坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

火曜日, 10月 31, 2006

神の憐れみ


主がイスラエルの悩みが非常に激しいのを見られたからである。そこには、奴隷も自由の者もいなくなり、イスラエルを助ける者もいなかった。主はイスラエルの名を天から消し去ろうとは言っておられなかった。それで、ヨアシュの子ャロベアムによって彼らを救われたのである。
(列王記第二14:27)
終わることの無い恵みを注がれる主イエスのみなを賛美します。
愛する皆さん、いかがお過ごしでしょうか。私は今週の日曜日はじめて祝福祈祷を日本語礼拝時にさせていただきました。限りなく不足な私ここまで導かれた神様のあわれみに感謝します。
また、思いもかけず、月曜日はお葬式礼拝の中で、ハングルで祝福祈祷をさせていただきました。まったく、神様のなさる事は不思議です。

さて、今朝のQTですが、列王記においてイスラエルの王が罪をやめない中で、絶望的な状況へと進んでいきます。ところが、そこに「主がイスラエルの悩みが非常に激しい」のを見られた、とあるのです。またそこには、「奴隷も自由の者もいなくなり、イスラエルを助ける者もいなかった。」という状況まで行きます。誰も助けてくれる人がいないのに、神は憐れみ、助けてくださるのです。どれほど大きな恵みと憐れみでしょうか。人知を超えた愛とか言いますが、それ以上に限りの無い神様の憐れみです。誰も助けてくれる者がいない時にも、
神は私の友であり、助けぬし、救い主なのです。
どれほど励まされることでしょうか。
今朝は、少し緊張していることがありました。しかし、神様が私の救い主であり、助け主であるなら、一人になる事はないことを信じて進んでいきます.

金曜日, 10月 27, 2006

信仰の遺産は何を送るのか?


「このようにして、エフーはバアルをイスラエルから根絶やしにした」(列王記第二10:28)「主はエフーに仰せられた。あなたは私の見る目にかなったことをよくやり遂げ、アハブの家に対して、わたしが心に定めたことをことごとく行ったので、あなたの子孫は四代目まで、イスラエルの王座に着こう。しかし、エフーは心を尽くしてイスラエルの神、主の律法に歩もうと心がけず、イスラエルに罪を犯させたャロベアムの罪から離れなかった」(30~31w節)

今日のQTは、エフーがアハブの家に対する神様の裁きをして、そして偶像の撤去を徹底的にした後の神様の言葉です。それは、一見祝福に見える部分ですが、それは限定された、条件つきのものです。エフーは神様の裁きをしましたが完全に従ったのでなく、ャロベアムからの罪から離れなかったのです。神様の目に喜ばれることはアハブの家への裁きと偶像のバアルをイスラエルから取りのぞくところまででした。ここに、列王記のスタンダードであるダビデのように神様の目に喜ばれることはしなかったのです。心を尽くしては主の律法に歩みませんでした。

今日の学べるべき教訓は、
① 神様の徹底したさばきがあることを恐れること、同時に
② しかし、エフーは100%でないために4代目までの限定つきの祝福であった
人は、自分の代に起こらない神様の裁きだからいいとか、考えてしまわないでしょうか。
また、4代先だから自分に直接は関係ないし、と思わないでしょうか。
しかし、天国の父が完全であるように、あなたがたも完全であるようにと言われます。
これは、確かに難しい要求です。人間的には不可能です。なぜ、神様はこのように言われたのでしょうか。

個人的な適用
① すべて解決していない問題があると、そのために祝福を受け損なう。
決して軽んじてはいけない。
② 最後まで自分の中に残っている罪や古い習慣を何だろうか。私の家にも、将来受け継ぐべき遺産はお金でなく、キリストにある信仰であり、朽ちない神様の愛であると思います。それを受け継がせるのか、それとも罪の呪いを送るのか、私の信仰者としての責任であると思いました。私の家の問題が神様に扱われることを祈ります

この手紙が届いたら


「この手紙が届いたら、あなたがたのところに」(列王記第二10:2)
エフーは、サマリヤにいるアハブの70人の子供を殺すために、サマリヤのつかさや長老、養育係りに手紙を書きます。それに対する考えられる反応は、
① エフーに反する行動
② アハブを滅ぼす
そのための判断の基準となるものは
① 自己自身を守る
② 神を恐れる(神の側にいる人に従うことや神の裁きをおそれる)
③ 人間や状況を恐れる
その結果はどうでしょうか。
7節「70人を切り殺し~」11節「アハブの家に属する者で~ひとりも生き残る者がないまでにした」とあるのです。
ここからわかることは何でしょうか。
神様の裁きは徹底的にある。必ずなるのに、一時期の安全のために悪につく人生を送ってはいけない。⇔人はしたことや言ったことに必ず責任をとる。

今日のQTを、実はお昼にしていました。この日に実は届かないといけない書類がありました。このために、ずっと待っていたのですが午前中に速達で送ったものが届きました。郵便局に電話しても無いといわれ、あらぬ心配をしてていました。そこに、午前が終わってからこのQTをしました。読んで2節目に「この手紙が届いたら~」でした。このような直接的なメッセージはしゅっちゅうあるわけでありませんが、神様が届けてくださるというのか、という声を聞きました。それでも、実は不安でした。そして、その書類は2時前に届きました。神様の直接の祈りの答えをいただく日でした。また、不信仰な私をゆるしてください。

木曜日, 10月 26, 2006

持つべき人間関係


「彼はアハブの家の者がしたように、イスラエルの王たちが道に歩んだ。アハブの娘が彼の妻であったからである。彼は主の目の前に悪をおこなったが、」(列王記第二8;19)

今日のテーマは神様の目に喜ばれる生き方をしなかったユダの王ヨラムについて、紹介されます。彼の人生の基準はこの世の繁栄でした。しかも、神様と反対の方向で、神様の祝福を受けた繁栄でなく、神様のみ言葉に従った結果の繁栄でなく、神様に悲しまれる人生を選んで生きました。その最たるものは、結婚でした。
 主に喜ばれない生き方の理由を聖書は、
①アハブの娘であるアタルヤが彼の妻であったからである(18節)
②彼自身アハブ家の婿になっていたからである(27節)
自らの繁栄のためにそういう結婚の選択をしてしまった。
また、そういう妻と結婚することで神に悪を行う人生を生きた。
ありますが、自分の人生の基礎とでもいえる家庭を作るのに結婚は大きな選択です。
そこで、ヨラムは決定的な過ちを犯し、その呪いはユダの家全部と国民全部に及びました。

Application
誰と付き合うべきか(異性のみならず、友人や知人と私の霊的な影響を挙げる人なのか)
付き合ってはいけない人間関係と断ち切るべき罪は何か
何を優先順位にして、結婚や家族を目指すのか
自分の価値観はどこにあるのか
自分のlife visionは何か

神様の喜ばれる結婚と友人を持つように祈ります。
自分のlife visionが神様の栄光をあらわすように祈ります。
(具体的にシェアできなくてすみません

神様の約束は必ず


「そこで、この女は神の人の言葉に従って出発し、家族の者を連れてペリシテ人の地に行き、7年間滞在した」(列王記第二8:2)
「王は彼女のためにひとりの宦官に命じて言った。彼女の物は全部返してやりなさい。それに、彼女がこの地を離れた日から、きょうまでの畑の収穫もみな、返してやりなさい」(列王記第二8:6)

今日のQTは、エリシャが7年間ききんがあるということを子供を生き返らせてあげた女に伝え、その神様の人の言葉に従い、ペリシテの地に行ってきた家族に起こった神様のみわざです。7年目に戻ってきて、家と土地について上訴する内容です。
非常に現実的な内容でないでしょうか。王様はゲハジの証言から女の主張を認め、土地の所有とその間の収穫を返すように指示します。

私たちの日常にも起こりやすい事件でないでしょうか。自分がいないために、当然受けるべき収穫や謝礼や、享受できることが失われた。これは欲張りな意味でなく、神様の与えてくださったことを管理することは大事なことです。そのために、一所懸命仕え生きないといけません。
神様の与えてくださった人生を、労働を正しく生きないといけません。

この女の家族は、神様のみ言葉に従いペリシテの地に行きました。そのために、難しい問題が留守中に起こってしまったのです。しかし、神様のみ言葉に従うものは「神様の約束」が必ずなされます。忘れられることはありません。

個人的に、この日のQTはすごく恵まれました。ちょっとすべてを話すことでないのですが、私も韓国に来て7年です。日本を離れて足掛け7年なのですが、神様の約束を握る者は、必ず神様の顧みや証言があること、神様の働き場が用意されていることを信じます。

火曜日, 10月 17, 2006

open the eyes of my heart


OPEN THE EYES OF MY HEART

「そして、エリシャは祈って主に願った。どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちた」(列王記第二6:17)

神の人の視野は何か、と思わされます。今朝のQTをした中で、私は現実の中で生きておられる神様を感じて、臨在のうちに歩んでいるのか、と思いました。

エリシャは、現実に見えるアラムの軍だけでなく「神の火の馬と戦車」が共にいて、
イシュ・ラ・エール(共に戦う神)を見ていました。

私のこれからの人生を考える時に、難しく考えたり、自分って本当に弱い人間である、と感じさせられることがありました。VISIONの英語の意味は視力を意味します。

私が信仰の目を持って、どのように将来のVISIONを見るのか、思いました。

神様、私の人生に対する神様の計画へと目を開かせてください。
(霊的なビジョンを持って)
私の目はいったいどこへ向いているのか?
誰と(神)と共にいるのか?

神の計画はわざわいでなく、平安と勇気と希望を与えるものであることを信じます。

木曜日, 10月 12, 2006

絶望の中で失ってはいけないもの


絶望の中で失ってはいけないもの

「主があなたを救われないのなら、どのようにして、私があなたを救うことができようか」
「なんと、王は服の下に荒布を着ていた」
「きょう、シャファテの子エリシャの首が彼の上についていれば、神がこの私を幾重にも罰せられますように」
(列王記第二6:27、30、31)

今日のQTの内容は、絶望的な状況の北イスラエル王国の首都であるサマリヤ(戦争、飢饉)に、未だに答えが無い状況で、終わります。
今日の危機的状況に、王様は信仰や王としての態度に矛盾した態度を見せます。神の救いを言いながらも、服の下は荒布であり、エリシャを逆恨みする始末です。神様に求める姿勢もありません。今日、黙想されたことは、絶望的な状況の中でしてはいけないことです。
① 絶望的な状況で、投げやりな心にならない
② その投げやりな心の結果は、自分の大切な家族や人間関係を捨て、壊した
(28-30節)これは、こういう人を食べるや、人をだますと言うことでなくても、
   別の形でしがちでないでしょうか。
③ 価値の無いものと価値のあるものを区別がつかなくなる
④ それを引き換えにするな、捨てるな。
⑤ 誤った人に巻き込まれないこと(エリシャは、自分の国のリーダーである王に殺害されそうだったのです)
⑥ 人を傷つけるな
⑦ 逆恨みや、誰かのせいにするな
逆に、
神様のところにもっていくこと。信仰の目を持って希望へと、前へと進め。私の人生を、計画をビジョンを持って歩むの必要なのは、ビジョンを見ながら進む忍耐です。忍耐は、いやいや我慢するのでなく、神様のビジョンを持って進む信仰によるのです。
私にとって、ビジョンを成す忍耐を持って今日を歩みます。自分にっても分からない難しいことがあります。しかし、今朝の御言葉を持って歩みます。

