しょっぱく生きるとは和合して生きること
マルコの福音書9:38-50
ヨハネ が イエス に 言った. 「先生. 先生の 名を 唱えて 惡靈を 追い 出している 者を 見ましたが, 私たちの 仲間ではないので, やめさせました. 」
しかし, イエス は 言われた. 「やめさせることはありません. わたしの 名を 唱えて, 力あるわざを 行ないながら, すぐあとで, わたしを 惡く 言える 者はないのです.
わたしたちに 反對しない 者は, わたしたちの 味方です.
あなたがたがキリストの弟子だからというので, あなたがたに 水一杯でも飮ませてくれる人は,決して報いを失うことはありません. これは 確かなことです.
また, わたしを 信じるこの 小さい 者たちのひとりにでもつまずきを 與えるような 者は, むしろ 大きい 石臼を 首にゆわえつけられて, 海に 投げ ¿まれたほうがましです.
もし, あなたの 手があなたのつまずきとなるなら, それを 切り 捨てなさい. 不具の 身でいのちにはいるほうが, 兩手そろっていて ゲヘナ の 消えぬ 火の 中に 落ち ¿むよりは, あなたにとってよいことです. もし, あなたの 足があなたのつまずきとなるなら, それを 切り 捨てなさい. 片足でいのちにはいるほうが, 兩足そろっていて ゲヘナ に 投げ 入れられるよりは, あなたにとってよいことです. もし, あなたの 目があなたのつまずきを 引き 起こすのなら, それをえぐり 出しなさい. 片目で 神の 國にはいるほうが, 兩目そろっていて ゲヘナ に 投げ 入れられるよりは, あなたにとってよいことです.
そこでは, 彼らを 食ううじは, 盡きることがなく, 火は 消えることがありません.
すべては, 火によって, 鹽けをつけられるのです.
鹽は, ききめのあるものです. しかし, もし 鹽に 鹽けがなくなったら, 何によって 鹽けを 取り 戾せましょう. あなたがたは, 自分自身のうちに 鹽けを 保ちなさい. そして, 互いに 和合して 暮らしなさい. 」
キリストの弟子として生きることは、塩気を保つことです。それは、聖さ保ちながらも、高く聖い生活をしていますよ、という態度でもありません。清い排他主義でもなく、また人を躓かせる生き方でもありません。聖書は、躓くことについて主張していますが、躓かせることに厳しく話しています。手を切れ、とも言います。また、両手両足が残るよりも、無くてもゲヘナに入らないことを強く主張します。そして、小さい弟子に「水いっぱいであげるなら報いにもれることは無い」と言います。逆に、この小さいものに躓かせるなら、海のそこに投げ込まれよ、と言います。中東地域において「水は貴重なものです」また、別の聖書箇所には、「水について」「ICEDED WATER」と言っています。大変素晴らしいものをささげるわけです。キリストの弟子としての生き方は、福音と信仰は一人でするものでなく共にするものです。それは、躓かせずに、氷の冷たい水を小さい者にささげることです。私たちは見返りを求めずに、そうしているのでしょうか。塩気のある生き方とはそういうものです。私の生き方とは逆です。しかし、キリストの弟子として目指していきます。
しやすい議論としにくい質問
マルコの福音書9:30-37さて, 一行はそこを 去って, ガリラヤ を 通って 行った. イエス は, 人に 知られたくないと 思われた. それは,イエスは弟子たちを敎えて, 「人の 子は 人¿の 手に 引き 渡され, 彼らはこれを 殺す.しかし,殺されて,三日の後に,人の子はよみがえる.」と 話しておられたからである. しかし,弟子たちは,このみことばが理解できなかった. また, イエス に 尋ねるのを 恐れていた. カペナウム に 着いた.イエスは,家にはいった後,弟子たちに質問された. 「道で 何を 論じ 合っていたのですか. 」 彼らは 默っていた.道々,だれが一番偉いかと 論じ 合っていたからである.
イエス はおすわりになり, 十二弟子を 呼んで, 言われた.「だれでも人の先に立ちたいと思うなら, みなのしんがりとなり,みなに仕える者となりなさい.」
それから, イエス は,ひとりの子どもを連れて來て彼らの眞中に立たせ,腕に抱き寄せて,彼らに 言われた. 「だれでも, このような 幼子たちのひとりを, わたしの 名のゆえに 受け 入れるならば, わたしを受け入れるのです. また, だれでも, わたしを 受け 入れるならば, わたしを 受け 入れるのではなく, わたしを 遣わされた方を受け入れるのです.」 何故人はお山の大将になることを望むのでしょうか?何故、人は帝国を作ろうとするのでしょうか。何故、人は人と比較しないと安心できないのでしょうか。そして、小さな薄笑いの幸福?と卑屈な劣等感に陥ります。人は、自然にしているとこういう傾向があります。今日の聖書箇所は、主イエスが十字架にかかられて復活する、という全世界にとって最大のニュースを弟子たちが理解できなかった、しかも、それを質問して聞く事が出来なかった、という話が最初に出てきます。次に出てくるのは弟子たちがこの中で誰が一番偉いのか?という議論です。人間は、聞くべき大事な質問を聞きにくく(それは恐れるからです)また、一番しやすいことは、誰と比べて偉い、一番かという議論をします。それは、創造の最初に罪を犯して生きた人間が、神様との関係が壊れて安心することが出来なくなり、常に恐れて歩むようになりました。神様の供給された食物を受けることが出来なくなりました。そのためにいつも競争して歩むようになりました。常に、相手と戦って食物を得るようになりました。人間は、子供のような素直な心を、安心して父なる神様と呼べる関係を失ってしまいました。そのために、弟子たちはイエスのメシア理解を地上でのイスラエルの救いとまず考えました。そして、それは自分たちの立身出世を考えることにもなりました。未だに弟子たちは目が開かれ、悟ることが出来ていませんでした。こういう弟子たちの姿を見て私たちは聖書を読み、現代の既になされた十字架を見て不思議に思います。弟子たちは何をしているんだ?と。でも、私たちはどうでしょうか?既に解き明かされたイエス・キリストの十字架の奥義を見ながらも、未だに人と比較し、お山の大将になりたがる傾向があります。聞くべき質問があるのに、分からない自分たちを恥ずかしがり、奥義がわかってもいないのに、誰が一番偉いのか?議論します。イエス・キリストの奥義が分かるなら、誰が一番偉いのか?はどうでもいいことになります。それよりも、この地球の運命を変えるニュースを伝えることに最高の幸福を感じることでしょうし、そのような素晴らしいニュースを伝えるのに資格がない私を呼ばれたことに、深い恐れと感謝を持つことでしょう。私のアイデンティはまさにそこにあるのです。子供のように父なる神様に質問し、神様のニュースを伝えていきます。
不足しているものは何か?
マルコの福音書9;14-29
さて, 彼らが, 弟子たちのところに 歸って 來て, 見ると, その 回りに 大ぜいの 人の 群れがおり, また, 律法學者たちが 弟子たちと 論じ 合っていた. そしてすぐ, 群衆はみな, イエス を 見ると驚き,走り寄って來て, あいさつをした.
イエスは彼らに, 「あなたがたは 弟子たちと 何を 議論しているのですか. 」と 聞かれた. すると 群衆のひとりが, イエス に 答えて言った. 「先生. おしの靈につかれた 私の 息子を, 先生のところに 連れてまいりました. その靈が息子に取りつきますと,所かまわず彼を押し倒します. そして彼はあわを吹き,齒ぎしりして, からだをこわばらせてしまいます. それでお弟子たちに,靈を追い出してくださるようにお 願いしたのですが, お 弟子たちにはできませんでした.」
イエスは答えて言われた. 「ああ,不信仰な世だ. いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう. いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう. その 子をわたしのところに 連れて 來なさい. 」 そこで, 人¿は イエス のところにその 子を 連れて 來た. その 子が イエス を 見ると, 靈はすぐに 彼をひきつけさせたので, 彼は 地面に 倒れ, あわを 吹きながら, ころげ 回った. イエス はその 子の 父親に 尋ねられた. 「この 子がこんなになってから, どのくらいになりますか. 」父親は 言った. 「幼い 時からです. この 靈は, 彼を 滅ぼそうとして, 何度も 火の 中や 水の 中に 投げ ¿みました. ただ, もし, おできになるものなら, 私たちをあわれんで, お 助けください. 」
すると イエス は 言われた. 「できるものなら, と 言うのか. 信じる 者には, どんなことでもできるのです. 」
するとすぐに,その子の父は 叫んで 言った. 「信じます. 不信仰な 私をお 助けください. 」 イエスは, 群衆が 驅けつけるのをご 覽になると, 汚れた 靈をしかって 言われた. 「おしとつんぼの靈.わたしが,おまえに命じる.この子から 出て 行きなさい. 二度と, はいってはいけない. 」 弟子たちと律法学者たちが議論していることころに、イエスがやってこられます。悪例の追い出しを出来なかった弟子たち、そして悪霊の追い出しについて議論がされていたことでしょう。この聖書箇所は、私たちにも非常に興味のある部分でないでしょうか。悪霊の追い出しについての議論。人は目に見える部分に目を追いやりがちです。しかし、本当に見るべき部分は何でしょうか。弟子たちは以前は、悪霊を追い出し、癒しをし、福音を伝えてきたのです。しかし、今回は出来なかったのです。彼らに明らかに不足していたものがあります。それは、19,23-25,29節にあるように 「信仰」と「神様の権威」と「祈り」なのです。私たちにも、不足していることでないでしょうか。この部分は神様の範囲だけど、あの部分は神様の範囲でない部分を自分で決めていないでしょうか。そして、信仰の働き範囲とそうでない自分の範囲を決めていないでしょうか。神様への信仰と祈りによる力を体験できないでいます。私たちに足りないことは、信仰と祈り、神様の権威をいただく謙遜差でないでしょうか。逆に、もっているのは議論でないかと思います。主のみ言葉を頼って網を投げ込む信仰を持って歩みます。
自ら十字架を選ぶモデルとなられたイエス
マルコの福音書9;1-13
それから 六日たって, イエス は, ペテロ と ヤコブ と ヨハネ だけを 連れて, 高い 山に 導いて 行かれた. そして 彼らの 目の 前で 御姿が 變わった.
