坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

火曜日, 4月 30, 2013

この世もみとめる主の祝福の家族

創世記50;11「その地の住民のカナン人は、これはエジプトの荘厳な葬儀だ、と言った。それゆえ、そこの名はアベル・ミツライムと呼ばれた。これはヨルダンの向こう側にある」
イスラエルは、ヤコブは死んで、葬られます。ヨセフはパロに願い出て5節「私の父は私に誓わせて、私は死のうとしている、私がカナンの地に掘っておいた私の墓の中に、そこに必ず私を葬らなければならない、と申しました。どうか今、私に父を葬りに行かせてください。私はまた帰ってきます」ヨセフは、ヤコブとの誓いを守り、パロに願い出ます。また、私は帰ってきます、と約束をします。パロは認め、パロの部下たちをつけ、パロの長老をつけて、さらにエジプトの長老たち(外国政権であったため、と思われます)をつけて、戦車と騎兵もつけます。それは、いかにヨセフが認められて、感謝されて、必要な存在であるのか?を見せてくれます。そして、将来の約束の地であるカナンに行って、当時世界最高のエジプトの葬儀である、と認められるほどの争議をします。それは、神様の祝福の家族を見せることでした。流浪の民であった、父の家を離れて一人で苦労して、だましてだまされて成功を得ようとしたヤコブに下さる一方的な神様からの祝福でした。私たちの決定的な成功は、神様からの約束に生きるときに、神様の計画に生きるときにおこる、祝福が絶対的なものです。この世の権力も、力も、民族も、絶対数も恐れることがないのは、神様の祝福からです。ヨセフがこうして神様に仕えることから、ヤコブへの祝福を見せ付けました。そして、将来の約束の地へ祝福を見せ付けました。主の約束を握って、信じて歩みます。主の計画によって歩みます。また、今日、私が気を使う、心配する恐れる、心配する権威者の前に主の祝福の家族として、息子として、守られていることを信じ、願い出ます。

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日曜日, 4月 28, 2013

実を結ぶ人はどんなことがあっても神様とつながっている

創世記49:22-23、「ヨセフは実を結ぶ若枝」とあります、クリスチャンは実を結ぶ人です。ただし、神様とつながっていないと実を結ぶことができません。「垣根を越える」とあります、クリスチャンの人生は、実は限界のない人生です。しかし、ここで次のような御言葉があります。23節「弓を射るものは彼を激しく責め、彼を射て悩ました」つまり、クリスチャンだから、祝福の人だから攻撃がない、問題がない、ということではないのです。いや、大いにあることなのです。そのような時どうしたらいいのでしょうか?24節「しかし、彼の弓はたるむことなく、彼の腕はすばやい、これはヤコブの全能者の手により、それはイスラエルの岩なる牧者による」神様の力しかない、ということです、私たちが元もなんだったと言うのでしょうか?罪びとです、イエスを裏切り、否定したものです、それが自分の力ですから大変なことになるのです。謙遜差を失うから、高慢になるのか?コンプレックスにさいなまされるのです。主イエスに頼る、自分のありのままを認めます。25節「あなたを助けよう、とされるあなたの父の神により、またあなたを祝福されようとする全能者によって、その祝福は上により天の祝福、下に横たわる大いなる水の祝福」とあります、私の神様は、「私を助けようとする」方です。主イエスに求めているでしょうか?祈っているでしょうか?「あなたを祝福されようとする方」によって全能者によって、神様の祝福によってのみ、勝利できるのです。責められても、疲れないのは、倒れないのは、主イエスの注がれることによるのです。伝道集会、5月の準備のために少しプレッシャーがありました。しかし、主の注ぎによって、矢を満たすことによって進みます。また、ヤコブの終末が迫っています。その時に彼は、祝福の中で息子たちを送りました、つらい、苦しいで終わる人生でなくて、人を祝福する、準備された人生を行きたい、と思います。神様の矢である恵み、祝福を祈りつつGETします。

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祝福の家門になるために


創世記49;8「ユダよ、兄弟たちはあなたをたたえ、あなたの手は敵のうなじの上にあり、あなたの父の子はあなたを伏し拝む」ヤコブは、一転してユダを祝福し、たたえます。クリスチャンとは、本来はほめられる人になるのです。しかし、それはしみも傷もない、完全な人間だったから、能力のある人間だったからでなくて、神様の恵みの前に変えられていく人間だからです。ユダは家族関係はどうだったでしょうか?神様の怒り招いた息子をしかることなく、嫁をそのままおいておこうとして、悲しい、恥ずかしい結果を招いてしまいました。しかし、そんなユダを通してメシアの子孫、王の家系が生まれることは本当に不思議な神様の恵みです。まさに、神様の恵は一方的な恵みです。9節「ユダは獅子の子、わが子よ、あなたは獲物によって成長する。雄獅子のように、また雌獅子のように、彼はうずくまり、身を伏せる。誰がこれを起こすことが出来よう」10節「王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることがない、ついにシロが来て、国々の民は彼に従う」ユダは傷もしみもある人でしたが、神様が変えてくださいました、祝福を下さいました、私の家にも、祝福の家門としてください。私自身の傷や痛みを癒し、神様が変えてくださいますように。また、今日の聖書箇所は他の兄弟たちに言及されます。それは13節「ゼブルンは海辺に住み、」16節「ダンはおのれの民を裁くであろう」ガドは「彼はかえって彼らのかかとを襲う」とあります、家族でも、兄弟でも同じでありません。同じだったら気持ち悪い話です、ロボットでなくて神様の願われることでありません、後に、イスラエルがカナンの地に入って土地を分配されることを思い出しますが、それは、今日の主題でありません。それよりも、このような預言、祝福、計画を言われた時に、どのように受けと止めるのかが大事です。神様の計画と最善、愛を信じて受け入れる人でしょうか?人生を生きるときに、主にゆだねる時に神様の祝福があることを信じます。

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金曜日, 4月 26, 2013

能力ある息子よりも律義者の息子に祝福がある


創世記49;3-4「ルベンよ、あなたは我が長子。我が力、我が初めの実、すぐれた威厳と優れた力のある者。だが、水のように奔放なので、もはや、あなたは他をしのぐことがない、あなたは父の床に上り、そのとき、あなたは汚したのだ。彼は私の寝床に上った」
今日の聖書箇所は、息子たちを祝福する箇所です。しかし、もっともいたい話から入り、続きます。それは、ルベンが能力のある息子であり、自慢すべき息子であったにもかかわらず、「父の寝床を汚した」という、もっともおぞましい、最悪のことが書かれています。聖書は正直に、事実を書きます。それは、人の罪です。また、聖書の言うことは「能力があっても、長子であっても、罪に支配されるなら、それは神様の悲しまれることである」ことです、私たちは勘違いしやすいことがあります。それは、影響力のある人、力のある人、頭のいい人、そういう人をすごいと思います。それは、教会の中でもそうかも知れません。説教の上手な牧師、影響力のあるリーダー、能力のある~など。しかし、神様に用いられることは主にある誠実さである、と思います。人間には、用いられても、一時的には用いられても、主にある忠誠、愛が神様に用いられ続ける、祝福を受けるKEYであると思います。また、今日の聖書箇所には「シメオンとレビ」について、6節「怒りに任せて人を殺し、ほしいままに、牛の足の筋を切った」とあります。自分の欲しいまま、感情のままに動く人も用いられないものです、セルフコントロールが必要です。私にとって、セルフコントロールすることは何でしょうか?平和な人間関係であったり、時間管理でないでしょうか。聖霊様の支配がまさに必要な部分でないでしょうか?と言うよりも、なくては生きていけない、憐れんでください、という部分であると思います!私は!主にある律儀者になっていきます。

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木曜日, 4月 25, 2013

神様が私を用いるために私は準備しているか!?


創世記48;14「すると、イスラエルは、右手を伸ばして弟であるエフライムの頭の上におき、左手をマナセの頭の上においた、マナセが長子であるのに、彼は手を交差しておいたのである」イスラエルは、長子であるマナセでなくて、エフライムに右手を置きました。それは間違ったのでなくて、19節「分かっている、わが子よ、私には分かっている。彼もまた一つの民となり、また大いなる者になるであろう。しかし弟は彼よりも大きくなり、その子孫は国々を満たすほど多くなるであろう」私たちは、果たして祝福を受ける時に「比較」しないでしょうか?どこで、誰と、何をするか大事になって、他の人比べてどうだろうか?という「比較」と言う苦い酒を飲むことになります。本当に大事なことは、私が神様に用いられるか、どうかが大事なことです。本当に大事なことは、祝福を受けるかどうかなのです。比較ではありません。また、それに続いて大事なことは、神様に用いられるために「いつ、どこでも、今用いられていないように感じても、」BESTを尽くして準備できているかどうか?なのです。私を用いられるのは神様の自由です、私の事を一番知っている神様は、一番ベストのポジションのところで私を用いられます。それを信じられるかどうか?いや、神様ご自身を信じているかどうか、?神様に愛されているのかどうか、?知っているのかどうかなのです。させられているする仕事や日常をいきるのかどうか?です。自らしていく仕事をしていくのかどうかです。神様は自由を与えてくださいました、それは、私たちを人格者として認めてくださっているからです。私は人格的にその大事なチャンスを大切に生きているのでしょうか。15節「それから、ヨセフを祝福していった、私の先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神、きょうこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神」16節「すべてのわざわいから私を購われた御使い、この子供たちを祝福してくださいました。私の名が先祖アブラハム、イサクの名と共に彼らのうちに唱え続けられますように。また彼らの地のまなかで豊かに増えますように」このように、主の恵と守り、贖いを感謝し、告白し、悔い改め、祝福を次の人に伝えれるでしょうか?それは、主と共に生きる人生から来るのです、神様の祝福を体験した人が他の人を祝福できます。主に用いられる準備をしていきます。霊的なルーティン、従順を持って行きます。

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楽な道でなくて、最善の道を歩め!

