坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

金曜日, 9月 26, 2008

大なり小なり悪は悪、罪は罪である。

「しかし、バラムはバラクの家臣たちに答えて言った。たといバラクが私に銀や金の満ちた彼の家をくれても、私は私の神、主の言葉に背いて、事の大小にかかわらず、何もすることが出来ません」
民数記22:15-30(18節)
「主の使いはさらに進んで、右にも左にもよけることのない狭い所に立った」(26節)
バラクの誘いに、バラムはこう言います「事の大小にかかわらず、主の言葉に背けない」と。私たちは、ことの大小で主の御心従う、また主の御心に従わなくても、とライン付けをしていることがないでしょうか。この程度なら神様は見逃して下さる、と考えます。しかし、主は決して侮られる方ではありません。事の大小を自分で決めること自体が無理があります。100%の従順の敵は50%のふ従順です。神様が事の大小を決めるわけでもないのに、どうして自分で決めて良いわけがあるでしょうか。また、事の大小を決めるなら、2重人格者であります。神様の願われるのは実力や結果よりも神様に従う心です。バラムは結局、バラクの使いと一緒に出かけてしまいます。神様は天使を送り、その道を閉ざされます。神様が止めてくださるのは祝福であり、愛です。もしも、滅びの道や神様への不従順の道を閉ざされるなら、難しい状態になります。神様は時に、右も左もいけないようにして神様の道を示されます。私はこう祈りました「どうか、主よ私の道を止められるときには、感謝できるように。主の使いがそこにたっていられるの見れますように」。神様の道へと止めてくださり、方向を変えさせてくださる父なる神の愛に賛美と感謝をささげます。