坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

火曜日, 9月 02, 2008

過去の呪縛を打ち破れ

全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜泣き明かした(民数記14:1) もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導きいれ、それを私たちに下さるだろう。あの地には乳と蜜の流れている(民数記14:8)
昔、聖書巡礼に韓国の神学大学院の卒業旅行で行ったことが思い出されます。トルコ、シリア、ヨルダンをバス旅行した後にイスラエルに入りました。それはモーセが最後にイスラエルに入れずに山からイスラエルを見た場所から入って行きました。200万ウォンほどの旅行費用(日本円だと20万円くらい)の安いバス旅行でしたが、イスラエルの近くの国と比べて周りの国より、はるかにイスラエルが豊かで、自然もあり素敵な国であったのを覚えています。10人の偵察隊の報告はイスラエル民族全体を、約束の地であるカナンは「乳と蜜の流れる国である」ことを見ながらも、そこは強い人々で決して征服できないという思いに閉じ込め、昔のエジプトで死んだほうがましだという涙を流させました。何のための涙だったのでしょうか。悔し涙でもなく、正しい涙でもなく、何もしないうちから
私はできない、神様は約束をくださったことを全く信じない、荒野を導いた神様の奇跡を、力を忘れた、信仰を忘れた、罪の国であるエジプトの生活へと思い出させたのです。何の意味もない涙です。
しかし、私たちはこんな涙を現実生活で流したり、昔の罪の生活が良かったと思わせていないでしょうか。また、自分はできない、罪ある生活から離れられない、と自己弁護していないでしょうか。
神様にあるビジョンは、常に未来志向型です。それは、過去に下さった「私はあなたと共にいる」という現在進行形の約束を未来の祝福へと確信させる、信仰を持たせます。
それは、現在の「信仰をもっての従順」へと決心させるはずです。罪ある生活をやめて、出エジプトして神様の力で歩んでいくはずです。それこそが、BLESSING OF BORN AGAINなのです。カレブ達は、信仰をもって従うなら神様はのあの地にれていただけると宣言し、人々の心を神様に向けようとしました。しかし、その反応は彼らを殺そうとする、罪の自己防衛反応、罪の逆恨み体質でした。しかし、それを主の栄光が現れカレブ、ヨシュアを守ってくれます。
信じるなら、命をかけて信じよ、そうすれば神様が守る、というメッセージです。
神様がいるなら、彼らを恐れてはいけない(9節)ただ、主にそむくことを恐れるべきなのです。
私の過去の体質、過去の失敗は今日への恐れをもたらします。あなたはできない、と。
過去のエジプトでの罪ある生活を、弱い自分を断ち切らないと、約束の地であるカナンに入れません。自分はできないでなく、神様はできるのです。それを断ち切るための荒野の生活が始まりました。私にとって、今日のQT適用は今日の留学生伝道のための「過去にできなかったこと、そしてわたしではありませんが、今回共に伝道する留学生チームが抱えている前回にこけた伝道集会のために、これからできない、別の方向にこうでなく、逃避するのでなく、神様と共にチャレンジしよう」ということでした。過去の古い自分に、そこから抜け出すことをためらっている自分に、そこから抜けれないさ、自分は又同じ罪を犯すのさ、あなたはだめだ、という呪縛を断ち切る働きを神様はして下さることを信じます。この山地を私に下さい。