その 御衣は, 非常に 白く 光り, 世のさらし 屋では, とてもできないほどの 白さであった.
また,エリヤが モ ― セ とともに 現われ, 彼らは イエス と 語り 合っていた. すると, ペテロ が 口出しして イエス に 言った. 「先生. 私たちがここにいることは, すばらしいことです. 私たちが, 幕屋を 三つ 造ります. あなたのために 一つ, モ ― セ のために 一つ, エリヤ のために 一つ. 」 實のところ, ペテロ は 言うべきことがわからなかったのである. 彼らは 恐怖に 打たれたのであった. そのとき 雲がわき 起こってその 人¿をおおい, 雲の 中から, 「これは, わたしの 愛する 子である. 彼の 言うことを 聞きなさい. 」という 聲がした.
彼らが 急いであたりを 見回すと, 自分たちといっしょにいるのは イエス だけで, そこにはもはやだれも 見えなかった. さて, 山を 降りながら, イエス は 彼らに, 人の 子が 死人の 中からよみがえるときまでは, いま 見たことをだれにも 話してはならない, と 特に 命じられた.
そこで 彼らは, そのおことばを 心に 堅く 留め, 死人の 中からよみがえると 言われたことはどういう 意味かを 論じ 合った.
彼らは イエス に 尋ねて 言った. 「律法學者たちは, まず エリヤ が 來るはずだと 言っていますが, それはなぜでしょうか. 」
イエス は 言われた. 「エリヤ がまず 來て, すべてのことを 立て 直します. では, 人の 子について, 多くの 苦しみを 受け, さげすまれると 書いてあるのは, どうしてなのですか. しかし, あなたがたに 告げます. エリヤ はもう 來たのです. そして 人¿は, 彼について 書いてあるとおりに, 好き 勝手なことを 彼にしたのです. 」 主イエスは、人にだけ苦しい思いをさせる方ではありません。人にだけ献身しろ、と楽な位置にいる方でありません。いえ、それよりも主イエスは自分がすべき理由も無いのに、罪ある人のために聖い人のために自ら言われも無い罪を代わりに受けて十字架で死なれた方です。私たちのために十字架と復活の祝福のモデルとなられた方なのです。それは、誰にいわれてされた強制でもなく自ら進んで選ばれた十字架なのです。私たちの献身は、自らの決心でしょうか?私たちの選択でしょうか?それならば、いろんな苦難があっても大丈夫なはずです。しかし、何故私たちには不平や不満や心配や悩みが多いのでしょうか?キリストの復活は、十字架をなくしては得られなかったのです。私たちのためにいわれのない苦しみを負われた方を覚えるときに、私の人生は尊く大事に恥ずかしくないように生きたい、と思うしかありません。そうでないと、救われた人生を無為にしてしてしまいます。キリストの復活と栄光が、苦難を通して現されたように、今の苦難を喜びを持って歩みます。
私が誰か知ると、命をささげるチャレンジがある
マルコの福音書8:27-34
それから, イエス は 弟子たちと ピリポ · カイザリヤ の 村¿へ 出かけられた. その 途中, イエス は 弟子たちに 尋ねて 言われた. 「人¿はわたしをだれだと 言っていますか. 」
彼らは 答えて 言った. 「バプテスマ の ヨハネ だと 言っています. エリヤ だと 言う 人も, また 預言者のひとりだと 言う 人もいます. 」
すると イエス は, 彼らに 尋ねられた. 「では, あなたがたは, わたしをだれだと 言いますか. 」 ペテロ が 答えて イエス に 言った. 「あなたは, キリスト です. 」
すると イエス は, 自分のことをだれにも 言わ
それから, 人の 子は 必ず 多くの 苦しみを 受け, 長老, 祭司長, 律法學者たちに 捨てられ, 殺され, 三日の 後によみがえらなければならないと, 弟子たちに 敎え 始められた.
しかも, はっきりとこの 事がらを 話された. すると ペテロ は, イエス をわきにお 連れして, いさめ 始めた.
しかし, イエス は 振り 向いて, 弟子たちを 見ながら, ペテロ をしかって 言われた. 「下がれ. サタン . あなたは 神のことを 思わないで, 人のことを 思っている. 」
それから, イエス は 群衆を 弟子たちといっしょに 呼び 寄せて, 彼らに 言われた. 「だれでもわたしについて 來たいと 思うなら, 自分を 捨て, 自分の 十字架を 負い, そしてわたしについて 來なさい. いのちを 救おうと 思う 者はそれを 失い, わたしと 福音とのためにいのちを 失う 者はそれを 救うのです. ないようにと, 彼らを 戒められた.
人は, たとい 全世界を 得ても, いのちを 損じたら, 何の 得がありましょう.
自分のいのちを 買い 戾すために, 人はいったい 何を 差し 出すことができるでしょう.
このような 姦淫と 罪の 時代にあって, わたしとわたしのことばを 恥じるような 者なら, 人の 子も, 父の 榮光を 帶びて 聖なる 御使いたちとともに 來るときには, そのような 人のことを 恥じます. 」自分を捨て、自分の十字架を背負い、わたしについてきなさい、というコーリングは誰にでも出来るのものではありません。下手にチャレンジをするなら精神異常者か? 詐欺師であるのか?もしくは穂のものの中の本物でしょう。この召しは、私たちとって究極のチャレンジであり、基本であります。しかし、その召しをされた方が誰であるのか?その方が私たちに何をされたのか?宇宙の運命が変わることを知らなければ、決してそれに答えることが出来ないでしょう。また、主イエスを知っても現実的に自分の信仰と献身を見るときにがっかりしてしまいます。今日の聖書本文には、ペテロの告白と人間的な面が両面出てきます。彼は、主イエスに私を誰か?と問われて見事に「あなたはいける神の子キリスト」です、と答えます。メシアとして告白するのです。しかし、主イエスの十字架と復活を言われたときには、人間的にいさめ始めるのです。彼にとって、メシアとは誰だったのでしょうか?①イスラエルの救世主、②またイエスのことを人間的に考えた、③自分の利益を考えたメシア、とあったのかもしれません。そこで、主イエスは先ほどの告白を褒める後で、叱るわけです。しかし、感謝なことは主イエスは、先ほどのペテロの告白を「お前の告白はうそ臭い、取り消しだ」と言われなかったのです。私たちの信仰告白と人生は何と矛盾に満ちていることでしょうか?しかし、主イエスはお前は信じられないな、とは仰らないのです。これは、何と感謝なことでしょうか。逆に、何と私たちは周りの人を信じず、裁き、疑うのでしょうか。今日また、主イエスへの献身を新たにし、人を愛し信じます。
何のためにしるしが与えられるのか?
マルコの福音書8:11-25
パリサイ 人たちがやって 來て, イエス に 議論をしかけ, 天からのしるしを 求めた. イエス をためそうとしたのである. イエス は, 心の 中で 深く 嘆息して, こう 言われた. 「なぜ, 今の 時代はしるしを 求めるのか.まことに, あなたがたに告げます. 今の 時代には, しるしは 絶對に 與えられません. 」 イエス は 彼らを 離れて, また 舟に 乘って 向こう 岸へ 行かれた. 弟子たちは, パン を 持って 來るのを 忘れ, 舟の 中には, パン がただ 一つしかなかった. そのとき, イエスは彼らに 命じて 言われた. 「パリサイ 人の パン 種と ヘロデ の パン 種とに 十分氣をつけなさい.」 そこで弟子たちは,パンを持っていないということで,互いに議論し始めた.
それに氣づいてイエスは言われた. 「なぜ, パン がないといって 議論しているのですか. まだわからないのですか, 悟らないのですか. 心が 堅く 閉じているのですか. 目がありながら 見えないのですか. 耳がありながら 聞こえないのですか. あなたがたは, 覺えていないのですか.
わたしが 五千人に 五つの パン を 裂いて 上げたとき, パン 切れを 取り 集めて, 幾つのかごがいっぱいになりましたか. 」彼らは 答えた. 「十二です. 」
「四千人に 七つの パン を 裂いて 上げたときは, パン 切れを 取り 集めて 幾つのかごがいっぱいになりましたか. 」彼らは 答えた. 「七つです. 」
イエス は 言われた. 「まだ 悟らないのですか. 」
彼らは ベツサイダ に 着いた. すると 人¿が, 盲人を 連れて 來て, さわってやってくださるように イエス に 願った.
イエス は 盲人の 手を 取って 村の 外に 連れて 行かれた. そしてその 兩眼につばきをつけ, 兩手を 彼に 當ててやって, 「何か 見えるか. 」と 聞かれた.
すると 彼は, 見えるようになって, 「人が 見えます. 木のようですが, 步いているのが 見えます. 」と 言った.
それから, イエス はもう 一度彼の 兩眼に 兩手を 當てられた. そして, 彼が 見つめていると, すっかり 直り, すべてのものがはっきり 見えるようになった.何のために、しるしが与えられるのでしょうか?何のために奇跡が行われるのでしょうか。何のために人々がイエスに集まるのでしょうか?イエスがキリストであるからです。逆に、それをはずしたことには主イエスはお答えになりませんでした。イエスは深いため息をされたとあります。私たち人間は自分がヒーローになることを願います 。しかし、主イエスはそれを拒まれました。はたして、私は神様の働きを主イエスがキリストであることを示すためだけにしているのでしょうか?それとも、わたしがこうした、という評価や人の人気や評判を良くしたいと思っていないでしょうか。人間にはいつもその戦いがあります。主イエスはそれにため息をされます。主イエスの愛、神様の国の力がそれでは臨みません。信仰を持つなら、どれほどの大きな力が臨むのか?弟子たちに常にパン種のことを通して話されました。私にとって、チャレンジは何でしょうか。主イエスをキリストとすることだけ臨む神様の国です。私の中に、主イエスだけが豊かに臨まれます様に。
嘆息しても憐れみの心を持つイエス
マルコの福音書7:31-8:10
それから, イエスはツロの地方を 去り, シドン を 通って, もう 一度, デカポリス 地方のあたりの ガリラヤ湖に來られた. 人¿は,耳が聞こえず, 口のきけない人を連れて來て,彼の上に手を置いてくださるように願った. そこで, イエス は, その人だけを群衆の中から連れ出し,その兩耳に指を差し入れ, それからつばきをして,その人の舌にさわられた.
そして,天を見上げ,深く嘆息して, その 人に「エパタ . 」すなわち,「開け. 」と 言われた. すると 彼の 耳が 開き, 舌のもつれもすぐに 解け, はっきりと話せるようになった.イエス は, このことをだれにも 言ってはならない, と 命じられたが,彼らは口止めされればされるほど,かえって言いふらした.
人¿は 非常に 驚いて 言った. 「この 方のなさったことは, みなすばらしい. つんぼを聞こえるようにし, おしを 話せるようにしてくださった. 」
そのころ, また 大ぜいの 人の 群れが 集まっていたが, 食べる 物がなかったので, イエス は 弟子たちを 呼んで 言われた. 「かわいそうに, この 群衆はもう 三日間もわたしといっしょにいて, 食べる 物を 持っていないのです. 空腹のまま家に歸らせたら, 途中で動けなくなるでしょう. それに 遠くから 來ている 人もいます. 」 弟子たちは答えた.「こんなへんぴな 所で, どこから パン を 手に 入れて, この 人たちに 十分食べさせることができましょう. 」
すると, イエス は 尋ねられた. 「パン はどれぐらいありますか. 」弟子たちは, 「七つです. 」と 答えた. すると, イエス は 群衆に, 地面にすわるようにおっしゃった. それから, 七つの パン を 取り, 感謝をささげてからそれを 裂き, 人¿に 配るように 弟子たちに 與えられたので, 弟子たちは 群衆に 配った.
また, 魚が 少しばかりあったので, そのために 感謝をささげてから, これも 配るように 言われた. 人¿は食べて滿腹した. そして 余りの パン 切れを 七つのかごに 取り 集めた.
人¿はおよそ 四千人であった. それから イエス は, 彼らを 解散させられた. イエスは最初の箇所で、「深く嘆息された」とあります。何故、嘆息されたのでしょうか?①病の人への憐れみの心②この後に起こる癒しをなされたことに付きまとう騒動のために。しかし、それでもイエスは癒しをなされたのです。主イエスの癒しは、主イエスが神の子であると救い主であると分からないと本当の意味がないのです。そして、単に自分の癒しのために必要な人になってしまいます。しかし、主イエスはそれをご存知でありながらも、癒されたのです。また、4千人の男性たちだけでもいる群衆に食べるものを与えたのです。それは「かわいそうに」という言葉でした。主イエスの心は憐れむ心です。それを弟子たちにもチャレンジを与えられたのです。信仰と哀れみを持つ心をもてさえすれば、与えることの出来る神様の奇跡をチャンスを与えたのです。私たちは、その神様の奇跡を行うチャンスをつかんでいるのでしょうか。そのために必要なのは主イエスの憐れみの心、牧者の心、父の心です。分かっていても、あわれみをもつのは難しいものです。それでも、語られるチャレンジを持って歩みます。
どうしたら不平や不満をやめられるのか?
マルコの福音書7:24-30
イエス は, そこを 出て ツロ の 地方へ 行かれた. 家にはいられたとき, だれにも 知られたくないと 思われたが, 隱れていることはできなかった. 汚れた 靈につかれた 小さい 娘のいる 女が, イエス のことを 聞きつけてすぐにやって 來て, その 足もとにひれ 伏した.この 女は ギリシヤ 人で, スロ · フェニキヤ の 生まれであった. そして, 自分の 娘から 惡靈を 追い 出してくださるように イエス に 願い 續けた.
すると イエス は 言われた.「まず子どもたちに滿腹させなければなりません.子どもたちのパンを取り上げて,小犬に投げてやるのはよくないことです. 」
しかし, 女は 答えて 言った. 「主よ. そのとおりです. でも, 食卓の 下の 小犬でも, 子どもたちの パン くずをいただきます 」
そこで イエス は 言われた.「そうまで 言うのですか. それなら 家にお 歸りなさい. 惡靈はあなたの 娘から 出て 行きました 」 女が 家に 歸ってみると,その子は床の上に伏せっており,惡靈はもう出ていた. 今朝のQT本文は、劇的な聖書箇所です。この女性はギリシャ人で、スロ・フェニキヤの生まれでした。彼女は、イエスに娘の癒しを求めたときにイエスにこう言われました。子供たちにまず万p区させないといけません。しかし、彼女は子犬でも子供たちのパンくずをいただくと言ったのです。驚くべき信仰でないでしょうか。私に与えられた恵みはこうでした。「まさか、あなたは神様の恵みをもらって当然だ」と思っていないでしょうね。死んでも当然、裁かれても当然の人が、ゆるし、愛されて感謝はどれほどあるのか?捨てられるべき人生が救われた人生を本当に大事に生きているのか?私の捨てるべき主張は何か?私の捨てるべき権利は、既得権は何か思いました。それは全てでないかと思いました。全て主イエスが下さったものです。感謝します。不平や不満を言うのを止めます。
神様の願いは神様の心を知ること
マルコの福音書7:14-20
イエスは再び群衆を呼び寄せて 言われた. 「みな, わたしの 言うことを 聞いて, 悟るようになりなさい. 外側から 人にはいって, 人を 汚すことのできる 物は 何もありません.人から出て來るものが, 人を 汚すものなのです. 」 イエスが群衆を離れて,家にはいられると, 弟子たちは, このたとえについて尋ねた.
イエスは言われた. 「あなたがたまで, そんなにわからないのですか. 外側から 人にはいって 來る 物は 人を 汚すことができない, ということがわからないのですか.
そのような物は,人の心には,はいらないで, 腹にはいり, そして, かわやに出されてしまうのです.」 イエスは,このように,すべての食物をきよいとされた.また言われた. 「人から 出るもの,これが,人を汚すのです. 罪の本質とは何でしょうか?人間の作った律法でもなく、神様の与えた律法を人間的に解釈することでなく、人間的に人と比較して、裁くのでもありません。それは、神様のいない律法でも、人間が作ったルールが決めるのでもなく、内側の(神様のいない人生)ことなのです。神様を離れた人生、神様を拒んだ人生こそ罪なのです。神様の関係を壊れた人生こそ、罪なのです。そこでの、神様の願いは「イエスの言われることを悟り、知るようになる」ことなのです。神様の心を行う人、神様の例えの奥義、神様の国の奥義を悟ることを願われるのです。それは、どういうことでしょうか?私の心の汚れをきよめるのはイエスの血潮のみです。イエスは律法で汚れたものを聖いとされました。イエスのみが言えることです。私ははたして「自分の罪を日ごとに認めているのでしょうか」クリスチャンになればなるほど、自分が聖く、既に罪の悔い改めは終わっている、世の人と違うと思って、だんだんパリサイ人の人生を歩んでいないでしょうか。 私の適用は、こうです。日ごとにチェックするべきリストを作ろう、ということです。多くの素晴らしい振興の働き人が最後に難しさを覚えることがたくさんあり、見てきました。ひごとに罪びととしてきよめを経験していきます。
本質的な出会いと本質的でない出会い
マルコの福音書7:1-13
さて, パリサイ 人たちと 幾人かの 律法學者が エルサレム から 來ていて, イエス の 回りに 集まった. イエスの弟子のうちに, 汚れた 手で, すなわち 洗わない 手で パン を 食べている 者があるのを見て, ·· パリサイ人をはじめ ユダヤ 人はみな, 昔の 人たちの 言い 傳えを 堅く守って, 手をよく 洗わないでは 食事をせず,
また,市場から 歸ったときには, からだをきよめてからでないと 食事をしない. まだこのほかにも,杯,水差し, 銅器を 洗うことなど, 堅く 守るように 傳えられた, しきたりがたくさんある. ·· パリサイ 人と 律法學者たちは, イエス に 尋ねた. 「なぜ, あなたの 弟子たちは, 昔の 人たちの 言い 傳えに 從って 步まないで, 汚れた 手で パン を 食べるのですか. 」 イエス は 彼らに 言われた. 「イザヤ はあなたがた 僞善者について 預言をして, こう 書いているが, まさにそのとおりです. 『この 民は, 口先ではわたしを 敬うが, その 心は, わたしから 遠く 離れている.
彼らが, わたしを 拜んでも, むだなことである. 人間の 敎えを, 敎えとして 敎えるだけだから. 』 あなたがたは, 神の 戒めを 捨てて, 人間の 言い 傳えを 堅く 守っている. 」
また 言われた. 「あなたがたは, 自分たちの 言い 傳えを 守るために, よくも 神の 戒めをないがしろにしたものです. モ ― セは,『あなたの父と母を敬え.』また『父や母をののしる 者は, 死刑に 處せられる. 』と言っています.
それなのに, あなたがたは,もし人が父や母に 向かって, 私からあなたのために 上げられる 物は, コルバン (すなわち, ささげ 物 )になりました, と 言えば,
その 人には, 父や 母のために, もはや 何もさせないようにしています.
こうしてあなたがたは, 自分たちが 受け 繼いだ 言い 傳えによって, 神のことばを 空文にしています. そして, これと 同じようなことを, たくさんしているのです. 」 イエス・キリストの周りにパリサイ人が来ました。しかし、それは神なる子イエス・キリストに会おうとしているのでなく、集まったのです。それは、イエス・キリストを陥れるためだったのです。私たちは、イエス・キリストを見れれば信じるさ、またイエス・キリストの時代の人はリアルにイエスを見れたから信じれた、と考えます。また、ある人はイエスを見せてくだされば信じるさと言います。はたして、そうでしょうか?イエスを見た人がみな信じたのでありません。それよりも、わざわざエルサレムからパリサイ人たちはイエスを陥れるために、難癖をつけるために来たのです。こんなもったいないことがあるのでしょうか。しかし、よくあることかもしれません。私たちは聖書を通して出会うイエス・キリストに素直に会おうとしているのでしょうか。神様のいない律法生活があります。神様のいない宗教行為があります。そして、下手をしたら神様のいない奉仕もあります。教会生活をそのようにする可能性もあります。それは、実のない人生です。私の義や私の律法で生きるなら、人の比較で歩み、神様に出会うことがない人生を歩みます。それは、実のない信仰生活となります。それは、神を神としない信仰生活です。素直に神様に出会う心を持ちます。
イエスと関係が無くては、いかに素晴らしい働きしても神が分からない
マルコの福音書6:45-55
それから, 群衆に 別れ, 祈るために, そこを 去って 山のほうに 向かわれた. 夕方になったころ,舟は湖の眞中に出ており, イエス だけが陸地におられた.
