坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

金曜日, 9月 17, 2010

苦しみを知らないとホンモノでない!

コロサイ2;1-7
神様の奥義であるイエス・キリストを人格的に、まことに知るためには、ただ単に祝福や、あいをうけるだけでなくて、平安の中だけでなくて、神様の苦難もとにしないとわかることが出来ません。何故なら、苦しいときや痛みをともにした人との絆、友人の絆は、家族の絆は他に変えられないものであるからです。また、本当に親しい、信じれる関係でないと苦しみとはともにしません。また、愛し合う関係でないと苦しみをともにせずに、捨てたり、去っていきます。そこには、十字架でわたしのために理由も無く、ただ愛するために死んでくださった主イエスの愛があります。今日主イエスの苦難をもともにする本物を目指していきます。

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木曜日, 9月 16, 2010

神様の奥義をつかむと尽きない情熱が溢れる

コロサイ1;21-29
キリストは、私たちに与えられた新約聖書からの奥義です。神様の秘密兵器です。最終の切り札です。旧約聖書の聖徒たちが知りたい、みたい、そして不思議に思っていた神様の救いの計画が、地球救出作戦がなされたのです。罪から、汚れから救い出してくださり、きよく、傷のない、非難のされるところのない、私にしてくださり、教会のメンバー体の肢体としてくださったのです。それは、教会のかけたところさえも、問題のある部分さえも、ともにキリストの残された苦しみを喜んで満たそうとしている姿でした。それは、人間の力でなくて、私のうちに力強く、躍動的に、働くキリストの力によってでした。今朝、私の心に痛みや人から受けた傷がありました。怒りがありました。しかし、キリストの奥義、キリストが私のうちに住まわれる力によって、躍動的に働く力によって、もっと私がすべきことは力強くキリストの愛に生きることでした。

今日も、そのためにじかん、今日をいきます。

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水曜日, 9月 15, 2010

従う人は強い人である

コロサイ1;9-20
私たちの人生は、罪に、この世の暗闇の圧制に、それはサタンに、従うのか?それとも、神様に従うのかどちらかですか?それは、偽の自由にだまされて罪に縛られるのか?圧制に押し込められるのか?愛するイエス様の関係に行くのかどちらかです。それは、従うことを意味します。しかし、私たちの持っている従う意味について、サタンは私たちに悪い誤解やまちがったイメージを与えています。しかし、前なる神様に、そして愛の神様に進んで、自らの意志で、愛の関係の中で従うのでしょうか?それとも、偽の見せ掛けの自由に、実は罪に縛られることを生きるのでしょうか?私たちをつくられた創造の神様は、私たちを神様の御子である主イエスを礼拝するために作られました。そこに、私たちの本当に生きる目的がありました。しかし、罪の支配の中にいた私を回復するために、地上に来られて、十字架にかかり死なれて、罪から購いだしてくださいました。それは、福音です。本当に私にとって良い知らせ、勝利のニュースです。其れを受けた人は、他にもその愛を伝えて、福音を知らせて、とりなしの祈りをしていきます。今日、神様の福音を受けて、とりなしの祈りをしていきます。

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火曜日, 9月 14, 2010

実を結ぶために必要なもの

コロサイ1;1-8
クリスチャンの成長にとって必要なことは、能力や才能でもなくて、忠実さです。コロサイの教会は回りに鳴り響くくらいの大きな福音の力を体験しました。それは、イエス・キリストの十字架の愛によって自分が愛されて、福音の力を体験して、全ての人々を愛する力を得るようになりました。信仰が成長することは、神様の愛を体験し、隣人を愛することです。いくら信仰がすごくても、聖書を読んでいても、学んでいても、隣人を批判したり、では福音の力を体験し切れていません。また、学んでも奉仕をしない、では福音の現場に行って歩んでいるのが難しいことです。また、キリストの愛を本当に理解するのは、自分にとって忠実さが要求されても、同時に聖霊様の力が無くても、何も成長することがありません。今日、神様の前に祈り、聖書を読む時間を持ちます。また、人を見た目によってでなくて、自分の目でなくて、御霊によって自分の限界で愛せない人を愛していきます。アーメン、主よ助けてください。

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月曜日, 9月 13, 2010

諸国の希望イエス

エレミヤ52:24-34
エレミャ書の最後は、ユダの王であったェホヤキンが衆人の服を脱がされて、バビロンの王からなさけをかけてもらい、最後の生活がすることができた、ということで終わります。
①繰り返し語られた神様の預言のメッセージで聞かなかったイスラエルの民に回復で終わるのでなくて、諸国の民からのあわれみで終ります。神様の心はいかばかりでしょうか?
②神様にしか希望が無いことを教えられます。最後に、希望は来られる主イエスにのみあります。
③当時の権威者からのあわれみを受けたイスラエルの王、民への対応を見て神様の愛を覚えます。わたしは、憐れみを持って人に接しているでしょうか?けんいしゃが誤った権威を振るうのでなくて、神様の権威を持って、人々を幸福にしているのでしょうか?
④希望は、主イエスにだけあることを伝えているのでしょうか?
⑤神様の民として生きるべき姿勢、アイデンティを失うときに、その場所を動かされます。主イエスの愛されている民としてのアイデンティを伝え、生きていきます。

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日曜日, 9月 12, 2010

量ることのできない栄光を失っていないか?

