祝福の家門になるために
創世記49;8「ユダよ、兄弟たちはあなたをたたえ、あなたの手は敵のうなじの上にあり、あなたの父の子はあなたを伏し拝む」ヤコブは、一転してユダを祝福し、たたえます。クリスチャンとは、本来はほめられる人になるのです。しかし、それはしみも傷もない、完全な人間だったから、能力のある人間だったからでなくて、神様の恵みの前に変えられていく人間だからです。ユダは家族関係はどうだったでしょうか?神様の怒り招いた息子をしかることなく、嫁をそのままおいておこうとして、悲しい、恥ずかしい結果を招いてしまいました。しかし、そんなユダを通してメシアの子孫、王の家系が生まれることは本当に不思議な神様の恵みです。まさに、神様の恵は一方的な恵みです。9節「ユダは獅子の子、わが子よ、あなたは獲物によって成長する。雄獅子のように、また雌獅子のように、彼はうずくまり、身を伏せる。誰がこれを起こすことが出来よう」10節「王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることがない、ついにシロが来て、国々の民は彼に従う」ユダは傷もしみもある人でしたが、神様が変えてくださいました、祝福を下さいました、私の家にも、祝福の家門としてください。私自身の傷や痛みを癒し、神様が変えてくださいますように。また、今日の聖書箇所は他の兄弟たちに言及されます。それは13節「ゼブルンは海辺に住み、」16節「ダンはおのれの民を裁くであろう」ガドは「彼はかえって彼らのかかとを襲う」とあります、家族でも、兄弟でも同じでありません。同じだったら気持ち悪い話です、ロボットでなくて神様の願われることでありません、後に、イスラエルがカナンの地に入って土地を分配されることを思い出しますが、それは、今日の主題でありません。それよりも、このような預言、祝福、計画を言われた時に、どのように受けと止めるのかが大事です。神様の計画と最善、愛を信じて受け入れる人でしょうか?人生を生きるときに、主にゆだねる時に神様の祝福があることを信じます。
ラベル: 創世記
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