イエス は, 弟子たちが, 向かい 風のために 漕ぎあぐねているのをご 覽になり,夜中の 三時ごろ, 湖の 上を 步いて, 彼らに 近づいて行かれたが, そのままそばを 通り 過ぎようとのおつもりであった. しかし,弟子たちは, イエス が 湖の 上を 步いておられるのを 見て,幽靈だと思い,叫び聲をあげた.
というのは, みな イエス を 見ておびえてしまったからである. しかし, イエス はすぐに 彼らに 話しかけ, 「しっかりしなさい. わたしだ. 恐れることはない. 」と 言われた.
そして舟に乘り¿まれると, 風がやんだ.彼らの心中の驚きは 非常なものであった.
というのは,彼らはまだパンのことから悟るところがなく,その心は堅く閉じていたからである. 彼らは 湖を 渡って, ゲネサレ の 地に 着き, 舟をつないだ.
そして, 彼らが 舟から 上がると, 人¿はすぐにイエス だと氣がついて, そのあたりをくまなく 走り 回り, イエス がおられると 聞いた 場所へ,病人を床に載せて運んで來た. イエス・キリストは忙しい中であっても、すぐに必要が迫っていても必ず神様の関係を1対1でもたれていました。何故でしょうか?神様の子だからです。父なる神と子なるキリストが会話を持つのが当然なのです。これは当たり前ですが、私たちクリスチャンも神の子であるのです。そうするならば、私も忙しくても、するべき当座のことがあっても、主なる神との1対1の時間を持つのが、祈りの時間を持つのが当たり前でないでしょうか。群集たちも、弟子たちも主イエスが誰なのか、分かっていたのか?それともわかっていても、自分たちの必要を満たす方としていたのでしょうか。彼らの心は硬く閉ざされていたとあります。それは、主イエスが神の子であると、救い主であると分からないと全てのことがとかれないからです。そうでないと、単に願い事、祈りをするだけの関係になります、と言うよりは、関係を持たないことになります。私たちは、主なる神との関係はどうでしょうか?お願い事の一方的な関係に終わっていないでしょうか。関係があるなら、その人と話すことが休みにもなります。主イエスのとの祈りの関係を持っていきます。
羊飼いの心と営業者の違い
マルコの福音書6章30-44
そこで イエス は 彼らに, 「さあ, あなたがただけで, 寂しい 所へ行って, しばらく 休みなさい. 」と言われた. 人¿の 出入りが多くて, ゆっくり 食事する 時間さえなかったからである. そこで彼らは,舟に乘って,自分たちだけで寂しい所へ行った.
ところが,多くの人¿が, 彼らの 出て 行くのを 見, それと 氣づいて, 方¿の町¿からそこへ徒步で驅けつけ, 彼らよりも 先に 着いてしまった. イエスは,舟から上がられると, 多くの 群衆をご 覽になった. そして 彼らが 羊飼いのいない 羊のようであるのを深くあわれみ,いろいろと敎え始められた. そのうち, もう時刻もおそくなったので, 弟子たちはイエス のところに來て言った. 「ここはへんぴな所で,もう時刻もおそくなりました.
みんなを解散させてください. そして, 近くの 部落や 村に 行って 何か 食べる 物をめいめいで 買うようにさせてください. 」 すると,彼らに 答えて 言われた. 「あなたがたで, あの 人たちに何か食べる物を上げなさい. 」そこで弟子たちは 言った. 「私たちが 出かけて 行って,二百 デナリものパンを買ってあの人たちに食べさせるように, ということでしょうか. 」
すると イエス は 彼らに 言われた. 「パン はどれぐらいありますか. 行って 見て 來なさい. 」彼らは確かめて言った. 「五つです. それと 魚が 二匹です. 」
イエス は,みなを, それぞれ 組にして 靑草の 上にすわらせるよう, 弟子たちにお 命じになった. そこで 人¿は, 百人, 五十人と 固まって 席に 着いた.
するとイエスは, 五つの パン と 二匹の 魚を 取り, 天を 見上げて 祝福を 求め, パン を 裂き,人¿に 配るように 弟子たちに 與えられた. また, 二匹の 魚もみなに 分けられた.
人¿はみな, 食べて 滿腹した. そして, パン 切れを 十二のかごにいっぱい 取り 集め, 魚の 殘りも 取り 集めた. パン を 食べたのは, 男が 五千人であった.
それからすぐに, イエスは弟子たちを 强いて 舟に 乘り ¿ませ,先に向こう岸のベツサイダに 行かせ, ご 自分は,その間に 群衆を 解散させておられた.キリストの心と、自分中心な人の心の違いは何でしょうか?牧者と営業者の心の違いは何でしょうか?牧師であっても、自分が王様である人と主イエスが王様である人の違いは何でしょうか? それは、「あわれみ」の心です。自分がしんどくても、何も無くても、何か与えることは出来ないかと探し、祈り求める信仰です。主イエスは群集をみて、憐れみの心をもたれました。彼らからは何か見返りを期待できるものはありませんでした。しかし、主イエスはあわれみをもたれました。 牧師であっても、非常に難しい話です。自分の言うことを聞き、従ってくれる人にはしやすいでしょう。また、自分の目上の人にもしやすいでしょう。しかし、二度と会わない人や見返りを期待できない人にはどうでしょうか。主イエスはあわれみをもたれました。そして、弟子たちに「彼ら群集に与えるものを用意しなさい」、とチャレンジをされたのです。主イエスは出来ないことを、無理な要求をされる方ではありません。弟子たちにも出来るからチャレンジされたのです。私にとって、どのようなチャレンジがあるのでしょうか。主イエスの憐れみの心を持つ人にはジョージミュラーを用いられたように与える力と祝福を注がれるのです。憐れみの心を持って人に仕えていきます。
神様にだけ任せると、大きな祝福を得れる
マルコの福音書6:7-29
また, 十二弟子を呼び, ふたりずつ 遣わし 始め, 彼らに 汚れた 靈を 追い 出す 權威をお 與えになった. また, 彼らにこう 命じられた. 「旅のためには, 杖一本のほかは, 何も 持って 行ってはいけません. パン も, 袋も, 胴卷きに 金も 持って 行ってはいけません.
くつは, はきなさい. しかし 二枚の下着を着てはいけません. 」
また, 彼らに 言われた. 「どこででも 一軒の 家にはいったら, そこの 土地から 出て 行くまでは, その 家にとどまっていなさい.
もし,あなたがたを受け入れない場所,また,あなたがたに聞こうとしない人¿なら, そこから出て行くときに, そこの 人¿に 對する 證言として,足の裏のちりを拂い落としなさい.」 こうして十二人が出て行き,悔い改めを說き廣め, 惡靈を多く追い出し,大ぜいの病人に 油を 塗っていやした. イエスの名が知れ渡ったので, ヘロデ 王の 耳にもはいった. 人¿は, 「バプテスマ の ヨハネが死人の中からよみがえったのだ. だから, あんな 力が, 彼のうちに ¿いているのだ. 」と言っていた. 別の人々は,「彼はエリヤだ.」と言い,さらに別の人々は,「昔の預言者の中のひとりのような預言者だ.」と言っていた.今日の聖書本文に付けられたテーマは「弟子たちの清貧伝道」でした。これを読みながら、感じたことですが「弟子たちはキリストだけに頼ることで得た大きな祝福」をもらったのでないかと思いました。私たちは、キリスト以外にいろんなものを頼りにし、それに縛られがちです。また、キリスト以上にそれらのものを頼りにすることがあります。しかし、主イエスは弟子たちに清貧伝道を強いたのでなく、キリストだけに頼らないと得ることの出来ない祝福をあげたたくて、このようにされたのであると思いました。今朝の祈りはこうでした①私に、キリストの福音を伝えることだけで生活させてくださる祝福、そのキリストへ集中した生活を今朝、祈りました。②また、伝道する地域で共に支えてくださる人が与えられるように祈りました。キリストに頼ることで得れる祝福を享受させてください。
ただ信じるためには、神様のシークレットを知る必要がある
マルコの福音書5章35-6:6
イエス が, まだ 話しておられるときに, 會堂管理者の 家から 人がやって 來て 言った. 「あなたのお 孃さんはなくなりました.なぜ, このうえ 先生を 煩わすことがありましょう. 」
イエス は,その話のことばをそばで聞いて,會堂管理者に言われた. 「恐れないで, ただ 信じていなさい.」 そして,ペテロとヤコブとヤコブの兄弟 ヨハネのほかは, だれも 自分といっしょに 行くのをお 許しにならなかった. 彼らはその會堂管理者の家に 着いた.イエスは,人々が,取り亂し,大聲で泣いたり,わめいたりしているのをご 覽になり, 中にはいって, 彼らにこう言われた.「なぜ取り亂して, 泣くのですか. 子どもは死んだのではない. 眠っているのです. 」 人々はイエス をあざ 笑った. しかし, イエスはみんなを 外に 出し,ただその子どもの父と母, それにご 自分の 供の 者たちだけを 伴って, 子どものいる所へはいって 行かれた. 何故、人は「ただ信じること」がこんなにも難しいのでしょうか?また、どうしていろんな理屈が必要なのでしょうか?どうして、生きるのにいろんな知識や、財産や立場が必要なのでしょうか。今日の聖書本文は、完全に絶望の状態である「娘が死んだ」という状態へと追い込まれます。また、そこでイエスが言われたことは「恐れないで信じなさい」でした。しかし、人々はイエスをあざ笑います。もしも、イエスが偉大な技する人物であるならばそうでしょうか。しかし、神様のこであるならそうでないはずです。信じるものは神様のみわざを見るのに、人々はイエスを、信じるもの、私たちをあざ笑います。それをはたしてわたしは恐れずに生きているでしょうか。イエスは癒しの奇跡をしかも、人々見せることをしませんでした。奇跡をして人々に驚かせて、「それ見たことか?」とは言わせなかったのです。本当にすべき、愛を持っての癒しと救い主イエス様だけを表されたのです。人は自分がスーパースターになることを願います。それを拒否しようとしても、その誘惑に勝つのが非常に難しいものです。しかも、これは弟子たちの中でもペテロ、ヤコブ、ヨハネ以外には見せなかったのです。神様のシークレットである御心、イエス様が救い主であることを確信するものだけが、あざ笑われても、偏見を持たずに、恐れずに神様の御心を行い、みわざを行い、神様の奇跡を見ることが出来ます。ただ信じる神様のシークレットを見る人になって行きます。
ひりひりした真理の中で生きているか?
