坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

水曜日, 1月 28, 2009

神様の願いは神様の心を知ること

マルコの福音書7:14-20
イエスは再び群衆を呼び寄せて 言われた. 「みな, わたしの 言うことを 聞いて, 悟るようになりなさい. 外側から 人にはいって, 人を 汚すことのできる 物は 何もありません.人から出て來るものが, 人を 汚すものなのです. 」 イエスが群衆を離れて,家にはいられると, 弟子たちは, このたとえについて尋ねた.
イエスは言われた. 「あなたがたまで, そんなにわからないのですか. 外側から 人にはいって 來る 物は 人を 汚すことができない, ということがわからないのですか.
そのような物は,人の心には,はいらないで, 腹にはいり, そして, かわやに出されてしまうのです.」 イエスは,このように,すべての食物をきよいとされた.また言われた. 「人から 出るもの,これが,人を汚すのです.
罪の本質とは何でしょうか?人間の作った律法でもなく、神様の与えた律法を人間的に解釈することでなく、人間的に人と比較して、裁くのでもありません。それは、神様のいない律法でも、人間が作ったルールが決めるのでもなく、内側の(神様のいない人生)ことなのです。神様を離れた人生、神様を拒んだ人生こそ罪なのです。神様の関係を壊れた人生こそ、罪なのです。
そこでの、神様の願いは「イエスの言われることを悟り、知るようになる」ことなのです。神様の心を行う人、神様の例えの奥義、神様の国の奥義を悟ることを願われるのです。それは、どういうことでしょうか?私の心の汚れをきよめるのはイエスの血潮のみです。イエスは律法で汚れたものを聖いとされました。イエスのみが言えることです。私ははたして「自分の罪を日ごとに認めているのでしょうか」クリスチャンになればなるほど、自分が聖く、既に罪の悔い改めは終わっている、世の人と違うと思って、だんだんパリサイ人の人生を歩んでいないでしょうか。 私の適用は、こうです。日ごとにチェックするべきリストを作ろう、ということです。多くの素晴らしい振興の働き人が最後に難しさを覚えることがたくさんあり、見てきました。ひごとに罪びととしてきよめを経験していきます。