坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

水曜日, 1月 28, 2009

イエスと関係が無くては、いかに素晴らしい働きしても神が分からない

マルコの福音書6:45-55
それから, 群衆に 別れ, 祈るために, そこを 去って 山のほうに 向かわれた. 夕方になったころ,舟は湖の眞中に出ており, イエス だけが陸地におられた.
イエス は, 弟子たちが, 向かい 風のために 漕ぎあぐねているのをご 覽になり,夜中の 三時ごろ, 湖の 上を 步いて, 彼らに 近づいて行かれたが, そのままそばを 通り 過ぎようとのおつもりであった. しかし,弟子たちは, イエス が 湖の 上を 步いておられるのを 見て,幽
だと思い,叫び聲をあげた.
というのは, みな イエス を 見ておびえてしまったからである. しかし, イエス はすぐに 彼らに 話しかけ, 「しっかりしなさい. わたしだ. 恐れることはない. 」と 言われた.
そして舟に乘り¿まれると, 風がやんだ.彼らの心中の驚きは 非常なものであった.
というのは,彼らはまだパンのことから悟るところがなく,その心は堅く閉じていたからである. 彼らは 湖を 渡って, ゲネサレ の 地に 着き, 舟をつないだ.
そして, 彼らが 舟から 上がると, 人¿はすぐにイエス だと氣がついて, そのあたりをくまなく 走り 回り, イエス がおられると 聞いた 場所へ,
人を床に載せて運んで來た.
イエス・キリストは忙しい中であっても、すぐに必要が迫っていても必ず神様の関係を1対1でもたれていました。何故でしょうか?神様の子だからです。父なる神と子なるキリストが会話を持つのが当然なのです。これは当たり前ですが、私たちクリスチャンも神の子であるのです。そうするならば、私も忙しくても、するべき当座のことがあっても、主なる神との1対1の時間を持つのが、祈りの時間を持つのが当たり前でないでしょうか。群集たちも、弟子たちも主イエスが誰なのか、分かっていたのか?それともわかっていても、自分たちの必要を満たす方としていたのでしょうか。彼らの心は硬く閉ざされていたとあります。それは、主イエスが神の子であると、救い主であると分からないと全てのことがとかれないからです。そうでないと、単に願い事、祈りをするだけの関係になります、と言うよりは、関係を持たないことになります。私たちは、主なる神との関係はどうでしょうか?お願い事の一方的な関係に終わっていないでしょうか。関係があるなら、その人と話すことが休みにもなります。
主イエスのとの祈りの関係を持っていきます。