マルコの福音書5章21-34
すると, 會堂管理者のひとりで ヤイロ という 者が 來て, イエス を 見て, その 足もとにひれ 伏し, いっしょうけんめい 願ってこう 言った. 「私の 小さい 娘が 死にかけています. どうか おいでくださって, 娘の 上に 御手を 置いてやってください. 娘が 直って, 助かるようにしてください.」そこで, イエス は 彼といっしょに出かけられたが,多くの群衆がイエス について 來て, イエスに押し迫った. ところで,十二年の間長血をわずらっている女がいた. この女は多くの醫者からひどいめに 會わされて, 自分の 持ち 物をみな 使い 果たしてしまったが, 何のかいもなく, かえって 惡くなる 一方であった. 彼女は,イエスのことを耳にして,群衆の中に紛れ ¿み, うしろから, イエス の 着物にさわった. 「お 着物にさわることでもできれば, きっと直る. 」と 考えていたからである. すると,すぐに,血の源がかれて,ひどい痛みが直ったことを, からだに 感じた.
イエスも, すぐに, 自分のうちから 力が 外に 出て 行ったことに 氣づいて, 群衆の 中を 振り向いて, 「だれがわたしの 着物にさわったのですか. 」と言われた.今日の聖書本文を読むときに、感じることは①何故、多くの人々がいたのに「会堂管理者の娘を癒したのか?」と「長血の女を癒したのか?」という疑問があります。②そこで、この二人に見れる共通点は「イエス以外にどこにも救いがない人生の絶望点にいた」そして「ただ、イエスだけに自分のプライドを捨てて頼った」それは他の誰よりも切実な願いであった③またイエスはこの癒しを単なる病気の癒しで終わらせず、救いへ導いた。という点があります。 長い血で苦しんだ女がイエスの着物に触れたときに、癒されて十分なはずであったのに、イエスはわざわざ癒しを求めた人が誰であるのか?探されました。それは、イエスは女性の体の癒しで終わるものでなく、心の、魂の癒しまでされたのです。それは、決して彼女を辱めるためでなく「彼女を癒し、人々の間でも癒しをされました」また、自分の自慢でもありませんでした。私にとって、与えられた恵みは「この二人のようにイエス様の真実に心から求めて生きているのか?」という真実さ、切実な思いがあるのか?ということでした。また、人を自由にするミニストリーをしているのか?という思いでした。切実な思いであれば、神様の恵みしかない、と言う自分の自慢をするはずがない、ということでした。神様以外にいない人生を、働きをしていきます。
神の国を見る信仰を持て
マルコの福音書4:26-41
また言われた.「神の國は,人が地に種を蒔くようなもので, 夜は寢て,朝は起き, そうこうしているうちに,種は芽を出して 育ちます. どのようにしてか,人は知りません.
地は人手によらず 實をならせるもので, 初めに 苗, 次に 穗, 次に 穗の 中に 實がはいります.實が熟すると,人はすぐにかまを入れます. 收穫の時が來たからです. 」
また言われた.「神の國は,どのようなものと言えばよいでしょう.何にたとえたらよいでしょう.それはからし 種のようなものです. 地に 蒔かれるときには, 地に 蒔かれる 種の 中で, 一番小さいのですが, それが 蒔かれると,生長してどんな野菜よりも大きくなり, 大きな枝を張り,その陰に空の鳥が巢を 作れるほどになります. 」
イエス は, このように 多くのたとえで, 彼らの聞く力に應じて, みことばを話された.
たとえによらないで話されることはなかった. ただ,ご自分の弟子たちにだけは,すべてのことを 解き 明かされた. さて, その日のこと,夕方になって, イエス は 弟子たちに, 「さあ,向こう岸へ渡ろう.」と言われた. そこで 弟子たちは, 群衆をあとに 殘し, 舟に 乘っておられるままで, イエス をお 連れした. 他の 舟も イエス について 行った.
すると,激しい突風が起こり, 舟は 波をかぶって 水でいっぱいになった.
ところがイエス だけは, とものほうで, 枕をして 眠っておられた. 弟子たちは イエス を 起こして言った. 「先生. 私たちがおぼれて 死にそうでも, 何とも 思われないのですか. 」
イエスは起き上がって, 風をしかりつけ,湖に「默れ,靜まれ.」と言われた. すると 風はやみ, 大なぎになった.
イエスは彼らに言われた.「どうしてそんなにこわがるのです. 信仰がないのは, どうしたことです.」
私たちにとって、不足なものは何でしょうか?
それは、主イエスがどのような方であるのか知っているのか?どのような方であるのか本気で信じているのか?また、私が信じている方に祈り願うならば、どのようなことが起こるのか?期待しているのか?ということです。神様の国をたとえで話されたときに、育てるのは神様であり、私たちはそれを知らず、どのように大きくなるのか、人間の要素によってならないと神様は言われました(26-29)。
では、私たちのすることは実を蒔く事、そして実を刈り取ることなのです。それなのに、どうして私たちは種を蒔かないのでしょうか。実を刈り取ろうと出て行かないのでしょうか。また、弟子たちには神様の国の奥義を知ることを許されていました。それは、群集には語られていないことでした。
私たちにも、主イエスは神様の国の奥義を語ってくださっているのです。普通、奥義とはだれかれなしに語られるものでなく、ゆるされた力量のあるものに語られるものです。また、語られたものも、語られたことに大きな光栄を感じます。私たちは、主イエスに語られていることに光栄だ、と思っているのでしょうか。それとも、主イエスに語られる奥義にもかかわらず、つまらない聖書とか、わかりにく聖書と思っているのでしょうか。忙しい中で、QTをおろそかにしていないでしょうか。忙しいと理由をつけているのです。しかし、奥義を語られているのに他に忙しいことがあるのでしょうか。他に優先順位があって良いのでしょうか。弟子たちは、嵐の中でイエスが嵐を静める事を理解できず、期待も出来ませんでした。神様の国が嵐の中で起こらなかったのです。嵐の中で見ることが出来なかったのです。私も人生の嵐で神様の国を見ることが出来るでしょうか。黙想させられました。
神様の国を見るために、奥義である聖書から学び続けます。QTをもっと聖別します。
自分に与えられたポジションで生きるとき実を結ぶ
マルコの福音書4章13-25
種蒔く 人は, みことばを 蒔くのです. みことばが 道ばたに 蒔かれるとは, こういう 人たちのことです ··みことばを聞くと,すぐサタンが來て, 彼らに 蒔かれたみことばを 持ち 去ってしまうのです. 同じように,岩地に蒔かれるとは, こういう人たちのことです ··みことばを 聞くと, すぐに 喜んで 受けるが,根を張らないで, ただしばらく續くだけです. それで, みことばのために 困難や迫害が起こると, すぐにつまずいてしまいます.もう一つの, いばらの中に種を蒔かれるとは,こういう人たちのことです. ··みことばを 聞いてはいるが, 世の心づかいや,富の惑わし,その他いろいろな欲望がはいり ¿んで,みことばをふさぐので,實を結びません.良い地に蒔かれるとは, みことばを聞いて受け入れ,三十倍,六十倍,百倍の實を結ぶ人たちです. 」 また言われた. 「あかりを持って 來るのは ¿の下や寢台の下に置くためでしょうか. 燭台の上に置くためではありませんか. 隱れているのは, 必ず 現われるためであり, おおい 隱されているのは, 明らかにされるためです.聞く耳のある者は聞きなさい. 」
また彼らに 言われた.「聞いていることによく注意しなさい. あなたがたは,人に量ってあげるその量りで,自分にも量り與えられ, さらにその上に增し加えられます.
持っている人は, さらに與えられ,持たない人は,持っているものまでも取り上げられてしまいます 」私たちが実をむすぶためにするべきことは何でしょうか。それは、神様に与えられた自分のアイデンティを守って生きることです。また、神様に与えられたポジションを守ることです。私たちは、神様に与えられた人生を生きるのに、困難が起こると驚いてしまいます。何故、このようなことが起こるのか?神様の導きで来たはずなのに、と思い、落ち込みます。そのよう中でも、神様によって蒔かれた種を、御言葉を、ビジョンを守るべきであります。根を張る信仰生活、夫婦生活、教会生活をすべきであります。そして、クリスチャンとして自分の正体をアイデンティを守る生活をするべきであります。そこに、神様の力とビジョンが現れます。実を結ぶために、神様に与えられたポジションを守って(根を張って)、クリスチャンのアイデンティを宣言しながら歩みます。
実の結ぶ人生とは喜びの日々だ
マルコの福音書4;1-12「よく 聞きなさい. 種を 蒔く 人が 種蒔きに 出かけた.
蒔いているとき, 種が 道ばたに 落ちた. すると, 鳥が 來て 食べてしまった.
また,別の種が土の薄い岩地に落ちた. 土が 深くなかったので, すぐに 芽を 出した. しかし日が上ると,燒けて,根がないために 枯れてしまった. また,別の種がいばらの 中に 落ちた. ところが, いばらが 伸びて,それをふさいでしまったので, 實を 結ばなかった. また,別の種が良い地に落ちた.すると芽ばえ,育って, 實を 結び, 三十倍, 六十倍, 百倍になった. 」 そしてイエス は 言われた. 「聞く 耳のある 者は 聞きなさい. 」 さて, イエス だけになったとき, いつもつき 從っている 人たちが, 十二弟子とともに, これらのたとえのことを 尋ねた. そこで, イエス は 言われた. 「あなたがたには, 神の 國の 奧義が 知らされているが, ほかの 人たちには, すべてがたとえで 言われるのです.
