坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

日曜日, 5月 05, 2013

牧者になるのは父なる神様の心を持つこと

第一テモテ3;1-7、1節「人がもし監督の職につきたいと思うなら、それは素晴らしい仕事を求めることである、いうことは真実です」という御言葉があります、何故でしょうか?それは、①神様のために生きること、②父なる神様の心で羊を、人々を愛すること、③羊飼いの心を持って神様と同行すること、④この世のものでなくて、神様の国のために生きること、だからでないかと思いました。果たして私は父なる神様の心を持っているでしょうか?この世で尊い奉仕をしている自尊心があるでしょうか?大変な奉仕の中に、落ち込んでいないでしょうか?神様の栄光のために歩んでいるでしょうか?そのゴールへ向かって走っているでしょうか?だから、大変な条件があります。しかもそれは、ING進行形で歩む人生、奉仕なのです。この奉仕には多くの難しい関門があります。それは2節:「非難されることのない」です。この世のどこに非難されることのない人がいるでしょうか?社会的に、家族的に、教会的に、多くのものが要求されます。しかし、この中で一番気になったことが「セルフコントロール」でした。自分の持っているものをネガティブに使わず「酒飲みでなく、暴力を振るわず、」代わりに「自分を制し、慎み深く、品位があり、良くもてなし、教える能力があり」「十分な威厳を持って家庭を治め、一人の妻の夫であり」性的な清さ、家族を治めること、もてなすること、が出てきます。また威厳を持つとは「人間の作るものでありません」その人の中から自然に出てくるものです。今日、神様に言われる条件に心が刺されるものです、何より気をつけるのは「セルフコントロール」の部分です。気をつけないと次の瞬間にどのようになるのか分かりません、主イエスの心を持って、共に父なる神様と歩んで生きたい、と思います。父なる神様の心で歩んでいきます。

ラベル: