坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

火曜日, 7月 30, 2013

夜明けまで御言葉を語るか?!

徒行伝20章7節「週の初めの日に,私たちはパンを裂くために 集まった. そのとき パウロ は, 翌日出發することにしていたので,人々と語り合い,夜中まで語り続けた」11節「そして, また上がって行き,パンを裂いて食べてから,明け方まで長く話し合って,それから出發した. 」今朝のQT箇所は、トロアス(現在のトルコ)での交わりです。そこで、明日の出発のために「長く話し合い、そのために青年が落ちてしまった、そこでパウロが癒しをした」という箇所です。普通はそこに目が行きますが、おもったよりはるかに簡単に癒しの部分を書いています。今日私が思った部分は、その癒しの跡に「さらに上っていって聖餐式をし、交わりをして、明け方近くまで話し合った」ということです。普通そういう事件があれば、中止とか、解散になってもおかしくないでしょう。しかし、彼らの聖餐式、礼拝、交わり、聖書のみ言葉の交わりははるかに大事であり、しっかりされた、ということです。そちらが本質であった、といことです。また、この学びの熱さにも注目しました。「夜中まで」学びをした後に、「明け方まで」話し合ったのです、こんな熱い交わり、学びをしてどれほどでしょうか?今朝私の適用は、熱いFELLOWSHIP、学び、奉仕を作っていこう問うことです。そこまで、熱く、みなが加わる学び、FELLOWSHIPもっているでしょうか?教会の中で作っていこうと思います。主の臨在の中でなされる、主の創造される学び、FELLOWSHIPもてるように祈ります。

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月曜日, 7月 22, 2013

創造主はチャンスを下さる

使徒行伝17章31節「なぜなら, 神は, お 立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため, 日を決めておられるからです. そして,その方を死者の中からよみがえらせることによって, このことの確證をすべての人にお与になったのです. 」
神様は創造主です、人の作られた偶像や人に支配されたり、侮られる方でありません。その方は、私たちに、住み時代、場所、人生を与え、決め、命、息、万物を与えられました。それは、求めれば神様を見出せる二様にチャンスを下さったのです(一般啓示)。感謝なことでないでしょうか?そして、それで終わることなくイエス・キリストを送ってください、十字架にかけて、そして3日目に復活されるようにされました(特別啓示)何と素晴らしいことないでしょうか!神様は私たちに、素晴らしいチャンスと愛のメッセージを下さっています。悔い改めのチャンスを下さっているのです。しかし、福音の反応は2つありました。①「またいつか聞くことに」②「付き従い、信仰に入ったもののいた」です。神様の下さるチャンスは愛です、人格的なものです。しかし、それはいつまでも無期限のものでありません、イエスを信じる時はいつでしょう?それは今です。主イエス・キリストが与えられたことを伝える日をいきます。

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毎日燃える人と暇な人

使徒行伝17章17、2117節「そこでパウロは,会堂ではユダヤ人や神を敬う人たちと論じ広場では每日そこに居合わせた人たちと論じた.」21節「アテネ人も,そこに住む外國人もみな,アテネ 人も, そこに 住む 外國人もみな, 何か 耳新しいことを 話したり, 聞いたりすることだけで, 日を 過ごしていた. パウロはとうとうギリシャのアテネに到着しました。そこの人たちは「 何か耳新しいことを話したり,聞いたりすることだけで,日を過ごしていた 」とあります、良い生活ですね、と一瞬思います。でも、パウロの生活はどうだったでしょうか?「会堂ではユダヤ人や神を敬う人たちと論じ広場では每日そこに居合わせた人たちと論じた.」とあります、対照的な毎日の過ごし方です、イエス・キリストの福音に出会った人は「毎日」することがあります、忙しすぎます、燃えます。でも、福音に出会わない人生、真理に出会わない人生は、することがありません、それは人生をいきているといえません。私は「毎日」福音を伝えているでしょうか?私にとって「会堂」はどこでしょうか?「広場」はどこでしょうか?パウロは既に聖書を持っていたユダヤ人たちの会堂でイエスを伝えました。私も教会でイエスを伝えます。「広場」は聖書のBACK GROUNDあるかないか分からない場所です。出て行ってイエスを伝えます、キャンパスで、マーケットで、友人と、ハングル教室の中で伝えていきます。

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日曜日, 7月 21, 2013

迫害されるほどイエスを伝えているか!?

使徒行伝17章2-3、11節「パウロ はいつもしているように,會堂にはいって 行って, 三つの 安息日にわたり, 聖書に基づいて彼らと論じた」 3節「そして, キリスト は 苦しみを受け, 死者の中からよみがえらなければならないことを說明し, また議論して,「私があなたがたに傳えているこのイエスこそ,キリスト なのです.」と言った.11節「ここの ユダヤ 人は, テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで, 非常に熱心にみことばを 聞き, はたしてそのとおりかどうかと每日聖書を 調べた.」
パウロは聖書に基づいてイエスの福音を伝えました。そこには救われる人もいました。 テサロニケでは、幾人かが分かって救われた、とあります。しかし、その中で迫害も起こり、避難することになります。そこで行ったペレやでも、聖書から教え、十字架にかかり復活されたのがイエスだと伝えます。ここでは、人々は非常に熱心に聴き、みずから毎日聖書を調べて救われた、とあります。しかし、ここでも迫害は妬みから起こります。今日心に留まったことは「聖書から教える」ことと「迫害が必ず起こる」ことです。それは福音を伝える時に必ず迫害もあり、「聖書からイエスを教える」時に、内部、同じ国民のユダヤ人から「いわれのない理由と拒否」からも迫害されることです。私は果たして迫害されるほどに、福音を伝えているでしょうか。また「聖書からイエスを伝えて」いるでしょうか。そのために拒否間のために、いわれのない迫害を受けるほど福音を伝えているでしょうか(迫害を受けたいではないですが)。北米でストレートな迫害は無いかもしれませんが、聖書からイエスを伝える時攻撃はあると思います。今日、イエスの事を聖書から伝えて生きます

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金曜日, 7月 19, 2013

今日と言う日の恵みを逃すな!

使徒行伝16章33節「看守は,その夜,時を移さず,ふたりを引き 取り, その打ち傷を洗った.そして,そのあとですぐ,彼とその家の者全部がバプテスマを受けた.」パウロが福音を語った後で、看守と家族たちは「時を移さず」バプテスマを受けたとあります。普通考えれば、夜だから、とか牢獄だから、彼の立場は囚人だから、私は看守だから、とか職業的な、社会的な、人間的な立場を考えることがあります、しかし、彼らはそこに頼ったり、判断基準にすることがしませんでした。今朝の恵みは、タイミングを逃すな!です。今風に言えば、イエスを信じたけど、バプテスマ(洗礼)まで時間を置いてとか、役員の許可を得てとか(微妙?)聖書研究をしてからとか~と考えるかもしれません。でも、神様の下さる今日の恵みに、反応しないといけません。それは、今日と言う日は、2013年の7月何日は二度と来ないからです。2013年何月何日の礼拝を同じ気持ちで、同じ状態で受けれることは二度とありません。今、神様に与えられている恵みに、反応することは本当に大事だと思いました!31節「ふたりは,「主イエスを信じなさい.そうすれば,あなたもあなたの家族も救われます. 」と 言った.とあるように、神様に呼ばれたら、すぐに応答することが大事です。主イエスを信じなさい、と呼ばれたときに、「時を移さず」信じ、バプテスマを受けること大事です。主の恵みの声を聞いたら、今日、聖書の学びがあるよ、という時に、神様の恵みが注がれているのを感じたら、反応しないとすごく後に来るのか?もしかしたら、二度と来ないのです。今日の奉仕の中で、出会いの中で、主イエスの下さった恵みのチャンスに、勇気を持って、決断し、進んでいきます。主イエスの声に敏感でいさせてください。主だけに仕えれるように。他の何にも仕えないように祈ります。

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木曜日, 7月 18, 2013

祈る人に、賛美する人に神様の事件が起こる

使徒行伝16章16節「私たちが祈り場に行く途中,占いの霊につかれた若い女奴隷に出会った. 」24節「この命令を受けた看守は,ふたりを奧の牢に入れ,足に足かせを掛けた.」25節「眞夜中ごろ,パウロとシラスが神に祈りつつ贊美のっていると,ほかの囚人たちも聞き入っていた.」
今朝、QTをした時に「祈り場に~」というところが心に留まりました。パウロたちは日常的に祈っていたんだな、と思わされました。日常的に神様と会話したんだな、と思いました。そういえば、最初のピリピでの伝道もテアテラ市の紫布商人ルデヤに出会って最初のピリピ伝道、教会のメンバーに合いました。祈る人に神様の事件が、出会いが、奇跡が起こるんだなと思いました。今日の聖書箇所は、祈り場に行くパウロに悪霊につかれた女がついてきて、悪霊を追い出し、癒します。ところが、そのために逆恨みした主人のために鞭打たれ、牢獄に入れられます。そこで、パウロとシラスは賛美をしました。日常でない賛美です。苦痛、侮蔑、いわれのない苦難、怒ってもおかしくない時に賛美しました。それは周りの囚人に影響を与えました。そこで地震が起こり逃げ出しても当たり前の状況で、逃げ出さなかったのです。それは、看守に感動を与えました、この世の中でない、常識はずれの人生に震えを感じるほど、そして「自分から救いを求める」ほど、影響を与えました。福音を伝えるところにサタンの攻撃もあります。しかし、祈る人に、’賛美する人に奇跡が起こること、神様の事件が起こることを期待し、信じ今日一日をいきます。

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火曜日, 7月 16, 2013

問題に福音を持って立ち向かえ!

使徒行伝15章22節「そこで 使徒たちと 長老たち,また,全教会もともに,彼らの中から人を選んで,パウロやバルナバ といっしょに アンテオケへ送ることを決議した.選ばれたのは兄弟たちの中の指導者たちで,バルサバと呼ばれるユダおよびシラスであった.」
異邦人たちが救われたことをペテロが証しした後で、エルサレム教会のリーダー格であるヤコブが①ペテロを通しての異邦人たちの救い、②OT、預言者たちを通して異邦人の救いが神様の御心であること、③シンプルに(人道的なことですよね)異邦人たちが守るべき4つのルールを伝えることにしました。そして、ユダとシラスをバルナバとパウロにつけて⑤全教会の決議として伝えさせます。今朝、私の恵みは初代教会が正しく問題を扱い、個人的なことや、部分的なこと、地域的なことの扱いでなくて、全教会の決議として問題に正々堂々と立ち向かったことです。いうなれば、牧師先生だけが問題に立ち向かったのでなくて、熱心な人だけが立ち向かったのでなくて、全教会が問題に討議し、検討し、決議をしたのです。その結果、異邦人伝道、牧会のモデルとしてシリアのアンテオケ教会が建っていき、後にシラスたちも宣教に関わっていく伝道のパートーナーになったのです。主にある教会の決議は、組織的な関係に終わるのでなくて、後に、伝道、宣教に関わる関係になりました。今日、これから問題に立ち向かい、宣教していく教会を目指し、たてあげていきます。

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日曜日, 7月 14, 2013

神様の御心だけを話せ!

使徒行伝14章26節、「そこから船でアンテオケに帰った.そこは,彼らがいま成 遂げた働きのために,以前神の恵みにゆだねられて送り出された所であった.」27節「そこに 着くと, 教会の人々を集め,神が彼らとともにいて行なわれたすべてのことと, 異邦人に信仰の門を開いてくださったこととを報告した.」
パウロたち一行は、無事に第一次宣教旅行を終えてシリアのアンテオケに帰ってきます。そこは、彼らが宣教師として祈りと断食を持って送り出されたところでした。彼らはアンテオケの教会の人々に宣教報告をします。それは、すごくシンプルなものでした。神様が異邦人に信仰の門を開けた、ということだけでした。使徒行伝を呼んでいてすごくシンプルで、人間的な感情や苦労を書いていないことに気がつきます。迫害にあっても、そこでの不満や不平を言うこともなく、福音のために前進し続けます。自分の話や感情が先でありません。そこには、純粋に神様になされたことだけが書かれています。神様のみわざだけを報告しています。果たして、私ならどうでしょうか?自分のことを先に語ったり、苦労を話して、慰めを求めたり、しないでしょうか?それが悪いとは言いません。しかし、純粋に神様のみわざ、心だけを話す姿勢があるのでしょうか?そのほうが、祝福なのです、栄光をささげるほうが恵み、祝福が神様に、人々にあるだけでなくて、自分にも一番来ます。今日、主イエスのことだけを、神様の心だけを話します。

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金曜日, 7月 12, 2013

何のためにしているのか忘れるな!

使徒行伝14章15節「言った. 「皆さん. どうしてこんなことをするのですか. 私たちも 皆さんと 同じ 人間です. そして, あなたがたがこのようなむなしいことを 捨てて, 天と 地と 海とその 中にあるすべてのものをお 造りになった 生ける 神に 立ち 返るように, 福音を 宣べ 傳えている 者たちです. 」パウロたちがルステラで生まれつき足の不自由な人の足を癒した時に、彼らを偶像し、また英雄にしようとした時にパウロは宣言しました。私も人間です、と。そして、私は「虚しいことを捨てて、神に立ち返るように福音を伝えているものです」と。私たちは、福音を伝えつつも、自分が褒められること、評価されること、大きな誘惑があるのでないでしょうか?でも、それこそまさに自分が何のためにやっているのか?神様を伝え、主の栄光のために、自分は誰なのか?自分は福音を伝えるもの、それ以上もそれ以下もありません。果たして、私は何のためにしているのか分かっているでしょうか?自分は誰か分かっているのでしょうか?今日、主イエスの福音のために、栄光のために生きるものとして歩みます。アーメン、ハレルヤ!

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木曜日, 7月 11, 2013

それでも、聖霊と喜びに満ちる理由

使徒行伝13章;45節「しかし, この群衆を見たユダヤ人たちは,ねたみに燃え,パウロの話に反対して,口ぎたなくののしった.」46節「そこで パウロ と バルナバ は, はっきりとこう 宣言した.「神のことばは,まずあなたがたに 語られなければならなかったのです. しかし, あなたがたはそれを拒んで,自分自身を 永遠のいのちにふさわしくない 者と 決めたのです. 見なさい.私たちは, これからは 異邦人のほうへ 向かいます. 」51節「ふたりは, 彼らに對して足のちりを拂い落として,イコニオムへ行った」52節「弟子たちは 喜びと 聖に 滿たされていた」
使徒パウロたちの宣教は町中の人々にうわさになり、救われる人が起こされます。しかし、彼らは同胞のユダヤ人たちから迫害されます。これはイエスの時も同じでした。彼らの嫉妬と妬み、そして口汚くののしる、普通、現在の日本人、私たちクリスチャンがこんな待遇を受けたらどうでしょうか?きっと夜も眠れない、痛みや悩み、苦痛でないでしょうか。しかし、使徒パウロたちは違いました、ユダヤ人が永遠の命に相応しくない態度をとっていることを明らかにしながら、異邦人への福音伝道が進むことを喜びました、またそれが神様の計画であったことをはっきり宣言しました。私たちにとって迫害や攻撃、非難が大事な福音を伝えるのに、足かせになったり、倒れたりすることがないでしょうか。初代教会のクリスチャンよりはるかに弱い私たちです。何故、初代教会のクリスチャンはそれでも、「喜びと聖霊に満たされた」のでしょうか。それは、神様の御心に従うこと、何よりも福音を伝えることを一番の喜びとしたからです。非難されること、攻撃されることに時間をとられると、神経を持っていかれると、一番大事な福音を伝えることが難しくなります、その時間が取れれていきます、サタンも攻撃してきます、今日、福音を伝えることを自分の神経、考え、時間の優先にしていきます。本質にこだわる喜びを持ちます。非難、攻撃を沈めていきます。主よ助けてください

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火曜日, 7月 09, 2013

神様の救いの計画と涙!

使徒行伝13章15節「律法と預言者の朗読があって後,会堂の管理者たちが,彼らのところに 人をやってこう言わせた.「兄弟たち.あなたがたのうちどなたか, この 人たちのために奨励のことばがあったら,どうぞお 話しください」23節「神は,このダビデの子孫から,約束に 從って,イスラエルに救い主イエスをお送りになりました」
パウロたちは一行は、さらに宣教旅行を進めました。途中、同行者のメンバーが帰っていくこともありました。それでも、何事もないように簡単な報告で済ませて、さらに宣教旅行を続けます。そして、ピシデヤのアンテオケ(シリヤでないですよ!そこは彼らの派遣教会)で会堂でユダヤ人へ、改宗者たちの外国人たちへ旧約聖書の(律法と預言者)の朗読から、イエス・キリストを送られるまでの神様の救いの壮大な計画を語ります、解釈し、説明します(今日のQTはここまでです)。あなたのがたの求めている、待っているメシア、救い主がこの人ですよ、と伝えようとしています(今日はまだ話してません)、今朝のQTをしながら思ったのは、壮大な神様の計画の驚くと共に、その根底にある愛、涙を思いました。一牧師として、魂の奉仕をして祈る時に、どれほどの涙、苦労、喜びがあるか分かりません。神様の忍耐、愛に比べたらどうでしょうか?パウロもたちもここで言及しないけど、途中で離れて一行への痛みがあったはずです。それでも、宣教し続けました。また、私を育ててくれた宣教師や牧師先生たちも、苦労があったはずです。それは、神様の計画と涙その心を持った人の働きです。今日、神様の救いの計画と涙を持った歩みます。

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聖霊に満たされた人の強さ

使徒行伝13章4節、「ふたりは聖霊に遣わされて,セルキヤに下り,そこから船でキプロスに渡った」8節「ところが, 魔術師 エルマ (エルマという 名を訳すと魔術師 )は, ふたりに 反對して, 總督を信仰の道から遠ざけようとした. 9節「しかし,サウロ ,別名でパウロ は, 聖に 滿たされ,彼をにらみつけて,」
聖霊様により、シリアのアンテオケ教会から送り出されたサウロたちは、キプロス島の総督が神様の言葉を聞こうとするのを邪魔する魔術師ににらみつけて、神様の裁きを宣言します。そこに感じるのは戦うキリスト教です、強いキリスト教です。残念ながら、日本で私が体験した教会は、そういうことが少ない場所でした。教会で説教の時に居眠りしている人がいても(いつも)何か言うことは無い、場所にも合いました。それはそれでもったいない話ですが、せっかく教会に来ているのに。元に戻しますが、主に使わされた人、教会から送り出された人、聖霊様により満たされた人、の強さを感じます、悪霊の攻撃、聖書のみ言葉を聞こうとする人への邪魔を断固として追い出します。福音を邪魔する人へ、断固とした態度があるでしょうか。私にその強さ、リーダーシップ、断固とした態度(それは聖霊の満たしによって)強く立つことがあるでしょうか?今日、シリアのアンテオケ教会をモデルにする教会の牧師として強くたちます。主よ、助けてください!

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日曜日, 7月 07, 2013

とりなしの祈りを通して神様を体験せよ!?

使徒行伝12章:5節「こうしてペテロは牢に閉じ込められて いた. 教会は彼のために,神に熱心に祈り続けていた. 6節「ところでヘロデ が彼を引き 出そうとしていた日の前夜,ペテロは二本の鎖につながれてふたりの兵士の間で寢ており,戶口には番兵たちが牢を監視していた.」7節「すると 突然, 主の御使いが現われ, 光が牢を照らした.御使いはペテロのわき 腹をたたいて彼を起こし,「急いで立ち上がりなさい.」と 言った.すると,鎖が彼の手から落ちた.」
初代教会は、捕らえられたペテロのために熱心にとりなしの祈りをしていました。そこに、天使がペテロを救うと言う奇跡が起こりました。ハレルヤ!しかし、初代教会はこのことに反応できませんでした。何を信じて祈っていたのでしょう。誰に向かって祈っていたのでしょうか?でも、これはえてして私たちの現実にありうることでないでしょうか?ハ・ヨンジョ牧師先生が早朝気当会で言われた言葉を思い出します、あなたの祈った言葉を信じて今日一日を生きなさい。私の中にそんなことは無いでしょうか?奇跡は過ぎ去ります、奇跡はその事件だけに適用されます、しかし、その奇跡を起こす方に祈っていること、その神さまに出会うことが出来るならば、奇跡は当たり前になります。なぜなら、神様がなされる、生きておられる、私は、その神様に向かって祈っているからです。 今日とりなしの祈りを期待を持って祈ります。SJM(南カリフォルニアサラン教会日本宣教会)でのとりなしの祈りを期待して祈ります。主が聞かれます!アーメン!

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木曜日, 7月 04, 2013

神様の声を聞いて、行う。信仰の基本生活

使徒行伝11章8節「しかし 私は,『主よ. それはできません. 私はまだ 一度も, きよくない 物や 汚れた 物を 食べたことがありません 』と言いました. 」9節「すると, もう 一度天から 聲がして,『神がきよめた物をきよくないと言ってはならない.』というお答えがありました. 10節「こんなことが三回あって後,全部の物がまた天へ引き 上げられました.   11節「すると, どうでしょう. ちょうどそのとき カイザリヤ から 私のところへ 遣わされた 三人の 人が,私たちのいた 家の前に来ていました.12節そして御霊は私に, ためらわずにその 人たちといっしょに 行くように,と言われました そこで, この六人の兄弟たちも 私に同行して,私たちはその人の家にはいって行きました.」13節「その 人が 私たちに 告げたところによると, 彼は御使いを見ましたが, 御使いは彼の家の中に立って, 『ヨッパに使いをやって, ペテロ と 呼ばれるシモンを招きなさい. 14節「その人があなたとあなたの家にいるすべての人を救うことばを 話してくれます.』と言ったというのです.
信仰の基本は、神様の声を聞いて行うこと、です。そこには、現実に生きて働く神様がおられます。 祈って気分がすっきりしましたから、もういいです、とか宗教的なものでないのです、主は生きておられ、私の人生を治め、変え、導かれる方です。主を体験することが出来るから何と人生は幸福なものになるでしょう、何とエキサイティングなものになることでしょうか?それを邪魔するものなんでしょうか?人間的な経験、論理的な思考形式、進化論的な思考形式、知識、理性、そして何よりも罪です。時に宗教的なかたちや形式だけで、心のないものが邪魔します。神様の心を聞く、知ることがクリスチャンの最高の喜びなのに、時に宗教と言う枠の中で安らぐ時に感知ががおこります。異邦人の人々は救いを待っていたのに、わずかな距離もユダヤ人クリスチャンは宣教することも出来ませんでした。ペテロは自分自身、①神様の声を聞いた証し、②実際に異邦人である彼らが尋ねてきて、彼ら自身も神様の声を聞いてきた証し(ここらへんで分かってもやよさそう)、③伝道し、聖霊が下り、命にいたる悔い改めを受けた、証をします。今日、神様の声を聞いた証しをします。また、人々に神様の声を聞く恵みをSHAREし、教えていきます。
主にあるエキサイティングな日々を体験します。

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水曜日, 7月 03, 2013

宣教すると神がどんなお方か分かる

使徒行伝10章34節「そこでペテロは,口を開いてこういった. 「これで 私は, はっきりわかりました.神はかたよったことをなさらず, 」35節「どの国の人であっても,神を恐れかしこみ,正義を行なう人なら,神に受け入れられるのです. 」 36節「 神は イエス · キリスト によって,平和を宣べ伝え, イスラエルの子孫にみことばをお 送りになりました. このイエス · キリストはすべての人の主です。
ペテロは言います、「はっきり分かりました」と。ペテロにとって大宣教命令をもらっていても、異邦人伝道は遠い道でした、彼の偏見がありました。しかし、イエスの事を伝える中で(伝えさせられる?!)神様がどのような方であるのか?はっきり分かったのです。彼にとってはイスラエルの神様であったのが、①偏ったことをしない(人と違う、民族優位主義でない)、②すべの主である、③神を恐れ、かしこみ、正義を行う人を受け入れる(逆に言えば、そうでないならイスラエル人でも受け入れない、と言うことです)、④イエス・キリストを送られる(人を送るのは犠牲です、愛があるからです),⑤平和を宣べ伝える、⑥御言葉を教える、⑦イエスに聖霊と力を送り、A良いわざ、B癒し、C悪霊からの自由を与えられました。果たして、私はどれほどイエスを知っているのでしょうか?宣教する中で、体験をするイエスを知っているのでしょうか?今日、主イエスを宣教して行きます。もっと、もっと自分をうちやうぶってイエスを知りたい、主よ導いてください。

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鉄は熱いうちに打て!

使徒行伝10章45節「割礼を受けている信者で, ペテロ といっしょに 來た 人たちは, 異邦人にも聖霊の賜物が 注がれたので 驚いた. 46節「 彼らが異言を話し, 神を 贊美するのを 聞いたからである. そこで ペテロ はこう 言った. 47節「 この 人たちは, 私たちと 同じように, 聖を 受けたのですから, いったいだれが, 水をさし止めて この人たちに バプテスマ を 受けさせないようにすることができましょうか.」 48節「そして, イエス · キリスト の 御名によって バプテスマを受けるように彼らに命じた.彼らは,ペテロに数日間滯在するように願った.
神様は聖霊様を異邦人に下されました。ここで人間的な、民族的な偏見に閉ざされていたイスラエル人に、彼らが救われて聖霊に満たされることを体験、目撃しました。そこで、ペテロは洗礼を受け、神様の家族として歩むことを、イエスの弟子となることを決心させます。神様のみわざがなされた時に、私たちは、人間は素早く反応できるでしょうか?いやいや、洗礼クラスが必要ですとか、聖書のみ言葉を学ばないと(もちろん必要ですが)、と言ってタイミングを逃すことがないでしょうか?今日の主のみ技に素直に、自分の体験や方法を除いて奉仕します。

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火曜日, 7月 02, 2013

自分のLIMIT超えてこそ神様の御心がなる

使徒行伝10章;19節「ペテロが幻について思い巡らしているとき,御霊が彼にこう言われた.「見なさい.三人の人があなたをたずねて来ています.」 20節「さあ,下に降りて行って,ためらわずに,彼らといっしょに行きなさい.彼らを遣わしたのはわたしです. 」
ペテロにとって異邦人と交わったり、食事をしたりは、律法でゆるされないことでした。しかし、それは 異邦人の意味(神様を知らない、信じない)を超えて、民族的な偏見、変な意味で、自分の価値観になってしまっていました。そんなペテロと異邦人であるコルネリオの両方に神様は幻を見せて、神様の御心を示します。異邦人にイエスが伝えられるなんて、とマタイの福音書28章19-20節に大宣教命令をもらっていながらも、サマリヤさえも行けなかったのです。今日、私が従うべき神様の御心は何でしょうか?自分の超えるべき概念、偏見は何でしょうか?今日、新しいミニストリーをして行こうと思います。神様の御心を確信し続けたペテロ、コルネリオたちのように主の御心が示された時には「ためらわず」進んでいきます。主よ、御心のままにすすみ、止まらせてください。

