を拒否しているのと、失礼に馬鹿にしているのと同じであります。何よりも、その素晴らしい十字架の愛を受けたならば、主イエスを愛して答える人生、時に迫害にあっても、従う人生が喜びです。何故なら、私の霊的に目の見えない人生を、目的を知らない人生を導いてくださるのに、神様をもっと知って生きる人生が開かれるのに、礼拝せずに、主イエスの弟子にならずにいられません。目を開いてもらった人が、告白します。「神様は罪人の言うことはお聞きにならない」と。彼が癒されたのは、神様の技である以外ありえないことを告白します。パリサイ人は自分たちの主張を守り、自分たちこそが、聖書を知っており、その教えを守っているといい、主イエスを否定します。そこには、いっそ自分たちが目が見えない、と告白するなら罪が無い可能性があるにもかかわらず、主イエスを拒否し、彼を殺そうとした宗教家の姿があります。かえって、目の見えなかった人のほうが主イエスを知ったのです。自分を癒してくださったのは、神様の送られた愛である主イエスをメシアとして受け入れて、主イエスを礼拝し、従う弟子となったのです。アイロニカルなことですが、神様を知っているという宗教家が主イエスを受け入れず、知らないといわれている目の見えなかった人が、主イエスを信じ、従ったのです。主よ、私の心を低くし、霊の目を開いてください。

ラベル: