坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

土曜日, 1月 31, 2009

しょっぱく生きるとは和合して生きること

マルコの福音書9:38-50
ヨハネ が イエス に 言った. 「先生先生の 名を 唱えて 惡を 追い 出している 者を 見ましたが, 私たちの 仲間ではないので, やめさせました. 」
しかし, イエス は 言われた. 「やめさせることはありません. わたしの 名を 唱えて, 力あるわざを 行ないながら, すぐあとで, わたしを 惡く 言える 者はないのです.
わたしたちに 反對しない 者は, わたしたちの 味方です.
あなたがたがキリストの弟子だからというので, あなたがたに 水一杯でも飮ませてくれる人は,決して報いを失うことはありません. これは 確かなことです.
また, わたしを 信じるこの 小さい 者たちのひとりにでもつまずきを 與えるような 者は, むしろ 大きい
臼を 首にゆわえつけられて, 海に 投げ ¿まれたほうがましです.
もし, あなたの 手があなたのつまずきとなるなら, それを 切り 捨てなさい. 不具の 身でいのちにはいるほうが, 兩手そろっていて ゲヘナ の 消えぬ 火の 中に 落ち ¿むよりは, あなたにとってよいことです. もし, あなたの 足があなたのつまずきとなるなら, それを 切り 捨てなさい. 片足でいのちにはいるほうが, 兩足そろっていて ゲヘナ に 投げ 入れられるよりは, あなたにとってよいことです. もし, あなたの 目があなたのつまずきを 引き 起こすのなら, それをえぐり 出しなさい. 片目で 神の 國にはいるほうが, 兩目そろっていて ゲヘナ に 投げ 入れられるよりは, あなたにとってよいことです.
そこでは, 彼らを 食ううじは, 盡きることがなく, 火は 消えることがありません.
すべては, 火によって, 鹽けをつけられるのです.
鹽は, ききめのあるものです. しかし, もし 鹽に 鹽けがなくなったら, 何によって 鹽けを 取り 戾せましょう. あなたがたは, 自分自身のうちに 鹽けを 保ちなさい. そして, 互いに 和合して 暮らしなさい. 」
キリストの弟子として生きることは、塩気を保つことです。それは、聖さ保ちながらも、高く聖い生活をしていますよ、という態度でもありません。清い排他主義でもなく、また人を躓かせる生き方でもありません。聖書は、躓くことについて主張していますが、躓かせることに厳しく話しています。手を切れ、とも言います。また、両手両足が残るよりも、無くてもゲヘナに入らないことを強く主張します。そして、小さい弟子に「水いっぱいであげるなら報いにもれることは無い」と言います。逆に、この小さいものに躓かせるなら、海のそこに投げ込まれよ、と言います。中東地域において「水は貴重なものです」また、別の聖書箇所には、「水について」「ICEDED WATER」と言っています。大変素晴らしいものをささげるわけです。キリストの弟子としての生き方は、福音と信仰は一人でするものでなく

共にするものです。それは、躓かせずに、氷の冷たい水を小さい者にささげることです。私たちは見返りを求めずに、そうしているのでしょうか。塩気のある生き方とはそういうものです。
私の生き方とは逆です。しかし、キリストの弟子として目指していきます。