今日の働きは、自分でも思いもかけない恵みと導きがありました。しかし、全てが解決されたのでありません。続いて、神様の忍耐を持って歩みます。

しもべの最大の疑問と失敗


エリシャのしもべの最大の
「その時、神の人エリシャに仕える若い者ゲハジはこう考えた。なんとしたことか。私の主人は、あのアラム人ナアマンが持って来た物を受け取ろうとしなかった。主は生きておられる。私は彼の後を追いかけて行き、必ず何かもらってこよう」
(列王記第二5:20)

話は前後しますが、10月10日に韓国長老教団、合同派、東ソウル老会にて牧師按手を受けました。思えば、神学生活から伝道師、講道師、と来て神様の憐れみの中で、ここまで来させていただきました。限りなく不足な私を愛して下さり、導いてくださった主イエスに感謝と賛美をささげます。そして、ささえて下さった日本での先生方(以前に所属した)や、
韓国の長老会(オンヌリ教会と日本語礼拝部の皆さん、永世教会)イ・ヨンソン牧師様と共に仕えた伝道師の先生たち、そして松山協同教会(アライアンス教団で、私を宣教師として迎えて下さった)の愛する皆さんに感謝をささげます。そして両親にも(父は中学3年の時に天国に帰りましたが)。

さて、今日のQTです(時間は前後してます)。今日の箇所は、なかなか難しいところであり、読みたくない内容でもあるかもしれません。アラムの将軍ナアマンが癒された後に、エリシャのしもべゲハジが、人(エリシャ、ナアマン)を、そして神を欺き、自分の欲によって裁かれる所です。ここで起こる最大の疑問は、
「主は生きている」とゲハジが言ったことです。
① OH GODのような意味なのか?
② もらえるの当然の代価と思っていた
③ エリシャは報酬を受け取らないのがおかしい、と思った。
(神のリーダーへの不信任と不従順=神様への不信任と不従順へ)
ここで、思ったのは報酬を受けて当然と思う心は、私にもあるということです。これだけしたのに評価されて当然(お金のことで無くても、自分への扱いに対して)と思うこと。
それに、反することが起こる(反する対応や低められることに難しさを感じる)。お金のことに限らず、自分への扱いや、感謝されて当然と思うこと。また、不当な待遇を受けて思うことは何でしょうか。ちゃんとしてほしい、と思うのでないでしょうか。

私たちは神の救いをお金や良い行いで受けたのでしょうか。救いはただで受けた恵みでないのでしょうか。

神様への働き人への報酬は、聖書に言及されています(旧約聖書、新約聖書にも)。働き人は報酬を受けること、生活のささえを受けることが神様が言われています。
しかし、ここで言われているのは、自分の欲であります。
① 神様のリーダーにした決定に従わない
② しかも、ゲハジが自分でしたことでないのに、エリシャがしたことであり、
  神様の成されたことなのに、自分の報酬として当然に思った。
  全くの筋の通らない話(この世的にも)
③ うそをついて欺いた(人を、神を)
④ 人のために使う(エリシャの必要、二人の預言者のともがら)と言って、
自分のためであり、家の中にしまい込んだ。
  ⑤ ついたうそのために、さらにうそをついた。

今日、教えられたのは、与えられた恵みを分かち合う人になること。
   お金のへの潔癖さ(簡単じゃないです)
   いただいた恵みを分かち合うこと
   自分の欲のためでなく、神様のために

   しもべへの神様の裁きの恐ろしさ
神様が、ここまで導かれた恵みに謙遜に生きれるように。神様、一生涯をきよさで覆ってください、と祈りました。
牧師按手の時に,自分で祈った内容です。牧師として
① 聖霊の油注ぎ
② 御言葉に権勢を与えてください
③ 賛美に喜びの爆発を
④ 伝道に愛をあふれるようにしてください。です。愛する皆さんも共に祈って下さい。

水曜日, 10月 11, 2006

クリスチャンは純粋な心を失わない


列王記第二5章3節、7節
「その女主人に言った。もし、ご主人さまがサマリヤにいる預言者のところに行かれたら、きっと、あの方がご主人さまのらい病を直してくださるでしょうに」
「イスラエルの王は、この手紙を読むと、自分の服を引き裂いて言った」

今日のQTの箇所は、神様によって勝利させたいただいたアラムの将軍ナアマンが、重い皮膚病にかかっていたことから始まります。ここに、イスラエルの地から略奪で連れて来られた和解娘が出てきます。ここで、彼女は自分の仕える女主人に言います。もし、ご主人さまがサマリヤにいる預言者のところに行かれたら、きっと、あの方がご主人さまのらい病を直してくださるでしょうに」彼女は、略奪で敵地に連れてこられても、
①信仰と良心を失いませんでした。
②復讐する心を持ちませんでした
③仕える人へ祝福をもたらそうとしました
ここから、今朝教えられたことは、クリスチャンは逆境でも「清い良心」を失わず、卑屈な心や、傷つくのでなく、信仰を持って生きること。
その結果、神様を信じる幸福が周りの人々に影響を与えていくことです。

逆に、ナアマン将軍をアラムの王が手紙とお礼の品を持って出かけて言った時に、
国の支配者であるイスラエルの王からは、7節のような言葉が出てきて、「彼は私にいいがかりをつけようとしている」としか言葉も、服を引き裂くとか行動が出てこなかったのです。
①この世の力を持ちながらも、正しくその力を発揮できない。
②この世の考え、権力を自分のものとだけし、それを守る保身の考え。
③この世の力を与えた神様への信仰や、それを分かち合う心の無さ
対照的な2人が出てきます。

クリスチャンとして、私は逆境の中でも、日ごとに神様に心癒され、健康な良心を持っているのか、その救いを信じているのか、神様の幸福を分かち合っているのか、と思いました。

神様にある純粋な心を持って生きることを祈ります。

火曜日, 10月 10, 2006

賢明なしもべの姿に学ぶ


賢明なしもべのアドバイス
「そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに身を洗って、きよくなりなさい。と言っただけではありませんか」
(列王記第二5:13)

実は、この2週間ほど非常に忙しい時間を過ごしました。教会の行事(特別早天祈祷会)そして、牧師按手試験。神様の憐れみのなかで、無事に合格し、10月10日に按手を受けます。
牧師試験に合格した後(試験は、牧会学、礼拝、教会憲法、勧戒、インタビュー)にしたQTがこれでした。

ナアマン将軍が、仕えているイスラエルの若い娘から「思い皮膚病」を治してくれる預言者であるエリシャを紹介され、アラムの王の紹介状、お土産を持って来ました。
しかし、そこでエリシャは会うのでなく、直るための指示を使いを出して伝えます。
そこに、ナアマン将軍はすっかり怒ってしまいます。
自分の直る方法を人間的に考え、自分の直る報酬を用意した人間への難しいチャレンジでした。
私たちよく、人生や生き方を自分の方法、計算、自分のときに、決めてしまいます。

しかし、神様の方法は必ずしもそうでない時があります。
自分の方法、時、計算、をゆだねて従うことがKEY POINTです。

それを助けたのは、賢明な謙遜なしもべのアドバイスでした。決定的な役割をしました。
こんな部下を持つ人は幸いだなーと思いました。こういう人と仕事をするなり、チームを組むとどれほど役立つことでしょう。リーダーの不足を補って余りあることです。

私が牧師按手を受ける前に、しもべとしての姿を示されました。
賢明で、謙遜であり、尊敬を持ち、難しいリーダーによく仕える姿勢です。
神様の御心へのアドバイスをしたのです。神様を未だに信じていないリーダーにです。
牧師として、このようなしもべとして歩ませてください、という祈りを持ちました。

