坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

金曜日, 9月 26, 2008

クリスチャンの最高の祝福は何か

「あなたを祝福するものは祝福され、あなたを呪う者は呪われる」(9節)
神様と共にいる人生は、荒野のテントでも「なんと美しいことよ。ヤコブよ、あなたの天幕は。イスラエルよ、あなたの住まいは」と言われます。神様と共にすまない人生は、どんなに高級な住居であろうと、どんなに素晴らしい環境にいようとも、むなしく厳しい人生の一人旅なのです。しかし、神様と共に生きるならどこでも天国の人生を共に、どんなことがあっても孤独でない。神様の力を持って歩めるのです。また、荒野の中でも一番大事な水を得ることが出来ます。荒野でもっとも必要なのは水です。これを定期的に、枯れることなくえることは不可能でしょう。それを「その手桶からは水が溢れ、その種は豊かな水に潤う」(7節)と言われます。クリスチャンは神様にあって乾くことの無い人生、満足を知る人生をえれます。どんなにお金があっても、人生の本当の満足である主イエス・キリストを知らなければ、人生の荒野を歩み続け、乾き続けます。ほしいものだらけ、不足なものだらけ、人との比較から不足を言い続けます。自分の持っているものにも満足も感謝もできません。しかし、主イエスを知るものは満足できるのです。さらに極めつけは、これです。
「あなたを祝福するものは祝福される」この地上で、王子のような権勢を持って生きることが出来るのです。あなたをなめるものには裁きがあると言われるのです。このような最高の守り、最高の祝福、アイデンティを持っているのがクリスチャンです。私はそのようなクリスチャンであると言う自覚があるでしょうか。それとも、自分は駄目だと言う目で見ていないでしょうか。また、そのような祝福を享受して生きているでしょうか。それとも、周りの状況を見て自分の人生を孤独な荒野に作っていないでしょうか。神様の最高の祝福であるクリスチャンとして生きます。

まじないと主の御心はどう違う?

「神は人間で無く、偽りを言うことが無い。人の子ではなく、悔いることがない。神は言われることを、なさらないだろうか、約束されたことを成し遂げないだろうか」(19節)
まじないや占いは→当たったらラッキーです。当たらなくてもそこまで期待する必要や裏切られる水準の信頼ではありません。成らなくても、仕方がありません。
わがままな祈りや願いをしても、かまいません。その結果、自分がさらにひどいことになっても、あんなときな願わなければよかったと後悔しても仕方が無いのです。
しかし、神様の御心は 必ず成る、そして完全な神様の計画のために善である。失敗が無い。後悔がない。偽りは無いのです。真実な神様なのです。ですから、必ず成ることを信じ待ち続けます。信頼の対象です。期待して待ち続けます。すると、私たちはどのような人生を歩み続けるのでしょうか。 それは、目に見える状況は悪く、人からのプレッシャーがあっても確信に満ちた人生なのです。 おそれる状況で、自信を持って歩む人生です。不安な未来に神様の計画にある人生を歩みます。いきあたりばったりではありません。神様の信頼を持って歩む人は確信があります。今日も、神様の確信を持って歩みます。

下心のあるもてなしを拒否する勇気を持て

バラムは主の使いに申し上げた「私は罪を犯しました。私はあなたが私をとどめようと道に立ちふさがっておられるのを知りませんでした。今、もしあなたのお気に召さなければ、私は引き返します」(34節)
そして、バラクはバラムに言った。「ほんとうに私にはあなたを厚くもてなすことができないのでしょうか」(37節)
バラムは結局、バラクのところに行こうとしてしまいました。そこで、ろぼは主の使いを見て道をそらそうとしました。そこで、ロバの声を聞き、目を開かされて主の使いを見たのです。そこで言った言葉がこうです。本当に彼は知らなかったのでしょうか。主は仕方なく、人をロボットのようにせず人格者として自由を与えてくださったのです。ですから、主の御心でないことを知りつつも、バラムは行こうとしました。それが「あなたの道が私と反対に向いていた」のにもかかわらずです。 それを本当に知ったなら、「何故、すぐに引き返す」と言えなかったのでしょうか。神様の御心を歩んだのか、私も問われるなら「悔い改めることだらけ」です。また主の御心を知りながらも、「すぐに」悔い改めたり、方向を変えなかったことがどれほどあるでしょうか。
状況の良い、下心のあるもてなしに負けることや、誘惑されることがどれほどあるでしょうか。まことの天国の宝を、主の喜ばれる人生の価値を信仰の目で見ていないから、下心のあるもてなしを受けて、断れない状況に押し込まれるのです。神様の価値を持って拒否していきます。

大なり小なり悪は悪、罪は罪である。

「しかし、バラムはバラクの家臣たちに答えて言った。たといバラクが私に銀や金の満ちた彼の家をくれても、私は私の神、主の言葉に背いて、事の大小にかかわらず、何もすることが出来ません」
民数記22:15-30(18節)
「主の使いはさらに進んで、右にも左にもよけることのない狭い所に立った」(26節)
バラクの誘いに、バラムはこう言います「事の大小にかかわらず、主の言葉に背けない」と。私たちは、ことの大小で主の御心従う、また主の御心に従わなくても、とライン付けをしていることがないでしょうか。この程度なら神様は見逃して下さる、と考えます。しかし、主は決して侮られる方ではありません。事の大小を自分で決めること自体が無理があります。100%の従順の敵は50%のふ従順です。神様が事の大小を決めるわけでもないのに、どうして自分で決めて良いわけがあるでしょうか。また、事の大小を決めるなら、2重人格者であります。神様の願われるのは実力や結果よりも神様に従う心です。バラムは結局、バラクの使いと一緒に出かけてしまいます。神様は天使を送り、その道を閉ざされます。神様が止めてくださるのは祝福であり、愛です。もしも、滅びの道や神様への不従順の道を閉ざされるなら、難しい状態になります。神様は時に、右も左もいけないようにして神様の道を示されます。私はこう祈りました「どうか、主よ私の道を止められるときには、感謝できるように。主の使いがそこにたっていられるの見れますように」。神様の道へと止めてくださり、方向を変えさせてくださる父なる神の愛に賛美と感謝をささげます。

主の言葉だけを語れ!

主の言葉だけを語れ!
民数記22:41-23:12
バラクはアラムから、モアブの王は東の山々から私を連れてきた。「来て、私のためにヤコブを呪え、来てイスラエルに滅びを宣言せよ」
「神が呪わない者を私がどうしてのろえようか。主が滅びを宣言されない者に、私がどうして滅びを宣言できようか」(7,8節)
バラク王にもてなしを受け、プレッシャーをかけられたバラムがイスラエルを呪うことを命じられます。しかし、バラムの答えはこうです。「神が呪わないものを呪えるのか?」それなら、初めからバラムが行かなければ良いのですが。彼はろばに止められても来てしまったのです。天使がとめようとしていたいにもかかわらずです。こういう状況にしてしまったのです。そういう状況を通しても、神様は働いてくださいます。私たちに日ごとに来る周りの人間関係のプレッシャーは強いものです。
その状況で妥協しても大丈夫さと言う感覚さえ設けます。しかし、妥協するバラムでさえも神様の心は決してまげて言うことがありませんでした。バラムは言います「主が私の口に置かれること、それを私は忠実に語らないといけません」。
私たちクリスチャンの言葉は、果たして主が置かれた言葉だけを語っているでしょうか。この世の中の言葉を語っていないでしょうか。また、妥協の産物や、お上手な言葉を言っていないでしょうか。
自分の願いや気持ちを、私心を語っていないでしょうか。そのために複雑な人間関係になっていないでしょうか。
そして、人へのプレッシャーに負けていないでしょうか。
だから、私たちの人生は勇気が無いのです。恐れがあるのです。自信が無いのです。幸福でなくなるのです。今日、神様のメッセージを持って勇気を持って人に語ります。

金曜日, 9月 19, 2008

まことのリーダーの心

「それで、モーセは主に叫んで言った。神よどうか彼女を癒してください」(13節) アロンとミリヤムが主の裁きにあい、ミリヤムがツァラトに犯されたという事件です。そこで、アロンが悔い改めてモーセに頼んだ時に「すぐに」その悔い改めを受け入れ、とりなしたのです。
普通ならそうはできないし、しないことでしょう。まことのリーダーは自分が罪を許し、敵を愛することの祝福の権利を持っていることを一番大事にします。偽のリーダーは自分が高められることだけを願います。それは、イエス・キリストの十字架の謙遜なすがた、卑しくまでされた姿そのものです。世間のリーダーは自分がもてはやされ、もちあげられることを願います。しかし、まことのリーダーは自分が損をしても、神様の愛が流れることを願います。自分で敵対が、傷が終わることを願います。以前に、私が中学生時代にサッカーをしていたときに先輩が後輩に試合の時にジュースを持ってこさせ、自分たちが飲ませることを伝統にしていたときがありました。ぜんぜん悪い伝統ですね。
それを、私たちが先輩になったときに悪い風習はやめる、ということになりました。そのときの先生の言葉がこうでした。どこかで損をしている人がいないと悪い習慣はずっと続くという話のもとやめました。私たちにとって、後輩が可愛くも感じれず、サッカーが私たちよりも上手である世代よりも、ずっとレベルの下がる感覚がしました。しかし、悪い罪の根は切らないといけません。
私が、まことのリーダーとして罪の根を切るリーダーになることを祈ります。今日仕える人や常識を知らない、困った人に接するときに神様のリーダーとして歩みます。

神様の指導者は、神様のビジョンを持て(私心を持つな!その危険)

神様の指導者は、神様のビジョンを持て(私心を持つな!その危険)
「モーセがかの地を探らせるために遣わした者で、帰って来て、その地に付いて悪く言いふらし、全会衆をモーセにつぶやかせて者たちも」「こうして、その地をひどく悪く言いふらした者たちは、主の前に、疫病で死んだ」(民数記14:36-37)
神様の指導者には、権威と共に責任があります。それは、神様のメッセージとビジョンを持つところから来ます。私たちは、指導者のために祈らないといけません。ヨシュアとカレブは、命を懸けてしたがっていくことで生き残り、約束の地へ入ることをすすめることができました。
しかし、今日のQT後半には「約束の地へとにかく入ろう」(40節)として、すすめるひとがいました。それは、不従順の悔い改めよりも自分の人生の安全のためにした行為であるといえます。モーセも止めましたし、何よりも神様の臨在の中である主の箱は動かずにいました、そのためにイスラエルの人々は惨めな敗北をすることになりました。神様共に要るためには、従順を持たないといけません。
そこで、神様の臨在を経験できる人生を歩めます。そして、神様のリーダーシップを求めます。
私の心に主に従う心、それでもしようでなく主の歩む人生を進んでいきます

神様のご性質に頼って祈れ

どうか今、我が主の大きな力を現してださい。あなたは次のように約束されました。主は怒るのに遅く、恵み豊かである。咎とそむきを赦すが、罰すべき者は必ず罰して、父の咎を子に報い、三代、四代に及ぼすと(民数記14;17-18)
危機の時にどのように歩むべきでしょうか。難しいときに勇気を失うことや、恐れを持つことが多くあるのでないでしょうか。そんなときに大胆さを持つためにどうしたらいいのでしょうか。
モーセの祈った「我が主の大きな力を現してください」ということは何を求めていたのでしょうか。
それは、恵みです!!ゆるしなのです。
神様との人格的な交わり持っているモーセには、神様がどのような方であるのか?よく知っていました。そのために、神様のご性質に頼って祈り、求めることが出来ました。そこに、聖いおそれはあっても、人間的なびくびくするようなおそれは無かったのです。ですから、大胆に求めることが出来ました。そこで示された適用は、「私にとって、今の現状を話すべき人に話すことでした。」それを、目上の人に話すことが負担でしたが、勇気を出して話すべき人に話すことを決心しました。