エレミヤ52;12-23
イスラエルの民が、偶像礼拝をして神様に反逆したときに「主の宮」の全ての器具が焼き払われて、失われました。そして、イスラエルの国が滅ぼされることになりました。しかし、その中で主の礼拝する場所が、焼く払われることで苦しかったのは、神様ご自身でなかったでしょうか?まことの神様の礼拝の場所が焼かれて、そのみなが栄光が汚されても、人間よりも、イスラエルの民よりも、クリスチャンよりも、そのまことの神様、真実で変わらない神様の栄光が汚される方が難しくなかったでしょうか?どれほど苦しい損失でしょうか?しかし、神様の前に罪を犯した人間のために、イスラエル、クリスチャンのために多くの損失を受けられたのです。わたしたちの人生にとって、神様の臨在の無い人生は、まさに大きな量ることのできない量の栄光の損失です。神様への祈りの生活、QT生活、霊的な生活のスケジュールづくりを再形成します

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土曜日, 9月 11, 2010

リーダーが悪影響を持つと

エレミヤ52:1-11
南ユダ王国のゼデキヤ王の人生と、そのリーダーとしての影響力がかかれています。それは、主の前に悪を行ったことと、その結果が主なる神様から下ったことが書かれています。
①主のみ前から投げ捨てられた(関係が壊され、礼拝できる関係でないのです)しかし、これを壊したのは人間の方からです。神様は愛で呼ばれているのです。こらしめをもって呼ばれているのです。
②バビロンに反逆します。世の中の勢力にも間違った対応や、反応をしてしまいます。攻められて、滅ぼされます。
③飢饉に出会います。食べることにも困ります。しかし、主の裁きは神様の愛による叫びなのです。④戦士たちはみな逃げてとあります。人々の心や求心力がなくなります。
あく影響力をもたらすリーダーの最後は惨めな目をつぶされて、酋長を虐殺されることで終わります。今日、神様の前に礼拝する謙遜な人生を持って、人々にきよい影響力をもたらすことを祈ります。

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金曜日, 9月 10, 2010

人生のゴールを見て今を生きる

エレミヤ51;54-64
バビロンの滅亡と裁きの予言がエレミヤに下されたのは、バビロンの滅亡の近い時代ではありません。まさにいまから、捕囚に向かうイスラエルの民に、語られたのです。それは、リアルのある実感が会ったのでしょうか?それとも、信じにくい状況であったのでないでしょうか?ただ、神様の言葉であることを除いてです。イスラエルの民にこれから向かうバビロンの価値観、社会、そして世の勢力であるバビロンが自分たちを支配する中で、自分たちを治める神様を覚えさせます。また、この世の価値観でなくて、未来のゴールを向かって、今の現状がそう思えなくて、正しく歩むことが出来るように導かれます。はたして、わたしはそのような未来への目標を持って、しかも神様が教えてくださったクリスチャンのみが知る特別な関係から、人生を生きているのでしょうか?未来から今の価値観、人生をきずいていきます。

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木曜日, 9月 09, 2010

礼拝が崩れると人生が崩れる


エレミヤ51;41-53
バビロンを罰せられる神様の理由は、①高慢への裁き(神様なしに生きていける)②礼拝する場所を汚した、神様の民を、礼拝する民をくずした。彼らをいじめ、苦しめ、彼らの国を滅ぼした。この預言のメッセージをどのような思いで捕囚でいたイスラエルの民は聞いたでしょうか?かみさまにしたがわなかったために、国が滅ぼされて、捕囚になったことを悔い改めのでしょうか?わかりません。しかし、わたしたちは聖書から神様のメッセージを聞く時に「神様の民であるアイデンティ」を失わないように、神様を主人として礼拝する人生を歩まないといけないことを覚えます。礼拝に成功するときに
神様の祝福の人生が来ます。神様の礼拝のために、仕え、人々を尊敬し、教会の働き人を愛していきます。

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水曜日, 9月 08, 2010

この世の攻撃には、主に訴えよ!

