坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

水曜日, 9月 01, 2010

主への高慢は民としての自尊心を失う

エレミヤ48;36-47
モアブを裁かれる神様は言われます。主への高ぶり「自分でできる」という思いは、誰にも喜ばれない器をくだく、そのくだかれることを誰も気にしない、という宣言をされます。なんと言う宣言でしょうか?「誰にも喜ばれない存在である」とは、価値のない存在であることを言います。それは、神様を認めない人生がまさにそうであることを示しているのです。刑罰の日には、周りの物笑いと、主への恐れとなるのです。しかし、終わりの日に神様の回復が来ます。今朝、主イエスにあるつみある存在が、神様を認めない人生が、価値のない、価値を捨てた人生であることを、覚えます、主からの警告と主からの回復の愛の前に悔い改めていきます。

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