坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

月曜日, 5月 13, 2013

神様に預けれたものを使う人生


第二テモテ1;9節「神は私たちを救い、また聖なる招きを持って召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのです。この恵は、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたものであって」神様のCALLINGは不思議です。世の中の能力のある人や知恵者でなくて、私を、私たちを選ばれたのです。それは絶対的に人間の力でなくて、私が何かした(罪びとで神様を認めずにいたのに~ありえますか)?でなくて、神様の恵み、プレゼントなのです。その人生を大事に生きずにどうするのでしょうか?聖なる招きなのに!誰もがこんな風に行きたい、と思える尊い招きでないでしょうか?それを邪魔するものは何でしょうか?世の中の苦しみ、そして究極的にはイエスを信じるゆえの苦難です。しかし、パウロは言います12節「そのために、私はこのような苦しみに会っています。しかし、私はそれを恥とは思っていません。というのは、私は自分の信じてきた方を良く知っておりまたその方は私のお任せしたものを、かの日に守ってくださることができると確信しているかです。」パウロは自分の信じているイエスを良く知っていると言います。はたして、私は主イエスを良く知っていると堂々といえるのでしょうか。まあ、少し知っていいるほうですけど、よく知ってるほうですけど、としか言えないのでは半分恥ずかしくて、謙遜、半分本当で思います。本当にもっと神様を知りたいです!その方は私の任せてきたものを守る方です。その方は14節「あなたにゆだねられた良いものを、わたしたちのうちに宿る聖霊によって守りなさい」とあります、主イエスは私のために十字架にかかり、全てのよいものを下さった方です。神様のために目的ある人生を下さった方です。そのために奉仕する賜物を与えてくださった方です。信じているでしょうか?知っているでしょうか?感じているでしょうか?今日、礼拝の中で主が良いものを下さったものを聖霊様が守り、祝福してくださることを信じます。神様に預けられた福音を使い、使命を果たしていきます。主イエスが共なりますように。

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日曜日, 5月 12, 2013

再び燃えよ!


第二テモテ1;2節「愛する子テモテへ、父なる神および私たちの主イエスから恵とあわれみと平安がありますように」3節「私は夜昼、祈りの中であなたのことを思い出して~」とパウロからの愛を感じる恵の愛のレターが来ます。そして、テモテの弱いところや疲れているところ、励まします。5節「あなたの純粋な信仰を思い起こして~」そして6節「ですから、私はあなたに注意したいのです、私の按手をもってあなたの内に与えられた神の賜物を、再び燃え上がらせてください」神様のGIFTを燃やせ!とあります、テモテは少し落ち込んでいた状況か、大変な状況であったようです。そこで、パウロは愛する子よ、と言った後で注意します。パウロの愛が伝わります。それだけでなくて、パウロの熱さが伝わります。本気の愛でなくては言えない言葉です、何と感謝なことでしょうか?世の中で本気で起こってくれる人やしかってくれる人がどれほどいることでしょうか?そして、愛で励ましてくれる人が、自分のことを「愛する子よ」と思い、夜も昼も思う人がどこにいるのでしょうか。感謝なことです、本気な人だけが行ってくれることです。それは愛がなくてはいえないことなのです。私の中に、再び燃えよ、という神様の声があります!そのGIFTを燃やせ!という神様の声が、聖霊様の声があります。主イエスのために再び燃え上がる福音を、人生を生きていきます。アーメン。

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土曜日, 5月 11, 2013

未来へ向かって豊かに生きよ


第一テモテ6;11「しかし、神の人よ。あなたはこれらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい」テモテにパウロは語ります、神の人よ!と。そして、聖書は私たちに語ります「神の人よ」と。何と恐れ多い、光栄な、そして負担のある言葉でしょう。しかし、神様がしてくださること、神様が私のアイデンティを変えてくださったことを信じ、感謝します。このような人生へ、私を神の日と呼ばれる主イエスにひれ伏し、賛美します。礼拝します。さて、今日のKEY WORDは、12節「永遠の命を獲得しなさい」そして13節「すべてのものに命を与える」19節「まことの命を得る」ために、とあるように「いのち」です。それは、今クリスチャンとして完成してるのではなく、未だに目指すものがあること、そして間違って17節「この世で富んでいる人に命じなさい、高ぶらないように」、「間違って霊知(グノーシス)と呼ばれる反対論を避けなさい」とあります。私たちは、未来への命のために走らなといけません。それは、①神様にある信仰の基礎、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和、という信仰と人格の基礎を作るところからきます、また②人の益を計り、良い行いに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えれるように、とあります。クリスチャンの人生は、神様への信仰と周りの人々へ人格が一致するもの、同行するものです。イエス・キリストの十字架によって救われて、永遠の命を既に得ました。しかし、永遠の命をどのように生きるのか?神様に救われたのに、神に望みをおかずに、お金に望みを置くなら悲しい、むなしい人生を生きることになります。クリスチャンは豊かに施せ、とあります、何故でしょうか?天の父なる神が無限に下さるからです。私たちは神の人であり、周りの人を祝福する人生を任せられているからです。いまゆる特権なのです。あなたは、私は豊かな人生を行きますか?貧しい人生を生きますか?お金をもっていても貧しい人がいます。神様に望みを置いてないからです。お金そのものならどれほど不安でしょうか?論争のためなら、終わりもないし、平安もよろこびもないでしょう。人間関係も得ることが出来ないでしょう。神様にある信仰とそこから来る豊か人生を目指して生きます。