約束の地に入る前に礼拝する人生を歩め

その地のパンを食べるときに、あなたがたは主に奉納物を供えなければいけない(民数記15:19)
今朝のQTは非常に面白い箇所だな、と思いました。イスラエルの民が不従順のゆえに約束の地カナンには入れなかったのに「約束の地カナン」に入ったら礼拝せよという命令でした。
まず、約束の地に入る前に「ささげものや礼拝」とはピンとこないのでないかと思いました。
先に約束の地に入れてから、礼拝の話でないのかと思いました。では、なぜ今礼拝の話のなのでしょうか。
① 神様の約束の地に入れるという約束は人の不従順があっても変わらないから。
② 約束の地に入る前に礼拝者である必要がある。後の自分の力でここに入ったと過信する。
③ 約束の地は今は異邦人の地であり、他の危険な宗教がある、そこにそまらぬように信仰のアイデンティを持たせる。
④ 礼拝する人に神様の祝福が来る。礼拝が無い人には、祝福が呪いとなる。
⑤ この荒野で、約束の地に入るときまで祝福を待ち望む信仰を持たせる
⑥ 礼拝をすることを心から待ち望む人になる
⑦ 礼拝者でないと、神様の計画に従う、神様を主人と出来ない。
神様、私をまことに礼拝を喜ぶ人にしてください。約束の地に導いて礼拝をたくさん、ささげものをささげさせてください。

罪は断ち切らないいけない問題だ

どのような 人の 死體にでも 觸れる 者は, 七日間, 汚れる.
その 者は 三日目と 七日目に, 汚れをきよめる 水で 罪の 身をきよめ, きよくならなければならない. 三日目と 七日目に 罪の 身をきよめないなら, きよくなることはできない.
すべて 死んだ 人の 遺體に 觸れ, 罪の 身をきよめない 者はだれでも, 主の 幕屋を 汚す. その 者は イスラエル から 斷ち 切られる. その 者は, 汚れをきよめる 水が 振りかけられていないので, 汚れており, その 汚れがなお, その 者にあるからである. 16. 身のきよい 人が, それを 汚れた 者に 三日目と 七日目に 振りかければ, その 者は 七日目に, 罪をきよめられる. その 者は, 衣服を 洗い, 水を 浴びる. その 者は 夕方にはきよくなる.
17. 汚れた 者が, 罪の 身をきよめなければ, その 者は 集會の 中から 斷ち 切られる. その 者は 主の
聖所を 汚したからである. 汚れをきよめる 水がその 者に 振りかけられなかったので, その 者は 汚れている.
罪とは、クリスチャンにとって大きな問題です。クリスチャンになる前には気にならなかったことや問題にならなかったことが気になりだします。まるで、クリスチャンにならなかった良かったのに。
とさえ思えるかもしれません。しかし、罪を罪と感じれないことがどれほど恐ろしいことか?腐っていく自分の霊的な死の状態を感じていないことがどれほど危険なことか分かりません。
今日のQT箇所は、罪についての徹底的な聖めと断絶について私に語ってくれます。
① 罪について、罪に関することに触れても、考えてもいけない(11-12節)
② 罪に触れたら、徹底した聖めの期間と聖めの作業が必要で、時間も非常に回復に時間がかかる。これは、罪に対する聖めがこれほどまでに難しく、回復のプロセスが大変なことを見せ、私たちが罪を犯すことへの警告と、聖めへの招待を見せます。また、決して罪を犯すことを軽く見てはいけないこと。罪から離れることを示します。
③ 罪に触れた人、罪を犯した人の周りへの影響がどれほど大きいのか示します。
決して自分がつみに触れたことを周りに影響がないと軽んじてはいけないのです
④ 清い人のみが、きよめの儀式をおこえなえる。それは、私の主イエス・キリストのみだ。
逆に言うと、そこまでに罪の穢れの大きさが神様の子供を十字架にかけないといけなくくらいであった。
今日のQTをしながら、旧約聖書の律法は人を縛るためでなく、キリストに行くしかないことを徹底的に示してくれることと、その回復のメッセージとクリスチャンはどのように生きるべきか!語ってくれていると思いました。最後に、20節『罪を清めないなら』その民から断ち切られるとあります。
罪の深刻性を意識しないで、馴れ合いになる私たちに神様の警告です。祝福から断ち切らられる。
また、そこに回復せよ!と言われます。罪の影響を恐れ、断ち切る歩みをします。

クリスチャンリーダーシップの特権と責任(民数記20:1-13)

1. ところが 會衆のためには 水がなかったので, 彼らは 集まって モ ― セ と アロン とに 逆らった. 2. 民は モ ― セ と 爭って 言った. 「ああ, 私たちの 兄弟たちが 主の 前で 死んだとき, 私たちも 死んでいたのなら. 3. なぜ, あなたがたは 主の 集會をこの 荒野に 引き 入れて, 私たちと, 私たちの 家畜をここで 死なせようとするのか.
4. なぜ, あなたがたは 私たちを エジプト から 上らせて, この 惡い 所に 引き 入れたのか. ここは 穀物も, いちじくも, ぶどうも, ざくろも 育つような 所ではない. そのうえ, 飮み 水さえない. 」
5. モ ― セ と アロン は 集會の 前から 去り, 會見の 天幕の 入口に 行ってひれ 伏した. すると 主の 榮光が 彼らに 現われた.
そして モ ― セ と アロン は 岩の 前に 集會を 召集して, 彼らに 言った.「逆らう 者たちよ. さあ, 聞け. この 岩から 私たちがあなたがたのために 水を 出さなければならないのか. 」
11. モ ― セは手を上げ,彼の 杖で 岩を 二度打った. すると, たくさんの 水がわき 出たので, 會衆もその家畜も飮んだ. 12. しかし,主はモ ― セ と アロン に 言われた. 「あなたがたはわたしを 信ぜず, わたしを イスラエル の 人¿の 前に 聖なる 者としなかった. それゆえ, あなたがたは, この 集會を, わたしが 彼らに 與えた 地に 導き 入れることはできない. 」
イスラエルの民たちは、再びつぶやきました。今度は、水が無かったからです。今度も神様のなさってくださるみわざへに期待も無かったのです。また、過去になされた神様のみわざも思い出しませんでした。つぶやきは、思わない罪の大きさの影響をもたらし、かみさまのみわざをとめてしまいます。
そういう中で、私たちクリスチャンはどのように行動すべきでしょうか。
1:モーセとアロンは会衆の前から去りました(6節)。そして、共に議論することをしませんでした。
2:主の会見の前に出て行きました。
3;神様の前に出て、神様からのメッセージをもらいました。
4:神様のメッセージを持って人々に仕え、導こうとしました。
多くのクリスチャンが、1の段階で議論したり、批判や批判することやつぶやくことで終わっています。しかし、まことのクリスチャンリーダーはそうしません。神様と共にいることから聖い影響力を難しい状況の中で発揮します。そういう人は、主の栄光を表します。
モーセとアロンはそうでした。しかし、彼らも大きな失敗を犯します。
それは、民たちに向かって『逆らおう者たちよ』と自分の怒りをぶちまけ、主なる神が命じられた「岩に命ぜよ」と言われた代わりに自分の怒りで「岩を二度打った」のです。モーセやアロンは約束の地に入れないと言われました。ちょっと、厳しすぎるのでないか?と若いころは良く思いました。しかし、神様の言われた理由は「神様のきよさ」をイスラエルの民の前にしなかった、神を信じなかったと言われました。神様はご自分の聖さを徹底される方です。また、神様の信じるクリスチャンリーダーは人々を導く特権とその半面に大きな責任があります。リーダーが神様の御心でなく、自分の感情で人々を導く、伝えたときに、私の心が現れました。神様の心を伝えるリーダーとして神様にセルフコントロールをゆだねます。また、その責任におそれおののいて歩みます

信仰者は回り道をしてもビジョンを進み続ける

21. こうして,エドムはイスラエルにその領土を通らせようとしなかったので, イスラエル は 彼の 所から 方向を變えて 去った.
22. こうしてイスラエル 人の 全會衆は, カデシュ から 旅立って ホル 山に 着いた. 23. 主は,エドムの國の領土にある ホル 山で, モ ― セ と アロン に 告げて 仰せられた.
24. 「アロンは民に加えられる.しかし 彼は, わたしが イスラエル 人に 與えた 地にはいることはできない. それは メリバ の 水のことで, あなたがたがわたしの 命令に 逆らったからである.
25. あなたは アロンと,その子 エルアザル を 連れて ホル 山に 登れ.
26. アロンにその衣服を 脫がせ, これをその子 エルアザル に 着せよ. アロンは
先祖の 民に 加えられ, そこで 死ぬ. 」
今日のQT箇所は、エドムの人々に町の通過を拒まれ、それだけでなく強大な軍勢を率いてこられ、危うく危険な状態になって、逃げると言う箇所。そして、アロンの死という箇所でした。2つとも何の肯定的な話もなく、厳しい状況をイスラエルの民は通ります。正直に言ってダブルショックだったでしょう。自分たちの同属であったとも言えるエソウの子孫からは拒否され、攻撃を受けそうなり、そしてイスラエルの民の指導者であり。妻子であったアロンの死が来ます。しかし、何も良いことが見えないこの状況で確かに神様のビジョン(視力)を持つ人は、たとえ回り道をしても神様のビジョンと約束は必ずなること信じ、進むます。ここでへこんで倒れこむことや、座り込むことも可能だったでしょう。しかし、神様の約束はビジョンは決して変わることなく、人が変わっても次の世代に引き継がれていきます。回り道しても、進むことが大事です。私にとって、非常に大きな励ましでした。回り道であっても、神様のビジョンを見て今日も進むます。

火曜日, 9月 02, 2008

過去の呪縛を打ち破れ

全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜泣き明かした(民数記14:1) もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導きいれ、それを私たちに下さるだろう。あの地には乳と蜜の流れている(民数記14:8)
昔、聖書巡礼に韓国の神学大学院の卒業旅行で行ったことが思い出されます。トルコ、シリア、ヨルダンをバス旅行した後にイスラエルに入りました。それはモーセが最後にイスラエルに入れずに山からイスラエルを見た場所から入って行きました。200万ウォンほどの旅行費用(日本円だと20万円くらい)の安いバス旅行でしたが、イスラエルの近くの国と比べて周りの国より、はるかにイスラエルが豊かで、自然もあり素敵な国であったのを覚えています。10人の偵察隊の報告はイスラエル民族全体を、約束の地であるカナンは「乳と蜜の流れる国である」ことを見ながらも、そこは強い人々で決して征服できないという思いに閉じ込め、昔のエジプトで死んだほうがましだという涙を流させました。何のための涙だったのでしょうか。悔し涙でもなく、正しい涙でもなく、何もしないうちから
私はできない、神様は約束をくださったことを全く信じない、荒野を導いた神様の奇跡を、力を忘れた、信仰を忘れた、罪の国であるエジプトの生活へと思い出させたのです。何の意味もない涙です。
しかし、私たちはこんな涙を現実生活で流したり、昔の罪の生活が良かったと思わせていないでしょうか。また、自分はできない、罪ある生活から離れられない、と自己弁護していないでしょうか。
神様にあるビジョンは、常に未来志向型です。それは、過去に下さった「私はあなたと共にいる」という現在進行形の約束を未来の祝福へと確信させる、信仰を持たせます。
それは、現在の「信仰をもっての従順」へと決心させるはずです。罪ある生活をやめて、出エジプトして神様の力で歩んでいくはずです。それこそが、BLESSING OF BORN AGAINなのです。カレブ達は、信仰をもって従うなら神様はのあの地にれていただけると宣言し、人々の心を神様に向けようとしました。しかし、その反応は彼らを殺そうとする、罪の自己防衛反応、罪の逆恨み体質でした。しかし、それを主の栄光が現れカレブ、ヨシュアを守ってくれます。
信じるなら、命をかけて信じよ、そうすれば神様が守る、というメッセージです。
神様がいるなら、彼らを恐れてはいけない(9節)ただ、主にそむくことを恐れるべきなのです。
私の過去の体質、過去の失敗は今日への恐れをもたらします。あなたはできない、と。
過去のエジプトでの罪ある生活を、弱い自分を断ち切らないと、約束の地であるカナンに入れません。自分はできないでなく、神様はできるのです。それを断ち切るための荒野の生活が始まりました。私にとって、今日のQT適用は今日の留学生伝道のための「過去にできなかったこと、そしてわたしではありませんが、今回共に伝道する留学生チームが抱えている前回にこけた伝道集会のために、これからできない、別の方向にこうでなく、逃避するのでなく、神様と共にチャレンジしよう」ということでした。過去の古い自分に、そこから抜け出すことをためらっている自分に、そこから抜けれないさ、自分は又同じ罪を犯すのさ、あなたはだめだ、という呪縛を断ち切る働きを神様はして下さることを信じます。この山地を私に下さい。