神様の豊かさ


神の豊かさ
ある人がバアル・エリシャから来て、神の人に初穂のパンである大麦のパン20個と、一袋の新穀とを持って来た。神の人は「この人たちに与えて食べさせなさい」と命じた。
主のことばのとおり、それはあり余った(列王記第二4:42,44)


韓国では、この1週間は秋夕(チュソク)という日本で言うお盆の時期にあたる1週間です。
今週は、外国では行くところのない留学生のために牧師先生のお宅で、パーティをしてもらったり(それと言うのも、お店も閉まって、食事も買い物も出来ないし、皆が故郷に帰る時期なのです)、英語礼拝部と日本語礼拝と中国礼拝で秋夕インターナショナルパーティーをしたりして過ごしました。何と、20カ国の人が集まり、250名以上の参加でした。
その中で一番多かったのは日本人のノンクリスチャンの方でした。
しかも、私たち日本語礼拝部が誘った方でなく、外部から来た人が多く、とても感謝でした。

そこで、思ったことは(残念だったことは)このノンクリスチャンの方々と話す日本人や韓国人クリスチャンが少なかったことです。来てくださる方が多かったのに、受け皿になる人がいなかったことです。友となり、伝道する架け橋になる人が少なかったことです。

今朝の御言葉は、「召使たちは、これだけでどうして百人もの人に分けられよう」と思ったことがあります。しかし、結果は「主のことばのとおりに、それはあり余った」のです。
もしも、この前に期待してささげる「ある人」がいなければどうでしょうか。
名前のない「ある人」が自分の犠牲をしなかったら。もしも、ささげものがなかったら。

神様の働きに期待する祈りをしたい、と思います。
インターナショナルパーティに、どれほど期待していたのか。
また、自分の家族を神様の栄光を表す家族としてささげるのか。
こんな祈りをしました。
「来年の秋夕には、キリストにささげる、神様の糧を、恵みを分かち合う家族の祝福を与えてください」
神様の豊かさに期待します

In the secret


In the secret
「そのままにしておきなさい。彼女の心に悩みがあるのだから。主はそれを私に隠され、まだ、私に知らされていないのだ。」(列王記第二4:27)

愛の源であるキリストを賛美します。
すっかりQTのアップデートが出来なくて、自分でも申し訳なく思ってます。決してQTが止まっているのでないのですが。分かち合いをするのにも、時間がなかなかゆるされない現状が。
韓国に来る前にある程度は予想できたのですけど。ここまでとは。

さて、過ぎていますけど、5日のQTです。
シュネムの女が、亡くなった自分の子供のためにエリシャに会いに行く場面です。そこで、エリシャの足元にすがりつくというところです。
ここに、驚くべき言葉があります。
「主はそれを私に隠され、まだ、私に知らされていないのだ。」
ということです。神の奇跡によって与えられた子供。その子供が死んだのに、その内容がエリシャには、未だ隠されていたのです。ここに、動揺しているエリシャの姿はありません。
未だに、子供が亡くなる事件があり、その理由も分からない状況なのです。

神への変わらない、揺るがない信仰があります。状況が悪くて、しかもその内容が隠されている、その悪い状況が何故起こったのか、分からない状況で、
ともすれば、神様への信仰が揺るぎかねない、自分の現実を先に動きそうな状況で
「主は隠されている」とエリシャは語り、神様への信頼と神様の隠されていることにも、
大きな信頼があります。「神が隠されているのだ」と。
それは、決して災いでなく、平安と勇気を与えるものでした。

私にとって、理由の分からない「難しい日常」や「働き」があります。昨日まで、そのために疲れていました。
しかし、神様が「隠されている」ことを信じます。
私を憎んでいるので、愛される神様の摂理と思いを信頼します。

エリシャとシュネムの女が二人だけで、主に祈った(33節)

そこに、神様の奇跡が起こりました。神様との静かな、密やかな交わりの中で応えられることを信じます