霊的指導者の尊敬の理由
第一テモテ5;17「よく指導の任に当たっている長老は、二十に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。御言葉と教えのためにほねを負っている長老は特にそうです」18節「働き手が報酬を受けるのは当然である」今朝のQT箇所は、霊的指導者への尊敬を語っています。御言葉を教えるとはPREACHINGのことであり、教えとはTEACHのことかな、と思いました。労をとるリーダーとして私は「よく指導の任」にあたっているでしょうか?本当に恥ずかしい次第だと思いました。未だに難しい状態で、もっと準備が必要であると思いました。また、何よりも今日私の心に与えられたのは18節「聖書に穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない、「働き手が報酬を受けるのは当然である」という部分です。私にとって経済的にも厳しい時、時間的には非常に厳しい時期を過ごしました。その中で、このような恵みがあるのは大きいことです。また、それに相応しく、指導の任に当たらないといけない、と思いました。聖書研究を教えること、自分の恵をもって仕えて生きたい、と思います。自分では不足でないか、心配になることがありました。聖書のPREACHINGは高慢ではいけませんが、自信をもって奉仕をして来ました。でも、聖書研究などはどうか?と思うことがありました。日々、神様の前に出て恵みを受けて、聖書研究を準備していきます。また、さらに謙遜に学びの時をもって行きたい、と思います。神様、私を憐れんでください。さらに仕えて学び、準備していきます。霊的な指導者が尊敬される理由は何でしょうか?素晴らしい神様に仕えることです、その神様の愛を、心を教えることです。その人が人間的にすごいのでなくて、素晴らしい神様に仕えるこっとがすごいのです。勘違いしてはいけない、と思いました。私がすごいのでないからです。なぜなら、私は弱い、不足な器だからです。さらに、聖書は19節「長老に対する訴えは2人か3人で」と慎重を期した上で、20節「罪を犯しているものを全ての人の前で責めなさい、他の人を恐れさせるためです」罪への恐れ、そして徹底的な罪への排除を言います。初代教会の当時であっても霊的な指導者への問題があったようです。果たして、私は罪を恐れて歩んでいるのでしょうか?本当に弱いものです。また、同時に神様への愛、人々への愛、責任を覚えて生きたい、と思います。主よ、私を強めてください。
ラベル: 第一テモテへの手紙
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