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金曜日, 5月 10, 2013

主イエスだけで満足だ!


第一テモテ6;6「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です」今日のQTは、奴隷の立場でありながら、信仰を持って「よく仕えること」そして、無駄な論争をして、知性が腐ってしまって、真理を失ってしまった人々をについて注意を話します、その後で続いて「しかし、」と続いて言います。「満ち足りる心を伴う敬虔」と語れます。満ち足りると何でしょうか?それは、主イエス・キリストの十字架で救われたこと以外にあるでしょうか?私たちは滅ぶべき、死ぬべき、神様の裁きを受けるべき存在だったのです。しかし、命がけの愛で救われたのです。それだけでなくて、神様の子供とされたのです。神様の奉仕をさせていただいたのです。それなのに、何がないといえるのでしょうか?与えられたら、感謝なのでないでしょうか。そこに、神様の祝福が来ます。与える時に神様の祝福が溢れて回りに流れて行きます。論争をする暇なんてあるのでしょうか?満足してよろこぶところに、感謝があります、大変な時にも、痛みがありません。回復と神様への期待があります、イエスさまだけで満足します!

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木曜日, 5月 09, 2013

霊的指導者の尊敬の理由


第一テモテ5;17「よく指導の任に当たっている長老は、二十に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。御言葉と教えのためにほねを負っている長老は特にそうです」18節「働き手が報酬を受けるのは当然である」今朝のQT箇所は、霊的指導者への尊敬を語っています。御言葉を教えるとはPREACHINGのことであり、教えとはTEACHのことかな、と思いました。労をとるリーダーとして私は「よく指導の任」にあたっているでしょうか?本当に恥ずかしい次第だと思いました。未だに難しい状態で、もっと準備が必要であると思いました。また、何よりも今日私の心に与えられたのは18節「聖書に穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない、「働き手が報酬を受けるのは当然である」という部分です。私にとって経済的にも厳しい時、時間的には非常に厳しい時期を過ごしました。その中で、このような恵みがあるのは大きいことです。また、それに相応しく、指導の任に当たらないといけない、と思いました。聖書研究を教えること、自分の恵をもって仕えて生きたい、と思います。自分では不足でないか、心配になることがありました。聖書のPREACHINGは高慢ではいけませんが、自信をもって奉仕をして来ました。でも、聖書研究などはどうか?と思うことがありました。日々、神様の前に出て恵みを受けて、聖書研究を準備していきます。また、さらに謙遜に学びの時をもって行きたい、と思います。神様、私を憐れんでくださいさらに仕えて学び、準備していきます。霊的な指導者が尊敬される理由は何でしょうか?素晴らしい神様に仕えることです、その神様の愛を、心を教えることです。その人が人間的にすごいのでなくて、素晴らしい神様に仕えるこっとがすごいのです。勘違いしてはいけない、と思いました。私がすごいのでないからです。なぜなら、私は弱い、不足な器だからです。さらに、聖書は19節「長老に対する訴えは2人か3人で」と慎重を期した上で、20節「罪を犯しているものを全ての人の前で責めなさい、他の人を恐れさせるためです」罪への恐れ、そして徹底的な罪への排除を言います。初代教会の当時であっても霊的な指導者への問題があったようです。果たして、私は罪を恐れて歩んでいるのでしょうか?本当に弱いものです。また、同時に神様への愛、人々への愛、責任を覚えて生きたい、と思います。主よ、私を強めてください。

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火曜日, 5月 07, 2013

愛による秩序がないと共同体はできない


第一テモテ5:3「やもめの中で、本当のやもめを敬いなさい」今日の聖書箇所は、「やもめ」の資格についてです。それは、人格的な部分です。やもめについて問題があったようです。素晴らしい、助けるべき方々がいる反面、そうでない人々もあり、教会の対応が求められた、ということです。初代教会も現代教会と同じような問題があったのだな、と思うと、この牧会書簡があることに感謝です。やもめの資格は10節「良い行いによって認められて人、すなわち、子供を育て、旅人をもてなし、聖徒の足を洗い、困っている人を助け、すべての良いわざに務め励んだ人としなさい」何と言高い、素晴らしい基準でしょうか?今の時代、牧師でもここまで出来る人はどれくらいいるのか?と思うと、自分が恥ずかしくなります。しかも、ここの中で大事なのは「やもめ」として本当に助けが必要で、教会で使え続ける、姿勢があるのか?という部分もあります。やもめとして、神様に、人に仕え続けるのか?という部分です。そうでないと、かえって家々を遊び歩き、噂話をして~(かえって教会の共同体を壊します)本当に自分のあるべき姿、ポジションをKEEPし続けるのが難しい話です。家族がいるのに、顧みないことはいけない、とあります。教会は、愛の共同体です。わがままや甘えの共同体ではありません、神様の愛を侮ってはいけません。愛による秩序を持つ共同体を立てて生きます、自分の献身の姿勢をさらにUP GRADEしていきます、主イエスに感謝します。

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月曜日, 5月 06, 2013

自分のポジションが分かると自由に仕えれる


第一テモテ3;8「執事も、またこういう人でなければなりません。謹厳で、二枚舌を使わず、大酒のみでなく、不正な利をむさぼらず、」今朝は、執事についての条件からのQTです。そして、9節「きよい良心を持って信仰の奥義を保っている人です」あります。昨日の監督(牧師)と同じく、人格的な部分そして信仰の部分の両方を語っています。その上で、10節「まず審査を受けさせなさい、そして非難される点がなければ、執事の職につかせなさい」とあります。こういう基準を見た時に誰が合格でしょうか?神様のみ言葉によって自分は謙遜させられます。本当の自分を見させられます。人格的な部分、信仰の部分(少しは出来るとか、思っていた部分が全然出来ていないことを思います)すると、自分が信仰や奉仕においてどのようなポジションにいるのか?分かります。本当に謙遜な、自分の姿に見させられます。神様、あわれんでください、というほかない自分に気がつきます。この大事な奉仕に、自分がさせていただくにあまり貧しい、足りない、いやかえって邪魔になるようなものを用いてくださるの、あわれんでください、というしかありません。自分の本当の姿、ポジションが分かると奉仕への姿勢、自由になります。自分にないものや、出来ないことを正直に認めます。神様にだけ頼ります。そして何よりも、神様の家でどのように振舞うのか?分かります。真理の土台である、柱である教会でどのように振舞うのか?それは、怖れる心です(悪い意味でなくて)。しかし、仕える者には良い影響と祝福が待っています。神様の信仰の奥義を受けることを祈って奉仕して行きます、神様憐れんでください。

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日曜日, 5月 05, 2013

牧者になるのは父なる神様の心を持つこと

第一テモテ3;1-7、1節「人がもし監督の職につきたいと思うなら、それは素晴らしい仕事を求めることである、いうことは真実です」という御言葉があります、何故でしょうか?それは、①神様のために生きること、②父なる神様の心で羊を、人々を愛すること、③羊飼いの心を持って神様と同行すること、④この世のものでなくて、神様の国のために生きること、だからでないかと思いました。果たして私は父なる神様の心を持っているでしょうか?この世で尊い奉仕をしている自尊心があるでしょうか?大変な奉仕の中に、落ち込んでいないでしょうか?神様の栄光のために歩んでいるでしょうか?そのゴールへ向かって走っているでしょうか?だから、大変な条件があります。しかもそれは、ING進行形で歩む人生、奉仕なのです。この奉仕には多くの難しい関門があります。それは2節:「非難されることのない」です。この世のどこに非難されることのない人がいるでしょうか?社会的に、家族的に、教会的に、多くのものが要求されます。しかし、この中で一番気になったことが「セルフコントロール」でした。自分の持っているものをネガティブに使わず「酒飲みでなく、暴力を振るわず、」代わりに「自分を制し、慎み深く、品位があり、良くもてなし、教える能力があり」「十分な威厳を持って家庭を治め、一人の妻の夫であり」性的な清さ、家族を治めること、もてなすること、が出てきます。また威厳を持つとは「人間の作るものでありません」その人の中から自然に出てくるものです。今日、神様に言われる条件に心が刺されるものです、何より気をつけるのは「セルフコントロール」の部分です。気をつけないと次の瞬間にどのようになるのか分かりません、主イエスの心を持って、共に父なる神様と歩んで生きたい、と思います。父なる神様の心で歩んでいきます。