それは, 『彼らは 確かに 見るには 見るがわからず, 聞くには 聞くが 悟らず, 悔い 改めて 赦されることのないため. 』です. 」
そして 彼らにこう 言われた.「このたとえがわからないのですか. そんなことで, いったいどうしてたとえの 理解ができましょう.種蒔く人は,みことばを蒔くのです. 実の結び人生とは何でしょうか?黙想したときに、このような賛美が浮かびました「お、喜びの日々よ、主に委ねた人生、心配、悩みはなく、平安のみ」それは、恐れのない日々です。人間は未来に対する心配や不安があります、ふあんの90%以上は現在の出来事でなく、未来へのことであると言われます。しかし、クリスチャンには不安や心配が起こっても、恐れはありません。究極のゴールが決まっているからです。実の結ぶ人とは①神様とつながっている人②神様の言われることを聞こうとする人③神様の言われることを信頼して、従う人④御言葉をしたい求める人ここ数日体調が悪く、qTの時間が短くなっていました。すると、ずいぶん恵みを損している気がしました。神様の恵みをしたい求める敬虔の生活を立て直していきます。
神様の心を知る人こそ、まことの家族を味わう
マルコ3:20-35
イエス の 身內の 者たちが 聞いて, イエス を 連れ 戾しに 出て 來た. 「氣が 狂ったのだ. 」と 言う 人たちがいたからである.
また, エルサレム から 下って 來た 律法學者たちも, 「彼は, ベルゼブル に 取りつかれている. 」と 言い, 「惡靈どものかしらによって, 惡靈どもを 追い 出しているのだ. 」とも 言った. そこで イエス は 彼らをそばに 呼んで, たとえによって 話された. 「サタン がどうして サタン を 追い 出せましょう. もし 國が 內部で 分裂したら, その 國は 立ち 行きません. また, 家が 內輪もめをしたら, 家は 立ち 行きません. サタン も,もし內輪の爭いが起こって分裂していれば,立ち行くことができないで 滅びます. 確かに, 强い 人の 家に 押し 入って 家財を 略奪するには, まずその 强い 人を 縛り 上げなければなりません. そのあとでその 家を 略奪できるのです.
まことに, あなたがたに 告げます. 人はその 犯すどんな 罪も 赦していただけます. また, 神をけがすことを 言っても, それはみな 赦していただけます.
しかし, 聖靈をけがす 者はだれでも, 永遠に 赦されず, とこしえの 罪に 定められます. 」 このように 言われたのは, 彼らが, 「イエス は, 汚れた 靈につかれている. 」と 言っていたからである. さて, イエス の 母と 兄弟たちが 來て, 外に 立っていて, 人をやり, イエス を 呼ばせた. 大ぜいの 人が イエス を 圍んですわっていたが, 「ご 覽なさい. あなたのおかあさんと 兄弟たちが, 外であなたをたずねています. 」と 言った.
すると, イエス は 彼らに 答えて 言われた. 「わたしの 母とはだれのことですか. また, 兄弟たちとはだれのことですか 」 そして, 自分の 回りにすわっている 人たちを 見回して 言われた. 「ご 覽なさい. わたしの 母, わたしの 兄弟たちです.
神のみこころを 行なう 人はだれでも, わたしの 兄弟, 姉妹, また 母なのです. 」 イエスは、周りから、特に身内からとんでもない誤解を受けました。また、イエスは気が狂っているとか、律法学者からの批判、非難を数多く受けました。ぼーっと聖書を読んでいると見逃している部分ですが、考えてみると自分たちが一番嫌な、傷を受ける非難でないでしょうか。また、自分の身内からの非難は大きなものであると思います。イエスの家族さえもそうであり、イエスの地上生涯のうちはイエスのことを理解できなかった家族たちなのです。私たちは家族から受ける傷を一番大きく背負うことがあるのでないでしょうか。しかし、神様の心を知るものこそが、それはイエス・キリストの十字架の愛です。あなたのために、死んでも惜しくない愛です。それを知っているものこそが、家族からの傷を癒され、人々からの言われも無い批判や非難や誤解から自由になれます。私たちは、その愛を知ってこそ、誰とでも神様の家族を得ることが出来ます。相手を信じることが出来ます。どこでも、神様の家族を得ることが出来ます。私は、はたして神様の心持つ家族を願っているのでしょうか。神様のビジョンを持つ家族を得ることを祈っているのでしょうか。この家族が崩壊していく時代に、愛し、信じあう家族を持とうとしているのでしょうか。神様の国を広げるビジョンを持っているのでしょうか。結婚式の司式をしていただく先生がこのようなことを言われました。「夫婦の司式をすることがどれほど光栄であるのか、わかったことがある」それは「一つの夫婦を立てるのは一つの教会をたてるのと同じ価値がある」と言われたことなのです。神様の心を持つ家族を、夫婦を、教会をたてていきます。
イエス・キリストのミニストリーを継ぐ者
マルコの福音書3:7-19
それから,イエスは弟子たちとともに湖のほうに退かれた.すると,ガリラヤから出て來た大ぜいの 人¿がついて行った.またユダヤから,
エルサレムから, イドマヤから,ヨルダンの川向こうやツロ ,シドンあたりから,大ぜいの人¿が,イエスの行なっておられることを聞いて, みもとにやって 來た.
イエスは、 大ぜいの人なので,押し寄せて來ないよう,ご自分のために小舟を用意しておくように 弟子たちに言いつけられた.
それは,多くの人をいやされたので,病氣に惱む人たちがみな,イエスにさわろうとして,みもとに押しかけて來たからである. また,汚れた靈どもが,イエスを見ると、みもとにひれ伏し,「あなたこそ神の子です.」と叫ぶのであった. イエスは,ご自身のことを知らせないようにと,きびしく彼らを戒められた. さて,イエスは山に登り,ご自身のお望みになる 者たちを呼び寄せられたので,彼らはみもとに 來た.そこでイエス は 十二弟子を任命された.それは,彼らを身近に置き,また彼らを遣わして福音を 宣べさせ, 惡靈を追い出す權威を持たせるためであった.
こうして,イエスは十二弟子を任命された.そして,シモンにはペテロという名をつけ, ゼベダイの 子 ヤコブとヤコブの兄弟 ヨハネ , このふたりにはボアネルゲ ,すなわち,雷の子という名をつけられた.次に,アンデレ , ピリポ , バルトロマイ , マタイ , トマス , アルパヨの子ヤコブ ,タダイ ,熱心黨員 シモン , イスカリオテ · ユダ .このユダ が,イエスを裏切ったのである. 「イエスのなされたことを聞いて」大勢の人が来たのです。それは、人々にとって魅力のあるものでした。イエスのなされたミニストリーは何でしょうか。人々の必要に答えることでした。①神様の国の福音を伝えることでした。②病気の人をいやすこと③イエス・キリストのTOUCHがありました。④悪霊の追い出しをしました、その結果、その実は、その答えは悪霊さえも、「イエス・キリストが神の子」であることを認めました。私の中でこの聖書箇所を黙想したときに、はたして「悪霊の追い出し」や「病の癒し」が私たちの時代にもあるのか?また私たちもそのミニストリーをするべきなのか?すごく考えさせられました。私たちは働きの華やかな部分に目を向けがちです。しかし、一番大事なことは「イエス・キリストが神様の子供」であることを認め、信じることです。聖霊を冒涜する罪はゆるされないとあります。そのために、私たちは呼ばれたこと、イエス・キリストの弟子として召されたことを覚えるべきです。自分自身がイエス・キリストが神様の子供であることを日ごとに告白しているのでしょうか。それなら、いろんな悩みや病気は全て乗り越えるはずです。神様の子供と歩んでいるのに、それ以外のことを神経をとがらせてどうするのでしょうか。イエス・キリストのTOUCHをいただくものとして歩んでいきます。
クリスチャンの行動原則
マルコ2;23-3;6ある 安息日のこと, イエスは麥畑の中を通って行かれた.すると,弟子たちが 道¿穗を 摘み 始めた. すると,パリサイ人たちが イエスに言った.「ご覽なさい.なぜ 彼らは,安息日なのに,してはならないことをするのですか.」 イエスは彼らに言われた「ダビデとその連れの者たちが, 食物がなくてひもじかったとき, ダビデが 何をしたか,讀まなかったのですか. アビヤタルが大祭司のころ,ダビデは神の家にはいって,祭司以外の者が 食べてはならない供えの パン を, 自分も 食べ, またともにいた 者たちにも 與えたではありませんか.」 また言われた. 「安息日は 人間のために 設けられたのです. 人間が 安息日のために 造られたのではありません.人の子は安息日にも主です.」 イエスはまた會堂にはいられた. そこに 片手のなえた人がいた. 彼らは,イエスが安息日にその人を直すかどうか,じっと見ていた. イエス を 訴えるためであった. イエスは手のなえたその 人に, 「立って, 眞中に出なさい. 」と 言われた. それから彼らに,「安息日にしてよいのは,善を行なうことなのか,それとも惡を行なうことなのか.いのちを救うことなのか,それとも殺すことなのか.」と言われた.彼らは默っていた. イエス は 怒って 彼らを 見回し, その 心のかたくななのを 嘆きながら, その人に,「手を 伸ばしなさい. 」と 言われた. 彼は 手を 伸ばした. するとその 手が元どおりになった. クリスチャンの行動原則は、人(自分を)を満足されるのか?それとも神様を満足させるのか?神様との関係の中で、人を見るのかどうかです。パリサイ人にとって律法が行動原則でした。それ自体は間違いではありません。しかし、そこに生きた神様のと関係が無いときに「人間を満足させる」もしくは「自己満足の宗教生活」となっていきます。主イエスは言われました。「安息日にしていいのは、いのちを救うことか、それとも殺すことか?」また言われました「善を行うことなのか?悪を行うことなのか?」こうして、聖書を読んでいるときは「そうだ、そうだ」とイエスの言われたことに同意し、大きな声でイエスの正義を叫びます。しかし、実際の生活に出るとどうでしょうか。はたして、そのように行動するのがどれほど難しいことでしょうか。私は、今日神様にあって活かされている牧師先生からの愛をいただきました。とても感謝なことであり、大きな励ましでした。このような牧師先生方のように歩みたいと思います。また、今日の聖書箇所は主イエスがパリサイ人への悔い改めのチャンスを下さいました。しかし、彼らは罪をつかれてかえって自分を守り、主イエスへの逆恨みをしました。私自身、正直に、悔い改めのチャンスを下さったときに素直に歩めるように祈ります。
心のあるキリスト教と形だけの宗教とは?
マルコの福音書2;13-22イエス は, 道を 通りながら, アルパヨ の 子 レビ が 收稅所にすわっているのをご 覽になって, 「わたしについて 來なさい. 」と 言われた. すると 彼は 立ち 上がって 從った.
それから, イエス は, 彼の 家で 食卓に 着かれた. 取稅人や 罪人たちも 大ぜい, イエス や 弟子たちといっしょに 食卓に 着いていた. こういう 人たちが 大ぜいいて, イエス に 從っていたのである パリサイ 派の 律法學者たちは, イエス が 罪人や 取稅人たちといっしょに 食事をしておられるのを 見て, イエス の 弟子たちにこう言った.「なぜ, あの 人は 取稅人や 罪人たちといっしょに 食事をするのですか.」 イエスはこれを 聞いて, 彼らにこう 言われた. 「醫者を 必要とするのは 丈夫な 者ではなく, 病人です. わたしは 正しい 人を 招くためではなく, 罪人を 招くために 來たのです. 」 ヨハネの弟子たちとパリサイ 人たちは 斷食をしていた. そして,イエスのもとに來て言った. 「ヨハネ の 弟子たちや パリサイ 人の 弟子たちは 斷食するのに,あなたの弟子たちはなぜ 斷食しないのですか. 」
イエス は 彼らに 言われた. 「花¿が自分たちといっしょにいる間,花婿につき添う友だちが 斷食できるでしょうか. 花¿といっしょにいる 時は, 斷食できないのです.
しかし, 花婿が 彼らから 取り 去られる 時が 來ます. その 日には 斷食します.だれも、眞新しい 布切れで 古い 着物の 繼ぎをするようなことはしません. そんなことをすれば, 新しい 繼ぎ 切れは 古い 着物を 引き 裂き, 破れはもっとひどくなります.
また, だれも 新しいぶどう 酒を 古い 皮袋に 入れるようなことはしません. そんなことをすれば, ぶどう 酒は 皮袋を 張り 裂き, ぶどう 酒も 皮袋もだめになってしまいます. 新しいぶどう 酒は 新しい 皮袋に 入れるのです. 」
昔、ハードロックバンドのガンズアンドローゼスというバンドのギタリストが言いました。「聖書って面白いんだ」それから「キリストってかっこいいんだ」と。どういうことでしょうか。それは、主イエスが形だけの宗教を片っ端から壊して、心のある「神様とつながっている、関係を持っている」人生を、信仰を生きたからです。私たちは、こともあると形だけの宗教、心の無い宗教生活や行為、言葉を繰り返す危険性があります。以前には、キリストとの熱い関係を持っていたのに、いつの間にか形だけの行為になっていることがあります。恵みが律法になるのもそうです。パリサイ人には断食さえも形だけの人に見せるために行為になっていました。それは、命の無い宗教は神様に満足してもらうのでなく、自分を人間を満足させる、自己満足の宗教にするのです。何のために断食するのでしょうか!!!。神様に近づく、神様に集中するためのでないでしょうか。 主イエスは新しいぶどう酒は新しい皮袋にいれないといえけない、と言われました。私にとって、新しい皮袋とは何でしょうか。それは、一回限りの皮袋でなく、日ごとに新しくされるキリストの恵み、十字架の愛、十字架の血潮なのです。パリサイ人は、全ての人にオープンされているキリストの福音を閉ざしてしまいました。罪人や、収税人にオープンされている福音、キリストの愛は自分が罪があるものとして認めて、自分の弱さを受け入れている人々です。はたして、私は自分を宗教人として正しい人の位置にたっていないでしょうか。キリストの一方的なあわれみを受けたものとして歩んでいきます。そして、私が医者として神様の愛を、癒しを日ごとに受けて、私のことを待っている人々に仕えて生きたいと思います。
私は理屈を言って神様の偉大なみわざを損ねないか?
マルコの福音書2;1-12そのとき, ひとりの 中風の 人が 四人の 人にかつがれて, みもとに 連れて 來られた.
群衆のために イエス に 近づくことができなかったので, その 人¿は イエス のおられるあたりの 屋根をはがし, 穴をあけて, 中風の 人を 寢かせたままその 床をつり 降ろした.
イエス は 彼らの信仰見て,中風の人に,「子よ.あなたの罪は赦されました. 」と言われた. ところが, その場に律法學者が 數人すわっていて, 心の中で理屈を言った.
「この人は,なぜ, あんなことを 言うのか. 神をけがしているのだ. 神おひとりのほか, だれが 罪を 赦すことができよう.」 彼らが心の中でこのように 理屈を 言っているのを, イエス はすぐにご 自分の 靈で 見拔いて,こう言われた. 「なぜ, あなたがたは 心の 中でそんな 理屈を 言っているのか. 中風の人に,『あなたの罪は赦された. 』と 言うのと, 『起きて, 寢床をたたんで 步け. 』と言うのと,どちらがやさしいか. 人の子が 地上で 罪を 赦す 權威を 持っていることを, あなたがたに知らせるために. 」こう言ってから,私たちの知恵は、時に神様の素晴らしいみわざを、神様が人間には創造できないみわざをされるのを止めることがあります。また、神様のみ技をみながらも何にも祝福を受けない可能性を持ちます。目の前で、中風の人を担いでつれてきた4人の友人は周りの状況を知りながらも、イエス様の前に何としても、連れて行って癒されたいという信仰と行動がありました。以前に、聖書研究をしていたときに覚えている恵みがあります。それは「このような私を主イエスの前に連れて行く友人関係を持っているのか」もしくは「主イエスの前に連れて行く信仰を持っているのか」という話でした。とても印象深い話でありました。今日のQTで思ったことは、私には意地を張って神様の恵みを止めていることが無いのか?ということでした。また、そのような知識や理屈を言っている人への「霊で見抜いて対応しているのか」ということでした。私にとって、どっちにしても「神様の恵み」を受けている霊的な力があるのか?と思わされました。それは、人を縛る理屈でなく、人のために何か自分が犠牲する気持ちもありません。それは、中風の人が癒されることを願うありもありません。主イエスは、「罪を赦す権威」をもつ唯一の方でした。それは、聖く罪の無い完全な人であり、完全な神様であり、その人の罪の身代わりとなる十字架にかかったのでした。理屈を言う人に霊的な力はありません。また、愛もありません。相手への犠牲もありません。自分も相手も回りも不自由にします。神様のダイナミックな御業を起こすこともありません。人々を自由にしません。また、何よりも主イエスの心動かす信仰がありません。今朝、私の理屈をこだわりを捨てていきます。
何度も繰り返される神様の力を受ける秘訣
マルコの福音書1:35-45
35;さて, イエス は, 朝早くまだ 暗いうちに 起きて, 寂しい 所へ 出て 行き, そこで 祈っておられた. 40:さて, ひとりのらい 病人が, イエス のみもとにお 願いに 來て, ひざまずいて 言った. 「お 心一つで, 私はきよくしていただけます. 」 41;イエスは深くあわれみ,手を伸ばして,彼にさわって 言われた. 「わたしの心だ. きよくなれ. 」 42:すると,すぐに, そのらい病が消えて,その人はきよくなった. 43;そこでイエスは,彼をきびしく戒めて,すぐに彼を立ち去らせた. 44:そのとき 彼にこう 言われた. 「氣をつけて, だれにも 何も 言わないようにしなさい. ただ 行って, 自分を 祭司に見せなさい. そして,人々へのあかしのために, モ ― セ が 命じた 物をもって, あなたのきよめの供え物をしなさい.」神様の人となるためには、神様の働き人、リーダーとなるためには、神様の愛を伝染するためには、自分と神様だけが知っている親密な恵みの場所が必要です。それがなければ、自分の傷を伝染することになります。もしくは、主イエスを伝えながらも自分も伝えます(それは、不完全な私です)。主イエスは朝早く、神様との交わりを持っていました。主イエスの働きは①福音を告げる②ガリラヤ全土を回る(机の上の働きでなく、それはどんなに面倒くさい人のためにわざわざ出かけていく働きだったことでしょう)③悪霊を追い出す。神様の権勢を示されました④病の癒しでした、しかし、その根底にあったのは「父なる神様の愛の心」でした。ツァラフトに犯された人が「お心一つで癒されます」と「さわらないでください、汚れた私に触れてあなたまでけがれなくて大丈夫である」と表現したのに、彼に触れて「私の心だきよくなれ」と言われたのです。どれほどの神様の愛でしょうか。それは、日ごとの神様のと交わりから来ました。主イエスはどれほど忙しく、傷つくことも多く、誤解され、迫害されたことでしょうか。しかし、それに支配されずに神様の愛に支配されたのは、ひごとの神様との交わりの恵みの場所でした。何度も繰り返され、知っているこの事実でありながらも、私の現場での事実とすることがどれほどあることでしょうか。どれほど難しいでしょうか。しかし、毎日チャレンジする私を喜んでくださる主イエスに感謝し、賛美して進んでいきます。
CORE VALUE
マルコの福音書1:16-31
ガリラヤ 湖のほとりを 通られると, シモン と シモン の 兄弟 アンデレ が 湖で 網を 打っているのをご 覽になった. 彼らは 漁師であった. イエス は 彼らに 言われた. 「わたしについて 來なさい. 人間をとる漁師にしてあげよう. 」 すると, すぐに, 彼らは網を捨て置いて 從った. また少し行かれると, ゼベダイ の 子 ヤコブ とその 兄弟 ヨハネをご覽になった. 彼らも 舟の 中で 網を 繕っていた. すぐに,イエス がお 呼びになった. すると 彼らは 父 ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に殘して, イエスについて行った. 人々は,その敎えに驚いた. それは イエス が, 律法學者たちのようにではなく, 權威ある 者のように 敎えられたからである.
すると, すぐにまた,その會堂に 汚れた 靈につかれた 人がいて, 叫んで 言った.
「ナザレ の 人 イエス . いったい 私たちに 何をしようというのです. あなたは 私たちを 滅ぼしに 來たのでしょう. 私はあなたがどなたか 知っています. 神の 聖者です. 」
29:イエス は 會堂を 出るとすぐに, ヤコブ と ヨハネ を 連れて, シモン と アンデレ の 家にはいられた.30: ところが,シモンのしゅうとめが 熱病で 床に 着いていたので, 人¿はさっそく 彼女のことをイエスに知らせた. 今朝のQTはイエス様の召しにすぐに従った弟子たちの反応があります。シモンとアンデレはイエス様に「人間を取る漁師にしよう」と言われた時に、「すぐに」喜んで従いました。①:私たちは、神様の召しを喜んでいるでしょうか。最高の価値ある召しとしてその価値「CORE VALUE」として受け止めているでしょうか。また、②:そこまで自分を価値あるものとして(キリストに会って罪赦されるのみならず、その素晴らしい福音を伝えよとまで言われる召し、それでも弱く罪犯すものであるにもかかわらず)それでも、期待してくださる神様に、③:価値の無いものを価値あるものとして創造してくださる神様の愛に感謝しているのでしょうか。そこに、心が熱くならないわけがありません。そして、主イエスのミニストリーは①聖霊の満たし②サタンの権勢を倒す③神の国の福音の宣言④弟子たちとミニストリーを始めました(一人でなく、また群集と言う大勢に頼むことなく)弟子たちにです。私の心にある祈りがあります。北米で、アメリカにある働きをするときにCORE となる人々を与えてください。群衆となる人々でなく、キリストの弟子となる人々を与えてください。神様の国の価値観を知る人々を与えてください、という祈りです。主イエスは、弟子たちを引き連れて「弟子訓練」をしました。それは、まさにGROWING UP TOGETHERでした、生活の中での弟子訓練でした。そこに人々が集まってきたのです。そして、主イエスの教えにはサタンも従う、人々が驚くまことの権威がありました。私にも、キリストにあるまことの権威を与えてください、という祈りがあります。自分のために出なく、神様のために、神様の国の権威を与えられることを祈ります。新しい地で、DISICPLEをしていきます。
働きの前に聴くべき言葉、聞くべき声
マルコの福音書1;1,9-10神の子イエス · キリストの福音のはじめ.そして,水の中から上がられると、すぐそのとき,天が裂けて御靈が鳩のように自分の上に下られるのを,ご覽になった.そして天から声がした.「あなたは、わたしの愛する子, わたしはあなたを喜ぶ.」神様の働きをする前に聴くべき言葉があります。また、神様の働きをするのがこの世の仕事と決定的に違う部分があります。それは、神様が私の存在を愛されていることと、喜ばれていることを体験することです。人間は傷の無い人はいません、またコンプレックスを抱くことや、比較をすることが多くあります。それは、サタンに攻撃されやすいものです。また、多くの状況が私を怒らせ、傷を与え、その傷が癒されないままにいると、その傷は相手の悪意に、もしくは何の意味も無いことに過度に反応します。それは、恵みを受けた反応でなく、痛みの反応になります。神様にある癒しよりも自分の傷を伝えます。それは、福音ではありません。一番基本的で、簡単でありながらも、私たちは(わたしは) 福音である「あなたを愛している、喜んでいる」ことを忘れてしまいます。人は時に、素晴らしい人も変化します。また、時と場合によって信じていた人が変わることがあります。しかし、変わらない神様の真実に体験してこそ、その愛をもらってこそ福音の働きに従事することができます。もう一度、神様の愛と喜びの中に感謝します。そんな時に、どのようなことがあっても変わらない祝福を持てること、分かち合えることを信じます。
しもべを尊ぶ神様の考えられない愛
イザヤ49:1-7
私の人生を通して、神様は「神様の栄光」をあらわしてくださいます。あの人の生き方って素晴らしいな、何があの人の人生を支えているんであろうか、と感じさせる生き方です。あの人の人生って私も真似てみたいな、と思わせるものであります。ここで、不思議なのは「神様の栄光を表す人生」なのに私にたいして命じられていることや、させられていることが私のような人間のほうには無い、ということなのです。かえって神様が私をかくまってくれたり、ささえてくださっているのです(1-2節)。しかも、神様の選びはありえない選びをされています。「忌まわしい、嫌われている人、さげすまわれている人」を選んで下さるのです、なぜなら、主は真実で主が選ばれたのだからです。私はどうでしょうか。そのようなところから選ばれたことを毎日自覚し、感謝し、期待しているのでしょうか。自分は不当な場所や状況にいるでしょうか。その時には、「私の正しい訴えは主とともにあり、主は私の報酬である」と宣言しているのでしょうか。そのような逆説の信仰に生きる人に神様の祝福は及びます。なぜなら、しもべを尊ぶのが神様の愛だからです。しもべは仕えて当たり前なのに、それを尊ぶのは神様の愛です。私を大事にしてくださるのです。それを知るときに、私がさせられていることが何があるのでしょうか。神様がしてくださったことや、すべてのよき技、愛に何が言えるのでしょうか。私を人格者として、さげすまわれて私を神様の子供としてくださった愛に何が言えるのでしょうか。ただ、賛美して信じて従うだけです。主イエスこそ私の報酬であることを告白します。
神様のFIRST LOVEはPERFECT LOVEだ
第一ヨハネ4:7-21
私たちは、愛を弱いものや人間的な好きなものに置き換えていることがないでしょうか。しかし、聖書の言う神様の下さった愛とは、イエス・キリストの十字架、勝利であります。そして、不足なものでなく、イエス様だけ満足だと宣言せざるを得ない素晴らしいものです。この世のどこにもない満足を与えるものです。そして、愛するゆえの犠牲を犠牲を払ったと思いません。愛は、大胆なものです。なぜならイエスの愛とは罪を清めるものであり、罪のないものに後ろめたさがありません。恥ずかしさがありません。
創世記の最初にアダムが罪を犯した(原罪)ときから、最初にしたことは「隠れることでした」
ヨハネは言います。あなたは、この世にあってキリストと同じようなものである!と。それを本気で信じているのでしょうか。私は会社で、学校で、家庭でキリストと同じような存在でしょうか。それとも、それを別に割り切って歩んでいるのでしょうか。愛するなら、盗めません。愛するなら、姦淫できません。愛するなら殺せません。愛さないからできないのです。神様の完全な愛を持つものとして、キリストのようなものとして歩んで生きます。
神のくださる約束を見て進め
申命記6:4-19
神様を愛することが私への新年のみ言葉でありました。そして、神様を愛するならばどのような約束と祝福があるのかを見せられました。それは、あなたが建てなかった、大きくすばらしい町、あなたが満たさなかった、すべてのよいものが満ちた家々でした。あなたが食べて、満ち足りるとき、とあります。
それは、この世的な成功だけでなく、あなたの家が「御言葉を読み、告白し、行う」祝福があふれた家であります。私にとって、今年は神様の祝福の家、家族、第一の教会をたてる御言葉でした。全世界に散っている日本の人々に、神様を愛する、御言葉を守るものには、このような祝福があることを信じて進め一年になること、忘れられないすばらしい一年になって、あのときの祝福によって始まったという一年になることを祈ります。
恵みの高き嶺を目指すのか
第二コリント12:1-10
私は「主の啓示を見た」という事実だけを使徒パウロは告白します。しかし、それは恵みであって誇ることでもなく、人の誇張や自慢や比較ではありませんでした。果たして、私は恵みの高き嶺を目指すクリスチャン人生を歩んでいるのか黙想しました。そのためにどのような人生を、どのような行動をしているのか考えてみました。
愛は歩調をあわせる
第二コリント12;11-21
神様の力ある技を私は行えると信じているでしょうか。あの人はできても、自分はできないといいわけをしていないでしょうか。また、神様の力あるわざを行うための愛を持っているでしょうか。
正直に、それが無いとしか言うほかありません。また、神様の力ある技も神様にあるコミュニュケーション(愛が)なければ、何ともなりません。自分をささげる時間、お金(自分の一番の関心が出る部分です)をささげつくす使徒パウロと私はなんと差があるのかと思います。 はたして、私は自分のお金、時間、自分自身を何に使っているのでしょうか。 また、自分は相手のために歩調を合わせているのでしょうか(それを犠牲とか思っていないでしょうか)
主イエスは私のために愛して、歩調をあわせてくださいました。私があわせるべき人がいます。 それは、キリストです。キリストと愛の歩調をあわせるなら、人とも合うのです。
キリストと歩調を合わせる日々を過ごしていきます。
クリスチャンとして自画像を守れ
私たちクリスチャンにとって、驚くべきことは
「サタンは光の御使いにさえ変装することがある」ということです。それなら、なおさらサタンは人間関係を使って、それも時に教会の人間関係を使って踏み込んでくることがある、ということです。
また、それを通して誰かが、食い物にされたり、だまされたり、踏みにじられることがある、ということが
十分にあるということです。私は若いころはそれがよくわかりませんでした。 また、そういうことが教会にあることに非常な怒りと批判と非難を感じることがありました。
今もそういう部分があります。しかし、そのことにキリストの愛を持って決して入られてはいけない
境界線を入られないようにする必要があります。また、そのような教会をそのままにしてはいけないのであります。使徒パウロは神様にあって正しい道を語り続けました。しかもそれは、神様の愛からです。
クリスチャンとして自画像を守ることは、自分のクリスチャンの境界線を犯されないこと、そして犯させないことにあります。教会がキリストにある純潔を守るために、自分からまた自分との関係を持つ人に 正しく歩んでいけるようにクリスチャンとして自画像を守っていきます。