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月曜日, 7月 01, 2013

神様に覚えられている期待感

使徒行伝10章3節「彼は敬虔な人で, 全家族とともに神を恐れかしこみ,ユダヤの人々に 多くの施しをなし, いつも神に祈りをしていたが, 4節「ある 日の 午後三時ごろ,幻の中で,はっきりと神の御使いを見た.御使いは彼のところに来て 「コルネリオ  」と 呼んだ. 5節「彼は,御使いを見つめていると,恐ろしくなって,「主よ何でしょうか.」と 答えた. すると御使いはこう 言った.「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って,覚えられています .
ユダヤ人以外に、福音から離れていた、遠く離れていた異邦人(神様の御心はそうでありません)に、神様からの幻がありました。それは、「あなたの祈りと施しは」神様の前に覚えられている、という声でした、何と幸いなことでしょうか?私の祈りは主の前に覚えられているでしょうか?いや、覚えられているのです。しかし、神様が覚えてくださることを信じ、熱心に祈り、施し(今風に言うと同じ施しもあると思いますし、愛を注ぐことかと個人的に思いました)そのことを知り、目指して、日ごとの変わらないような現実に向かってチャレンジしているでしょうか?この幻は、同じころにペテロにも与えられました。イスラエル人伝道しても、未だに偏見や、民族的に乗り越えることの出来なかった宣教の壁を使徒のリーダーシップを持っていたペテロに神様は同じころに示されたのです。そのような中で、神様に宣教計画がスタートしたのです。私は、祈りと施しが覚えられていることを思って日ごとに伝道し、牧会しているのでしょうか?また、今日もう一つ黙想したことが、7節「御使いが 彼にこう 語って 立ち 去ると, コルネリオ はそのしもべたちの 中のふたりと, 側近の部下の中の敬虔な兵士ひとりとを呼び寄せ, 8節「全部のことを 說明してから,彼らを ヨッパへ遣わした.」とあります、コルネリオには「神様のビジョンを全部話す」ことのできる部下が、また敬虔なクリスチャンの兵士がいたのです。私はこのように何でも神様の計画を話し、信頼し、行ってもらうチームを持っているでしょうか? 今日、日ごとの祈り、奉仕、そして神様のチームを作っていきます。

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ただ、主に栄光を返す人生に奇跡が起こり続ける

使徒行伝9章33節「彼はそこで, 八年の 間も 床に 着いている アイネヤ という 人に出会った 彼は中風であった. 34節「ペテロ は 彼にこう 言った. 「アイネヤ . イエス · キリスト があなたをいやしてくださるのです.立ち 上がりなさい. そして 自分で 床を 整えなさい. 」すると 彼はただちに立ち上がった. 35節「ルダとサロン に 住む 人¿はみな, アイネヤを見て, 主に 立ち 返った. 」44節「そこで, ペテロ は 手を 貸して 彼女を 立たせた. そして 聖徒たちとやもめたちとを 呼んで, 生きている 彼女を 見せた. 45節「このことがヨッパ中に 知れ 渡り, 多くの 人¿が 主を 信じた. 」46節「そして, ペテロ はしばらくの 間, ヨッパ で, 皮なめしの シモン という 人の 家に 泊まっていた.
ペテロは巡回伝道をします。これを読みながら、どこからその情熱、パワーが来るのだろうか?!私にも巡回させて下さい、このTORRANCEだけでなくて南加州に遣わしてください、と祈りました。また、ペテロはルダにいたアイネヤを癒します、しかし、ペテロの宣言は「神様の御心は」イエス・キリストに会ってです!?自分に栄光を返しません。その結果、アイネヤは癒されて、多くの人々が救われます。ここでも思うことは、奇跡に驚くのに終わったのでなくて、アイネヤやペテロに注目して大騒ぎになったのでなくて、イエスを信じた、ということです。
次に、ドルカスという女の弟子が死んだときに、ペテロが呼ばれて「よみがえり」の奇跡を神様がされるのに用いられるところがあります。そこでも、ペテロは①主の憐れみを請い、②ひざまずづき、③主の御心を求めて、④神様の御心を確信して、奇跡を宣言します。私はどうでしょうか?私たちはどうでしょうか?主の栄光のために生きる人は、次々と呼ばれます、次々に救われる人が起こります、今日の現実は難しくても、主の栄光のために、救われる人のために、奇跡行進を歩んでいきます。

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