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土曜日, 5月 04, 2013

優先順位を持つと有意義なことに人生を仕える

第一テモテ2;1「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人のために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい」使徒パウロは最初に祈るように勧めます、最初のプライオリティをつけます。私たちは、祈ると謙遜になります、祈ると自分が誰か分かります。神様を知れます、私は人間です。私が仕事をすると人間が仕事をします。しかし、祈ると神様が御わざをなされます。みわざをなされるのは神様です。でも、私は大事な責任を持って祈り、人生を生きないといけません。まず、最初に祈っているでしょうか?祈ると結果は何でしょうか?2節「敬虔に、威厳を持って、平安で、静かな一生」を過ごすためであります、一番願う人生でないでしょうか?敬虔でありつつも、威厳を持って生きる、なかなか難しいことでないでしょうか?敬虔でありつつも、人からなめられたり、威厳がないと難しいのないでしょうか?3節「神様に喜ばれることであり、良いことである」とあります、私の人生は、神様に喜ばれるために使われているのでしょうか?また、8節「男は怒ったり、言い争ったりすることなく、どこでもきよい手をあげて祈るようにしなさい」とあります、私の時間を、力を最初に何のために使っているのでしょうか?祈って何もしないのでありません、最初に祈るからこそ力があります。祈るからすべきことが分かります。自分の中に住まわれる聖霊様が生きます。今日、優先順位を持って生きます。

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金曜日, 5月 03, 2013

神様を侮らないためにbalance を保つこと

第一テモテ1;18「私の子テモトよ、以前あなたについてなされた預言に従って、私はこの命令をゆだねます。それは、あなたがあの預言に従って、信仰と正しい良心を持って保ち、勇敢に戦いぬくためです」信仰と正しい良心、それはダブっているように思えて違うものです。信仰が全てをカバーできれば、いいのですが、実は人格と違ってくる部分があります。本当は、信仰と正しい良心が重なっていればいいのですが、私たちの中でそうでない部分を持っているのに気がつきます。救いが、信仰も正しい良心も両方の基礎ですが私たちの中で分離して考えたり、信仰だけを強調することがあったりしないでしょうか?神様は両方を大事にしなさい、教会の奉仕、人生、牧師として使えることにバランスを持ちなさい、といわれます。そうでないと19節「ある人たちは、正しい良心を捨てて、信仰の破船にあった」とあります。それは、神様を侮ることになります。牧師をしながら多くの戦いに合います。その中で勝利する秘訣は何でしょうか?それは、イエス・キリストの前に「罪びとのかしら」であった、借りを持っている意識と、イエスの義によって救われた、そこから離れないことです。そこにいる時に、感謝と自分の本当の姿が見えるからこそ、賛美と感謝、神様を愛することが出てきます。そして、信仰と正しい良心を持って適用していく人生になります。聞いて何もしない人生ならバランスを崩します。祝福を受け損ないます。福音をゆがめて生きる人生になります、今日思う浮かぶ人がいました、自分自身が気をつけないと危ない、と思います。まっすぐに福音の真理を持って適用しながら、「生きる」ことをします。主イエスを賛美します

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木曜日, 5月 02, 2013


第一テモテ1;4「果てのない空想話と系図に心を奪われることがしないように命じてください。そのようなものは、論議を引き起こすだけで、信仰による神の救いの計画を実現をもたらすものでありません」今日から、新しくテモテへの手紙をQTします、新しい神様の導き、計画を知らせてくださる神様を賛美します。今日のメッセージは論議を引き起こす系図や空想話を心を奪われないようにしなさい、という命令です。それは、神様の救いの計画の実現を起こすもの、5節「清い心と正しい良心、偽りのない信仰とから出てくる愛を目標としています」とあります。私たちの大事なことは、人間的な血統や自分の力で救いが生み出せるのでないのに、恵で始まった救いを途中で自分の力で受けることに変えることです、今日思わされたのは、救いに召されても、それで終わりでないことです。クリスチャンになってから、その後のアフターケアが重要であることです。私は、クリスチャンとして、何を信じているのか?その目標へ向かって走っているのか?ということを考えました。だから、横道にいらないことにそれがちになるのです。私は福音を預けられたものとして、主の弟子として、人々を教えているのか?人々に仕えているのか?ということです。律法は自分がいかに罪びとであるのか?示して、私には主イエスしか救いがない、と告白させます。でも、議論のためにあるのでありません。イエスに導き教師です。また、自分を正直にさせる神様の言葉です、律法を読んで自分と関係ない、他の人の事である、と思ったいたら自分に嘘をついているのです。だからこそ、イエスの前に出るしかないのです。今日、キリスト教教理を人々に教えることを祈ります。聖書の教理を学ぶこと自体は大事なことです。でも、議論するためでありません、難しい話をする場所でもありません、自分の信じている本質をもって人生を走るために、生きるためにあります。イエスによって救われた、信仰を持って生きていく大事な土台です。イエス・キリストの十字架のみ、救いのみを自分の知っていることとします。私は罪びとであり、そこから赦されたものであること、私が何だと言うので、救われたのか?と告白します。イエスを信じるキリスト教理を教えていきます。6月からQTの学び、祈りの場所を開いていきます。福音を預けられたものとして教え、教えられ、祈っていきます。イエス・キリストの救いの本質からそれないところに祝福があります。この恵を証し、教えていきます。

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水曜日, 5月 01, 2013

毎朝の心のシャワーが人生のGOALを決める

 
創世記50;15「ヨセフの兄弟たちは、彼らの父が死んだのを見たとき、彼らは、ヨセフがわれわれを恨んで、われわれが彼に犯したすべての悪の仕返しをするかもしれない」と言った。これは、世間の生き方から当然の事です。普通の人なら、いまや権威であった父が死んだから、という生き方、復讐になるでしょう。しかし、ハレルヤ!クリスチャンの生き方は違います。罪と復讐のシステムから、鎖から解き放たれた、開放された人生なのです!ハレルヤ!私を、私たちをそのような人生に導かれる神様を賛美します。ヨセフは、兄弟たちに「ヨセフは彼らに言った.「恐れることはありません。どうして,私がの代わりでしょうか」「あなたがたは,私に 悪を計りましたが,はそれを,良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして,多くの人々を 生かしておくためでした.」と言います。ヨセフがいかに日ごとに、また大変な人生のポイントの度に、神様に聞き、傷を癒されて、罪を赦されて、人の罪を赦す恵をいただき続けたのか分かることでないでしょうか?対照的に、罪を赦さない、赦してもらえない、関係の中に、世の中の価値観に行き続けた、兄弟たちの霊的な状況を見せる話です。私は、私たちはどちらに生きているのでしょうか?日ごとのイエスとの出会いが、将来を決めます。GOALを決めます。結果を違ってきます。同じ兄弟なのに。そして、ヨセフは知っていました。「私が神でしょうか?」私たちは勘違いします、自分は救われて既にきよい、とか既に何かをなしたかのように?全ては神様から来ているのに。私が何だと言うのに、主イエスは救ってくださったのです。それだけでなくて、神様の働きを任せられたのに。それでも、自分の弱さや罪のために、神様の邪魔になるような時があるのに。それでも、用いてくださる、共にいてくださるを主を賛美します。ヨセフは言います「 もう 恐れることはありません.私は,あなたがたや,あなたがたの 子どもたちを 養いましょう.」こうして彼は彼らを慰め,優しく 語りかけた. 本当に恐れるべき人、方を恐れるときに、人間的な恐れがありません。ヨセフは神様を恐れる人でした。その人は平安を持ち、他の人にも与えます。私は、神様を恐れているでしょうか?私が何だと言うのでしょうか?ヨセフは最期を迎えた時に三代の孫を見て言います。24節「 は 必ずあなたがたを顧みて、 この地から アブラハム , イサク , ヤコブに誓われた地へ 上らせてくださいます.」と言います。また25節「は 必ずあなたがたを 顧みてくださるから, そのとき, あなたがたは 私の 遺體をここから 携え 上ってください.」と繰り返して言います。彼の最後の言葉は、遺言は、「神は私を、あなたを顧みてくださる」でした。これは死んでもその信仰の言葉、影響を信じるヨセフでした。「神は顧みてくださる」が彼の信仰告白でした。私はどうでしょうか?死んでも、顧みてくださる主がいることを信じているでしょうか?思えば、ヨセフのように不遇なことが合ったとしても、確かに守られたこと、祝福の中で来れたことを覚えます。今日も、ゆるし、赦された中で生きていきます。

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