創世記48;3-4、7,9「ヤコブはヨセフに言った。全能の神がカナンの地ルズで私に現れ、私を祝福して、」「私に仰せられた、わたしはあなたに多くの子を与えよう。あなたを増やし、あなたを多くの民のつどいとし、またこの地をあなたの後の子孫に与え、永久の所有としよう」ヤコブは、自分の歩んで生きた神様の出会い、神様の下さった祝福、そしてさらにこれからにあたえらる約束をヨセフに分かち合います。私はこのような神様の出会い、約束、生きてきた道をあかしていているでしょうか。それをさらに、次の世代へ受け継いでいるでしょうか?神様の約束を、ビジョンを、夢を次の世代へ、受け継いでいるでしょうか?今日のQTのメッセージの箇所は以前にたソウルサラン教会の主任牧師の「オ・ジョンヒョン」牧師
様の証でした(本当はQTを終わる前に読むのはいけないですが~インパクが大きかったので)そこには、自分の息子たちに「楽な道でなくて、最高の尊い道を歩むように、神様の下さる道は最善であること、それは必ずしも、人間の願う楽な道ではない」ことを語られていました、本当にそうだと思います。妥協することなく、最高の尊い道を歩んでいるでしょうか?最善の道を歩む喜びを享受しているでしょうか。その価値観、イエスの愛を賛美しているでしょうか?
もう一つ、ヤコブは7節「私の事を言えば、私がバダンから帰ってきた時に、その途上カナンの地で、悲しいことにラケルが死んだ」と語ります、ヤコブの痛み、傷を感じる箇所です。そこには、家族の不和の下になった部分があります。もちろん、ヤコブからヨセフへの祝福の家系があったことは事実です。しかし、そこにはラケルを愛することはもちろん大事、いいことですが、他の家族、子供たちを傷つける部分があったことを感じます(ヤコブとラケルの事を否定するのでありません)。家長として私は傷を癒されて生きているのでしょうか?正しい家族関係、日々の傷をイエスの愛で回復しながら、生きているのでしょうか?
9節「~すると、父は彼らを私のところに連れて来なさい、私は彼らを祝福しよう」とヤコブに言います。家長の特権は、祝福を次の世代へ引き継ぐことです。教会の人々へ、子供たちへ、神様の祝福を引き継いでいきます。私を生かしてくださって主イエスを賛美し、あかし、祝福します。

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水曜日, 4月 24, 2013

リーダーとは未来を示す人の事


創世記47:23-31
「ヨセフは、民に言った。私は今、あなたがたとあなた方の土地を買い取って、パロのものとしたのだから。さあ、ここにあなたがたの種がある。これを地に蒔かなかければならない」
「収穫の時になったら、その5分の一はパロに納め、5分の四はあなたがたのものとし、畑の種のため、またあなたがたの食料のため、またあなたがたの家族のため者のため、またあなたがたおさない子供のため、食料とならなければならない」
ヨセフは、飢饉が終了したときに、その後の回復の方法を具体的に持っていました。まさに、理想的なリーダーシップでないでしょうか!危機が過ぎ去った後に、その後の回復プログラムを持っている、なかなか出来ないことでないでしょうか?パロに貢献しつつも、エジプトの国に決定的な貢献をしつつも(土地を外国王朝のものにする、外国王朝の支配を人々を奴隷にする、という決定的な支配権の強さを与える)、それで終わらずに、愛をもって、人々へ、家族へ、町へ、国へ、未来を見せる、目的や方向性を与える。それに対して、民の反応はどうでしょうか?
25節「すると、彼らは言った。あなたさまは私たちを生かしてくださいました。私たちは、あなたの恵をいただいてパロの奴隷となりましょう」人々に感謝されるリーダーへの反応です、自らが進んで、仕える、仕えたくなるリーダーの姿勢です。こんなリーダーはいるでしょうか?さらにもっと素晴らしいのは、ヨセフが最終権威者でなくて、この国の王であるパロへ権威を帰していることです。自分のポジションを守っていることです。これは本当に会えないリーダーの姿勢でないしょうか。この姿勢、心はどこから来るのでしょうか?それは、ヤコブの死を備えるところから来ます。「どうか、私をエジプトの地に葬らないで、~眠りについたなら、私をエジプトから運びだして、先祖たちの墓に葬ってくれ」彼の基礎は、土台はエジプトでいかに子孫が増えて、祝福されて神様のルーツにあったところです。神様の基準で生きるリーダーでしょうか?’私の基準、基礎は、価値はどこにあるのでしょうか?神様に従うリーダーに良い基準、順序、が来ます。私の霊的生活をルーティンを立て直します。しばらくセミナーや外部の奉仕が続きましたが、さらに神様のQT,早朝祈祷を立て直します。主にあるリーダー、ヨセフになっていきます。

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火曜日, 4月 23, 2013

今日の私のベストが未来に必要な人を作る

創世記47;14、20「それで、ヨセフはエジプトとカナンの地にあった全ての銀を集めた、それは、人々が買った穀物の代金であるが、ヨセフはその銀をパロの家に納めた」「それで、ヨセフはエジプトの全農地を、パロのために買い取った。ききんがエジプト人に厳しかったので、彼らがみな、その畑地を売ったからである。こうして、その土地はパロのものとなった」
飢饉から、ヨセフは人々を救い出します。しかし、ヨセフのすごい事は、危機管理をしたことだけでなくて、人々を救い出しただけでなくて、彼らから受け取った銀の代金をヨセフは自分を抜擢したパロに収入を入れます。それは、非常に大きな貢献だったでしょう。彼の行政能力、智恵、指導力、そして人々への愛、神様の愛をもって生きるヨセフには、驚きべきものがあります。それは、ヨセフの以前の羊飼いの仕事、ポテファルの家の管理、監獄の中での管理から忠実に行った彼に、エジプト、周りの国々を救う大きな管理、働きを神様は任せてくださったのです。ヨセフは、エジプトの国、王朝に、パロに大きな収穫をもたらすようになったのです。ここで、少し注目したいのは「エジプトの民が土地を売った」という箇所です。これは見逃しやすい部分なのですが、当時のエジプト王朝は外国の王朝であった、という歴史的な背景があります。そのために、エジプトの農地を外国王朝であるパロが買うという、ことが起こったのです。これは、パロにとって大きな助けになったのでないでしょうか。
危機を救うだけでなくて、育てられたヨセフは、行政能力、指導力、愛をもって、この国に仕える人になりました。パロやエジプト王朝にとって非常に大きな貢献をしました、今日のベストが私の未来を造ります、何よりもっもっと大きいのは、神様にも必要な人になることのみならず、外国の人にさえも、大きな貢献をもたらす人になれたのです。今日のベストが、神様に、人に、社会に、ビジネスの場所に貢献する人になることを信じます。

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月曜日, 4月 22, 2013

神様は最良のものしか下さらない、と信じて祈っているか?

創世記47;2「彼は、兄弟のなかから5人を引き連れてパロに引き合わせた」ヨセフは、兄弟の中から5人の代表を連れてあいさつ、願い、をさせにいきます。ヨセフのリーダーシップが感じられます。4節「彼らはまたパロに言った、この地に寄留しようとして私たちはまいりました。~カナンの地はききんが激しく、~しもべどもの羊のために牧草がありませんので、~それでどうか、あなたのしもべどもをゴシェンの地に住まわせてください」彼らは具体的に求めます、具体的に地を、自分の働きを、世の権力者の前に伝えます、私はどうでしょうか?具体的に神様に祈り、願い、人々に必要を伝え、求めているでしょうか。期待していないから、自分の中に恐れがあるから、駄目かも、という恐れがあるから、もしくは、正しく求めていない姿勢に、恐れが来ます、正しく生きていない人生には、恐れがあります。しかし、彼らは大胆に求めました。
そこで、パロは6節「エジプトの地はあなたの前にある、もっともよい地にあなたの父と兄弟を住まわせない、彼らをゴシュンの地に住まわせなさい。もし彼らの中に力ある者がいたら、そのものを私の家畜の係長にしなさい」と言います。彼らを祝福する、認める神様の答えです、そして世の権力者からの祝福です、何と感謝なことでしょうか。しかも、力のある者がいれば、パロの家畜の係長にさえなれる、というのです。パロのリーダーシップと力あるものを採用するセンスのあるパロであることが、ヨセフの総理大臣抜擢からも、感じられます。私は、最良のものを受けることを期待して祈っているでしょうか?また、ヤコブはパロに挨拶し、祝福します(韓国語の聖書では、祝福の挨拶をしてさがった、とあります。日本語には無いですね)。権力者の前であろうが、クリスチャンは祝福の通り管です、恐れずに、祝福の権利を施行します。私たちは家族に、強大に、職場に、祝福をしているでしょうか?祈っているでしょうか。エジプトで新参者である彼らに最良のものが与えられました。しかも、忌み嫌われる家畜を飼うものとして、エジプトとも線引きをしながらも、。私たちは神様の最良の祝福を信じて祈っているでしょうか?ヨセフは最後に、家族を養い、兄弟を養う、箇所で今日のQTを締めくくります。ヨセフこそ、兄弟たちに復讐もせずに、愛し、祝福します。それは、傷や感情に左右されない、神様の最良のものを信じていきいぇいるひとの祝福の人生から、信仰、姿勢からでした。主にる最善を信じてよろこび、感謝していきます。

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土曜日, 4月 20, 2013

人生の出発は礼拝からスタートだ。


創世記46:1-27
「べエル・シェバに来た時、父イサクの神にけにえをささげた」3節「すると、仰せられた。私は神、あなたの父の神である。エジプトに下ることを恐れるな、わたしはそこであなたを大いなる国民にするから」イスラエルが、エジプトに行く前に「父イサクの神に礼拝した」とあります。
私たちのスタートは礼拝であるべきです、神様を神様とすること、神様の前に従うこと、神様の言葉を聞いたときに、愛の言葉として受け止めることが出来るなら、最高です。逆にそれができない時はつらい話です。そして、主イエスは言われます。「恐れるな!そこであなたをい大いなる国民とする」神様は世界最高の王国であるエジプトを使ってイスラエルを育てよう、国民として、成立させようとします。最高の祝福ですが、当人である人間には、私たちには、それが未だに見えていません。今まで慣れていた環境、社会、そこには自分の出来ることや、影響を与える場所l、人々がいます、しかし、それが失われるかもしれない、それは、本当に怖いものです。しかし、信仰は離れることから始まります。それは、慣れ親しんだ環境からはなれて神様のみ言葉の約束だけ信じるところから始まります。主に
 
まず従う時に、私に必要な祝福が来ます。分からないけれど、ます主を信じる時に、主は必ず祝福を下さいます。主は私に最良のものを下さる方です。大切なことは、主が私と共にいるかどうか?です。どこに、私がいるのかでありません。大切なことは、神様の御心にしたがっているのかどうか?です。それが生きた礼拝です。私をささげることです。主の与えた下さってセカンドジェネレーションの祝福を受け取ります。北米で神様の民として、英語も、韓国語、日本語も使う主のためにインターナショナルエイジアンとしていきます。

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金曜日, 4月 19, 2013

未練を残さず離れる人に最高の待遇が来る



創世記45;16-20「ヨセフの兄弟たちが来たという知らせが、パロの家に伝えられると、パロもその家臣も喜んだ」ヨセフがいかに尊敬されて、愛されているのかを知る話です、外国人であり、監獄にいた男が、いかに忠実に、エジプトの管理をして、誠実さ、その人格、仕事ぶり、立派さ、そこにはエジプトの人々が神様が共にいることを知ったのです。ク
リスチャンは、このような評価、愛される、立派に仕事をする、しかし、それは神様が共にいるからであることが根拠なのです。ビジネスの基本があります。このようになりたいものです。次に、「あなたの兄弟たちに言いなさい、「こうしなさい、あなた方の家畜に荷を積んで、すぐカナンの地に行き、あなたがたの父と家族を連れて、私のもとへ来なさい、わたしはあなたがたにエジプトの最良の地を与え、地のもっとも良いものを食べさせる。」」「家財に未練を残してはならない、エジプト全土の最良のものは、あなたがたのものだから」というメッセージをもらいます。神様の人は最高の待遇を受けます。主の奉仕者、その家族まで最高のものを受けます、最良のものです。しかし、一つの条件があります。それは、」「家財に未練を残してはならない、エジプト全土の最良のものは、あなたがたのものだから」というメッセージでした、私個人的に与えられたメッセージでもありました、こういう時に、神様まだこういうことがあるんですよ、条件や、まだいつ戻りますか?言ったことがないのに、とか、いろんな言い訳があります。しかし、主の祝福を信じないといけません、いや、主ご自身を信じないといけません、主の前に未練を残さず、主の導き、主の地へ進んでいきます。アーメン。

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木曜日, 4月 18, 2013

神様の節理を信じると期待する

創世記45:5「今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったり、してはなりません。髪は命を救うために、あなたがたより先に、私を遣わされたのです」
ヨセフは言います、兄弟にうらみも言わずに、傷も言わずに、謝罪せよ、といわずに「神様の御心、摂理、計画を言います」神様の救いの計画に生きる時に、自
分の心の傷、文句、恨みがありません。また、なぜこんなに待たされたのだ、とかも言いません。本当に必要なことを言います。それは、神様の摂理であり、神様の権威の従うことのみを宣言します。そこに、傷を持った人の痛み、不平や不満もありません、人間的な弱さも無く、神様に会って守られた、強められた姿があります。私にとって、教えられたのは「なぜ、これだけ待たされたのか」ということもなく、神様の摂理、タイミング、方法で生きています。それを宣言し、人々に伝える影響力もあります。兄弟たちから虐げられたことも、押しのける霊的な影響力があります。神様の摂理を知る人は人生に期待が起こります。どんなに挫折しても、神様の視野で見ることを祈ります。いや、神様そのものを信じます。そこから、神様の摂理が知らされます。と言うよりも、あらゆる状況の中で、神様と交わります、祈ります、御言葉を聞きます。そして、その中で兄弟たちの変化もあります。ユダの変えられた姿勢はヨセフの心を動かし、涙を流させ、神様の試練、テストを代合格させました。今日、神様の摂理を期待して、感謝し、賛美します。主の摂理を宣言する人になります。

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水曜日, 4月 17, 2013

素直な人は、一番強い!

愛は恐れを乗り越える責任を取る勇気を持つ
創世記44:16.「ユダが答えた、私たちはあなたに何を申せましょう、なんの申しし開きができましょう。また何と言って弁解することが出来るでしょう。神がしもべのとがを暴かれたのです。今この通り、私たちも、そして杯を持っているのを見つかった者も、あなたの奴隷となりましょう」兄弟のうちのユダは「罪を神様が暴かれた」と言います。私たちの罪を示される、失敗を発見された場合は、どのように反応するでしょうか。普通は、言い訳をしたり、逃げるのでないでしょうか。今までの兄弟たちはそうでした、しかし、ヨセフの試練を通して、テスト
を通して彼らに変化があります。それは、愛するゆえに「責任を取る」また、神様の前に隠せるものが無い、という態度でした。試練は、私たちの罪を過去を示す時があります、しかし、それは辱めのためでなくて(最初は恥ずかしいですが)悔い改め、きよめ、回復するためです。果たして、神様の前に私たちはどうでしょうか?ユダの変化は驚きばかりです。
Q:私は、私たちは、神様の前に「私は罪びとです、何もいえません」という心が、生き方がいつもあるのでしょうか?救われて忘れてしまっていないでしょうか?この姿勢がある人は揺れません。最初にあるべき姿勢です。
18「すると、ユダは彼に近づいて言った。あなたさま、どうかあなたのしもべの申し上げることに耳を貸してください。そして、どうかしもべを激しくお怒りにならないでください。あなたはパロのような方なのですから」、ユダは、ヨセフの前に「近づきます」それは、権威の前に恐れずに決心した、腹をくくった姿勢でした。人々は権威の前に恐れます、言いたいことを黙ります。しかし、愛する時に、それは死を覚悟して、罪の前に自分の罪を認めて行動する人の姿勢です。
神様の前に罪びとであることを認めると恐れないのです。ただしいポジション、生きかたがあります、それを失う時にバランスの崩れた信仰生活、働きになるのです。
32-34「というのは、このしもべは私の父に、もし私があの子をあなたのところに連れ戻さなかったら、私は永久にあなたに対して罪ある者になります。と言って、あの子の保障をしているのです」ですから、どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなたの奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと帰らせてください。あの子が私と一緒でなくて、どうして私は父のところに帰れましょう。私の父に起こるわざわいを見たくありません」
ユダは、ベニヤミンの代わりに身代わりになることを願います。それは、愛するゆえに自分が犠牲になる、愛でした。20数年前は、一緒にヨセフを売り、何も言わなかった男が、自ら出て行く、志願して、犠牲する愛を話したのです、それは、どこかからきたのでしょうか。神様が私の罪を暴かれた、示されたことに、素直に認めるところから来ます、もともと、煮るなり焼くなり好きにしてください、としか言えないのが私たちです。罪びとであるのに、何も言えないのに、そこから真の自分の姿、そして愛が見えてきます。そこには、恐れがありません。
完全な愛は恐れを締め出すことを信じます。

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火曜日, 4月 16, 2013

試験、試みに向かう心はあいなのか!?

創世記44;1ー2「ヨセフは家の管理者に命じて言った。あの人々の袋を彼らに運べるだけの食料で満たし、おのおの銀を彼らの袋の口に満たしておけ」
「また、私の杯を、あの銀の杯を一番年下の者の袋の口に、穀物の代金と一緒に入れておけ、彼はヨセフの言いつけどおりにした」
ヨセフは、いよいよ兄弟たちを最後の試験にかけようとします。それは、彼の復讐のためでも、感情に裏打ちされた試験や意地悪でありませんでした。
①神様からの試験は、正直に生きさせます。兄弟たちを正直に生きさせようとします。
②袋いっぱいに満たすヨセフの心は愛です。もしかしたら、ヨセフは試験が駄目なのときのことも考えたかもしれません(でも、それは私たちの与えられた今日の主題ではありません)
③感情に縛られてヨセフは試みを、テストを兄弟たちに与えていません、これは、驚くべきことです。私ならどうでしょうか。怒りや傷が出てしまうのでないでしょうか。
④神様のテストは、兄弟であるベニヤミンを愛するのか?守るのか?それとも、売るのか?自分だけの安全を願うのか?
⑤家族への回復、罪の悔い改めをするのか・
⑥そして、神様の祝福を受ける家族になるのか?
⑦神様の清さを持つ家族に、神様の計画に従う、成就する家族になるのか?
そのKEY POINTは罪の悔い改め、愛することにあります。私は人に使えるときに、感情や傷で接していないのか?その人を愛して試験を出して、育てるのか?また、自ら罪の悔い改めの中で回復した家族、愛をもっているのか?主の前にまず私が悔い改めます。罪の呪いのチェーンを主イエスの十字架で砕いて歩みます。

月曜日, 4月 15, 2013

神様の夢のステージに立つため、今日を生きよ!

創世記43;26「ヨセフが家に帰ってきたとき、彼らは持ってきた贈り物を家に持ち込み、地に伏して彼を拝んだ」27「ヨセフは彼らの安否を問うて言った、~父親は、私に話した末の弟か」そして言った「わが子よ、神があなたを恵まれますように」

今日の聖書箇所は、兄弟たちが「地にひれ伏して」ヨセフを拝むシーンです。夢の実現です。そこでの、兄弟たちの拝むシーンは「権力と世の中の地位、生きていくために食料を得る」ためにします、逆に、ヨセフは「兄弟を祝福します」同じ神様の夢の実現に立ち会いながらも、対照的な態度をとります。そして、ヨセフは家族への愛のために「胸が熱くなり、奥に行って泣いた」とあります。20数年ぶりの出会いです、ヨセフは17歳の時に売られて故郷を離れていきました。しかし、彼の心は家族を愛する心がありました。そして、食事をするシーンでは33-34節「年齢順に座らせた」とあります。また、ベニヤミンには「5倍の食事を与えた」とあります。神様の夢のステージは未だに実現していません。私たちは聖書を読んでいると次に起こることが何があるか知っています。しかし、現実の私たちの生活はこれからの未来が見えません。次の事が知りたい、知っていたら、と思います。しかし、大事なのは神様の夢のステージに向けて今日を大事に生きることです。兄弟たちは目に見える権威に恐れて、「ひれ伏して、おがみました」ヨセフは神様の計画に向けて「家族を祝福」しました。そして、兄弟への試練を準備していました。今日、神様の夢のステージに向けて家族を祝福します、また何よりも見えない現実の中でも、主イエスを信じ、賛美し、感謝します。

ラベル:

土曜日, 4月 13, 2013

男の強さって何だろう?

創世記43:15「そこで、この人たちは贈り物を携え、それに2倍の銀を持ち、ベニヤミンをを伴って~」,18-22「この人たちを家へ連れて行き、~一緒に食事をするから」、「われわれが連れ込まれたのは、この前の時に、われわれの袋へ返されていたあの銀のためだ、われわれを陥れ、われわれを襲い、」「そこで、彼らはヨセフの家の管理者に近づいて、家の入り口のところで彼に話しかけて」、23「安心しなさい、恐れることはありません」
今日のQTは、エジプトに決心していく兄弟たち、イスラエルの贈り物、銀の2倍の報酬をもって、そして大事なベニヤミンを伴う彼らの姿です。そこには、決心した彼らの姿を見ることが出来ます。しかし、エジプトに着いたときに彼らを待っていたのは、おもいもかけない盛大な歓迎でした。そこで、彼らは恐れます。18節「われわれが連れ込まれたのは、この前の時に、われわれの袋へ返されていたあの銀のためだ、われわれを陥れ、われわれを襲い、」と心配します。恐れはいらないところに不安を、いらない疑いを持ってきます。しかし、今回あの彼らは完全でないにせよ、正直に話をします。「そこで、彼らはヨセフの家の管理者に近づいて、家の入り口のところで彼に話しかけて」正直なところに、愛するところに、恐れが出て行き、追い払われます。強くするのは、愛であり、正直な姿です。それは、神様に愛されて、守られているところから出てくる源泉からくるものです。管理人は言います。「安心しなさい、恐れることはありません」と。真の男の強さは、何を持っているか?何を成し遂げたか?社会的に評価されているところでなくて、ありのままでいるところから、自分の弱さを認めるところから来ます。イエスにあるありのままで奉仕し、賛美します。こんな私
をそのままで受け入れてくださり、愛し、罪さえも赦し、神の子としてくださる、死んで下さってイエスの愛に!感謝します。だから素晴らしい神様を賛美します。

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私を追い詰める主イエスを賛美します


創世記43;2「彼らがエジプトから持ってきた穀物を食べ尽くしたとき、父は彼らに言った。また行って、私たちのために少し食糧を買ってきておくれ」
イスラエルと兄弟たちは、飢饉の中でエジプトからの食料を食べつくしてしまいました。ここで示されることは、飢饉がひどく、他に頼る人も、国も無く、エジプトに行くしかない状況に追い込まれたことです。もしも、飢饉が止まっていたら彼らはエジプトに行かなかったかもしれません。神様は「本当の問題に向かうように、真の問題にぶつかるように(出るべき人生の問題へ)追い込んでくださる」ことです。それは恵なのです!そこにぶつからなかったら、どうなるのでしょうか?罪の中で腐ってしまいます。人生の祝福を得ることも無く、ひき困った問題の中に引きずれてしまうのです。それは、’進歩しない、成長しない、変化しない、人生です。イエスに似ていかない人生です。イスラエルと兄弟たちは、本当の問題にぶつかります。それは、ヨセフを売ったこと、兄弟関係が壊れていること(未だに)、回復しない、隠された罪、告白しないことにありました、罪への責任、家族への責任を持っていないことにありました。ここで、ユダが自分が責任を取る、と出てきます。彼らも自分自身の息子の過ち、そして息子の嫁との関係の仲で、追い詰められて責任を取る男になったのでした。そして、ヤコブさえも家長としての権威、責任を回復し始めます。父としての責任、家長として正しく歩まない時に、家族が揺れます、影響が与えられます。彼のえこひいきは、どれほど、息子たちを苦しめ、傷つけたことでしょうか。どれほど、ゆがめた人間関係、家族を困らせたことでしょうか。シメオンを失いつつ、ベニヤミンを守っていた彼が決断します、一番大事な決断は主イエスの前に、出ることです。自分の罪や問題にぶつかることです。そこで、回復の道があります。主よ、私の家族にまことの問題へぶつかる祝福、修復がありますように。TORRANCE日系ジュビリー教会に、兄弟姉妹に問題の解決がありますように。主なる神様、全能の神様のの栄光がありますように!

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金曜日, 4月 12, 2013

葛藤があるときにイエスに出会う準備が出来る

創世記42;29「こうして、彼らはカナンの地にいる父ヤコブのもとに帰って、その身に起こったことをすべて彼に告げて言った」
 
 
 
 
ヨセフの兄弟たちは、シメオンを縛られてエジプトの地に残し、自分たちが間者として疑われたこと、そして大事な末の弟を連れてこい、と言われたことを父ヤコブに伝えます。まさに、危機です。しかし、神様からの試練はまさにここが大事です。危機の時にまず、正直に、素直に心を開いて対応するのか?そして、次に神様の身元に、神様の心にたどり着くのか、どうかが、非常に大事なポイントになります。兄弟たちはまず自分たちのことを「正直者」である、と真っ赤な嘘をつきます。間者に比べればそうでない、と言いたいのかも知れませんが、ヨセフの前に、神様の前に罪びとであり、弟の事を嘘をついて、罪を犯しているのです。ここに勘違いがあります。時間が経てば、私の罪は終わる、分からなければ、消えていく、という人間の勘違いです。天国では覚えられています。また、神様の与えた試練は、この地上で彼らの罪を示してくださいます。それは、悔い改めることが出来るなら感謝な回復の時なのです。地上で回復できるなら、天国では祝福が待っています。この地上でも、回復の祝福があります。試練は、神様の下さる回復の時への大事な過程です。そのチャンスを大事にしているのでしょうか?葛藤の起こる時は、心のありのままを出しながら、神様の前に出て行く時間です。恐れがあるときにこそ、心のままに出て行く時間です。それは、葛藤の中に、試練の中にいる神様の愛だからです!私の状況は、今すぐに何か起こらないか?私のタイムスケジュールで考えてしまいます。しかし、葛藤の時も主イエスの前に正直に悔い改めて、主の愛を信じて出て行きます。

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木曜日, 4月 11, 2013

試練を下さる神様の心が分かったら

彼らは互いに言った。「ああ、われわれは弟の事で罰を受けているのだな」創世記42;21、「神は私たちにいったい何と言うことをされたのだろう」創世記42;28
今日のQTは、ヨセフが兄弟たちを試練に合わせたときの彼らの反応です。長い間、ヨセフが兄弟たちにはじめから自分の身の上を表さないでいたのは何故だろう?と思っていました。それは、まさに愛の心からしているテストなのです、また試練なのです。神さまはヨセフを通して兄弟たちをテストしました、それはまさに今彼らの心や状態がどのようであるのか?示すテストでした。それなしに、次の出会いに進むことは出来ませんでした。それともう一つ重要なのは、彼らに神様にであるようにする、神様の心を知るようにする、時間をかけての(これが大事です!!!本当に)試練なのです。夢を見て、その後に兄弟たちに奴隷に売られて、エジプトで働き、更にいわれの無い罪で監獄にいかせられて、そこからパロノ夢を解き明かし、総理にまでなったヨセフと信仰の差がありすぎました。ヨセフにとって試練だった一つ一つはそれを通されなければ、神様のゴール、夢に到達できませんでした。エジプトに売られて、ポテファルのもとで管理人をしました(それは、将来のエジプトの国管理人の準備でもありました)そこで、誠実にしないと次は無かったのです。主人の妻からあらぬ罪を擦り付けられました、監獄へ行きました。そこに行かなければ、パロの料理人、献酌官にあえませんでした。するとエジプトの国はおろか、世界の救いのために用いられなかったのです。そこでも、ヨセフは忠実に使えて、神様がどこでも、いつでも、誰といても、祝福される人であったことを周りは常に知りました。試練を下す神様の心は愛です、そして、試練の中にいる時に涙を流されて、共にしてくださいます。ヨセフは試練の中でも、純粋さを失いませんでした。これは重要なことです、普通はひねくれます、やけになります、しかし、彼は純粋に主を愛しました、遣えました、この間、ヨセフの兄弟たちは何をしていたでしょうか。ユダが自分の息子かわいさに(しかるべき息子だったのに)嫁のタマルを掘っておき、苦しめ、結局、思い悩んだ彼女は、しゅうとであるユダにより息子を得ます。ヨセフが試練の中にいながらも、きよく、純粋で、いたのに、兄弟たちとは大きな信仰の差、神様の心を知る差が出来てしまいます。ヨセフは兄弟たちに神様のテスト、試練を送ります。それは、神様の愛でした、もし、試練が無ければ、成長も変化もありません。この2年間、ブログをほとんど書けませんでした。QTはもちろんしていました。書けないのは本当に忙しかったからです。この試練の2年がなかったら、どうなったことか?と思いました。LAカウンティ(ロスアンゼル)で日本語教会をして開拓しての2年は神様の試練、愛のときであったことを思いました、感謝します!賛美します、何よりも試練を下さる神様の心を教えてくださり、ありがとうございます、あなたを愛します。

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水曜日, 4月 10, 2013


創世記42:9-10「ヨセフはかって見た夢を思い出して」ヨセフは、’兄弟たちがエジプトに来て食料を求めて、ヨセフと知らずにひざまずく、おがむシーンを見て「夢を思い出します」わずか17歳の時に見た夢、それが基金の7年目のどこかのことでしょうから、37歳を過ぎた時に成就したのです。ここで、私が心に留まったことは「ヨセフは夢を思い出した」こと、逆に兄弟たちは夢の成就はおろか、ヨセフとも思っていなかったのです。VISIONを持っている人は(神様の夢を見ている人)の成就を、神様の御心の計画を、状況を通して知ることが出来ます。逆に、VISIONの無い人は、いや罪を犯している、隠している人は、霊的な目で状況を見ること、判断することが出来ません。ヨセフは兄弟たちを「間者」といいました。それは、彼らの心、姿勢、信仰を確認、テストすることでした。それなしに再会は無かったのです。兄弟たちは「私たちは同じ一人の人の子で、正直者」で(11節)、と言います。しかし、兄弟たちは家族の事を聞かれて「弟のうちの一人はいなくなった」とまったく正直者でないことを言います。本当の正直ものなら、どうでしょうか?このエジプトの総理大臣の前に正直に「弟」を売りました、と言えるのでないでしょうか。言わないといけないの無いでしょうか?罪を隠している人、秘密を持っている人、その人には神様のビジョン、働き、計画が目の前にある状況を通してなされていることをみることが、できません。ヨセフは兄弟たちの真実な心、奥底を見るためにしたくないテストをすることになります。神様を怖れる人は真の正直なものになります。それは、純粋に神様のビジョン、夢を、目の前の現状から、成就を見る人になります。ヨセフは最後まで、純粋さを失いませんでした。今日、主イエスと共に純潔な人生を歩みます。

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