エレミヤ51;33-40
この世は、神様の民に対して好意的ではないことがほとんでです。何故なら、真理に逆らう人は、真理に向かう人を嫌います。逆恨みをします。何故なら、その人が輝くことをねたみます。真理に属していない人はそのために自分が、自分の間違った姿勢や、罪が明るみにでるからです。そこで、クリスチャンを攻撃したり、真理に向かう人を攻めてきます。濡れ衣を着せたりもします。そのようなときにクリスチャンはどうすべきでしょうか?直接に対決すべきでしょうか?それは、主イエスにあって神様に訴えるべきです。直接に対決するときは、愛で、福音的に対決しないといけません。復讐でなくて、キリストの福音、ゆるしと和解で対決しないいけません。今日も、繰り返させるメッセージを覚えてキリストに訴えながら、キリストの福音で和解していきます。主よ、助けてください。

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神様のコーナーストーンになれ!

エレミヤ51;25-32
この世が捨てた石を神様は用いる方です。バビロン帝国が栄えていた時期に、バビロンに捕囚にされていた民、イスラエルの預言者、しかも正しいことを言い続けたのに誰も聞いてくれなかった預言者エレミヤに神様はバビロンの滅亡について語られます。まさに、この世の逆転劇です。それは、この世の捨てた石を神様が立てるときに、一番大事な石になるからです。それは、まさに主イエス・キリストの十字架によって救われて神様の道具となったものだけが、神様のものとなった役に立つものだけが出来る技です。神様を賛美します。この世の権勢が強い中で、神様によってこの世の弱いものを用いてくださり、この世に必要なメッセンジャーとしてくださる主イエスを褒め称えます。

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神様の分け前に預かるには?

エレミヤ51;11-24
神様は人間に向かって、ヤコブに向かって「分け前を与える」と言われます。はたして、人間にむかって「分け前」を与えるといわれる神様がいるでしょうか?いたでしょうか?わたしたち人間は「自分の所有、財産、お金、人生の設計」に非常に執心になります。それは生きるために仕方の無いことでしょう。しかし、クリスチャンが最も価値のある永遠の財産、神様の分け前に預かることに価値観が無いのなら難しいことです。それならば、生き方に目標が違ってきます。自分の最終ゴールが違ってくると、自分の今の生き方が変わってきます。それは、キリストに似せられた人生を生きてこそ、神様と親しい関係を持つことを通して、正しい歩みを持つ人に向かってこそ、神様の遺産は来ます。未来に向かって、神様のと親しい関係を持っていきます。神様の清い人生を主の力によってのみあずかって生きます。

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神様の正義を語れる人生を生きているか?

エレミヤ51;1-10
わたしは、バビロンへの裁きの時に、神様の裁きを語れる人生を生きているのでしょうか?罪への裁きがなされるときに、神様の前に悪への誘惑へ、妥協への誘惑に負けること無くて、神様の正義を語れる、伝える人生を生きているのでしょうか?間違ったバビロンへのとりなしや、泣き喚くまでのとりなしをしているのでしょうか?自分の敵のために、神様に祈る、とりなしをする姿勢がなければ、神様の正義を、神様の裁きがなされた日に伝えれる資格はありません。それは、預言者としての行き方であり、万人祭司としての生きかたなのです。それこそが、この罪の中に生きていても、バビロンに捕囚として生きていても、失わなかった神様の民としてのアイデンティなのです。主イエスの祭司としてとてもじゃないけど、そのような生き方を出来ているとはいえませんが、神様の力によって、聖霊により、神様の命令を持って、自分らしく生きれる神様の民として生きていきます。

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イスラエルを購う方は躍動的だ!

エレミヤ50;33-46
イスラエルを、クリスチャンを救われる方、神様の強さは、じっとしている強さでなくて。躍動的な強さです。万軍の主なる神様は、わたしたちの訴えを、祈りを支持される方です。また、神様の敵を震え上がらせる方なのです。わたしたちは神様を遠くに感じたり、神様が遠く助けてくれない方のように、現実的に難しい方のように思えるかもしれません。しかし、神様はすぐに来てくださる方です。
逆に、そこで目に見える偶像礼拝をするものは、その人生が狂っていくことを知らないといけません。ソドムとゴモラの人々は、余る人や残される人が無く滅ぼされました。圧倒的に戦い、躍動的に働いてくださる神様か、目に見える偶像をつくるのか?今日、目に見えない中でも既に躍動的に動かれる神様を信じます。

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大目に見てくれ、と思っていないか?

エレミヤ50:21ー32神様は侮られる方ではありません。どのような悪も、罪も受け入れることができない方です。しかし、わたしたちは小さいことや、大きなことでないときに、一時的なことに、妥協したり、します。しかし、神様はバビロンへの裁きを下されたのです。わたしにとって、神様に私の生きる領域を限定したことを言っていないでしょうか?お渡しできないことを言っていないでしょうか?また、礼拝を壊したバビロンへの裁き神様は徹底的に下されました。わたしの礼拝への態度はどうでしょうか?聖絶すべき自分の領域は何処でしょうか?礼拝への真実な態度をもって仕え、ささげているのでしょうか?神様の道具として用いられたバビロンは神様に高慢になったときに裁かれました。神様の前に自分の聖絶すべき部分を告白していきます。人々を愛し、裁かずに、父なる神様の愛を持って生きていきます。

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神様の祝福を受けるためには

エレミヤ50;11-20神様の相続地を、遺産を、祝福を受けるために条件は何でしょうか?それは、成功や仕事のできるできないの良し悪しでなくて、神様との関係です。北韓国の金正日総書記が自分の後継者に大きな資産を受け継ぐ話をしました。それは、北韓国の人々が200万人も飢え死にしようとしているときに考えられない額でした。また、彼のノートブックが損失するかしないか、そのような時にスペアを準備していく話を聞きました。人格のできるできない関係なしに、大きな遺産を受け取ろうとしています。しかし、神様の与える遺産や祝福は、私の人格や受けるべき姿勢ができているときに、神様の関係ができているときに与えられるものです。神様のくださった祝福を間違って使ったり、高慢に陥るときに、神様の裁きはきます。きょう、神様のくださる祝福であり、遺産である神様の愛と真理を謙遜に受け取り、伝えていきます。神様の前に、謙遜に仕え、栄光を返していきます。

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火曜日, 9月 07, 2010

自分が作る偶像は、神様に破壊される

エレミヤ50;1-10神様の裁きは徹底的です。それは、バビロンという神様の裁きの道具に用いられた国が、自分が神様より上だ!自分でできる、という高ぶりに陥った国へ、人への裁きは他の国々にも知らせることでした。それは、神様の裁きと義を全世界に知らせることでした。自分の頼る偶像は何でしょうか?それは、神様によってはっきりと破壊されたでしょうか?自分が神様よりできる、という神様になしにできる、という高慢を崩されたでしょうか?

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水曜日, 9月 01, 2010

神様との平和に安心がある

エレミヤ49;28-39
神様との平和があるときに、安心があります。神様の愛があるときに、喜びがあります。そこに他人への喜びや憐れみが起こります。私たちの人生には、限界のある愛しかありません。人を愛する心や哀れみには限界があります。本当に毎日毎日、主イエスの哀れみに脱帽するばかりか、自分の愛のなさに痛みと絶望を感じます。エラムへの繁栄を元通りにする神様の愛、そして他民族、キリストを知らない人への愛ととりなし、はキリストなしにすることができません。神様の愛なしに歩む人には、恐れが伴います。主イエスの前に悔い改めます。

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自分自身を欺くと自尊心を失う

エレミヤ49;14-27エドムの人々は、自分のとりで、自分を守る強固な町が、城が、自分を守っている、そして誰も自分をたおすことはできないと高ぶり、そして何よりも自分自身をあざむきました。その本心は恐れがあり、確固たる安全がないから、高慢を人にはいい、その内面には恐れがあったのです。神様を恐れる人には人間的な恐れがありません。人としての安心があります。神様の喜ぶ都、中心になりたいのでしょうか?それとも、神様の裁きにあいたいのでしょうか?その身分を失っていないでしょうか?今朝、素直に歩んでいく態度をもって生きていきます。

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受けるべき杯を飲まれた主イエス

エレミヤ49;1-13イエスは、私が受けるべき杯を飲んで下さった方です。それは、永遠の裁きでした。罪による裁きはまねがれることのない永遠の滅びでした。回復のないはずだったのです。今日の聖書箇所から、アモン人への裁きを言われた主イエスは、それでも回復を宣言されます。しかし、エドム人には最終的な裁きだけを宣言されます。神様の裁きを、義を決して侮ってはいけません。逆に、神様への恐れを持つ人にはまことの回復と自由があります。エドムは神様への恐れを持たず、兄弟を親族を苦しめました。私の家族や親族へ主イエスの愛を持って悔い改め、ゆるし、愛していきます。

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主への高慢は民としての自尊心を失う

エレミヤ48;36-47
モアブを裁かれる神様は言われます。主への高ぶり「自分でできる」という思いは、誰にも喜ばれない器をくだく、そのくだかれることを誰も気にしない、という宣言をされます。なんと言う宣言でしょうか?「誰にも喜ばれない存在である」とは、価値のない存在であることを言います。それは、神様を認めない人生がまさにそうであることを示しているのです。刑罰の日には、周りの物笑いと、主への恐れとなるのです。しかし、終わりの日に神様の回復が来ます。今朝、主イエスにあるつみある存在が、神様を認めない人生が、価値のない、価値を捨てた人生であることを、覚えます、主からの警告と主からの回復の愛の前に悔い改めていきます。

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