坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

木曜日, 1月 08, 2009

私は理屈を言って神様の偉大なみわざを損ねないか?

マルコの福音書2;1-12
そのとき, ひとりの 中風の 人が 四人の 人にかつがれて, みもとに 連れて 來られた.
群衆のために イエス に 近づくことができなかったので, その 人¿は イエス のおられるあたりの 屋根をはがし, 穴をあけて, 中風の 人を 寢かせたままその 床をつり 降ろした.
イエス は 彼らの
信仰見て,中風の人に,「子よ.あなたの罪は赦されました. 」と言われた. ところが, その場に律法學者が 數人すわっていて, 心の中で理屈を言った.
「この人は,なぜ, あんなことを 言うのか. 神をけがしているのだ. 神おひとりのほか, だれが 罪を 赦すことができよう.」 彼らが心の中でこのように 理屈を 言っているのを, イエス はすぐにご 自分の
で 見拔いて,こう言われた. 「なぜ, あなたがたは 心の 中でそんな 理屈を 言っているのか. 中風の人に,『あなたの罪は赦された. 』と 言うのと, 『起きて, 寢床をたたんで 步け. 』と言うのと,どちらがやさしいか. 人の子が 地上で 罪を 赦す 權威を 持っていることを, あなたがたに知らせるために. 」こう言ってから,
私たちの知恵は、時に神様の素晴らしいみわざを、神様が人間には創造できないみわざをされるのを止めることがあります。また、神様のみ技をみながらも何にも祝福を受けない可能性を持ちます。
目の前で、中風の人を担いでつれてきた4人の友人は周りの状況を知りながらも、イエス様の前に何としても、連れて行って癒されたいという信仰と行動がありました。
以前に、聖書研究をしていたときに覚えている恵みがあります。
それは「このような私を主イエスの前に連れて行く友人関係を持っているのか」もしくは「主イエスの前に連れて行く信仰を持っているのか」という話でした。とても印象深い話でありました。
今日のQTで思ったことは、私には意地を張って神様の恵みを止めていることが無いのか?ということでした。また、そのような知識や理屈を言っている人への「霊で見抜いて対応しているのか」ということでした。私にとって、どっちにしても「神様の恵み」を受けている霊的な力があるのか?と思わされました。それは、人を縛る理屈でなく、人のために何か自分が犠牲する気持ちもありません。それは、中風の人が癒されることを願うありもありません。
主イエスは、「罪を赦す権威」をもつ唯一の方でした。それは、聖く罪の無い完全な人であり、完全な神様であり、その人の罪の身代わりとなる十字架にかかったのでした。理屈を言う人に霊的な力はありません。また、愛もありません。相手への犠牲もありません。自分も相手も回りも不自由にします。神様のダイナミックな御業を起こすこともありません。人々を自由にしません。また、何よりも主イエスの心動かす信仰がありません。今朝、私の理屈をこだわりを捨てていきます。