坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

月曜日, 6月 04, 2007

もしあなたがたが 主を 捨てて, 外國の 神¿に 仕えるなら, あなたがたをしあわせにして 後も, 主はもう 一度あなたがたにわざわいを 下し, あなたがたを 滅ぼし 盡くす. 」
それで 民は ヨシュア に 言った. 「いいえ. 私たちは 主に 仕えます. 」
それで ヨシュア は 民に 言った. 「あなたがたは, 主を 選んで, 主に 仕えるという, 自分自身の 證人である. 」すると 彼らは,「私たちは 證人です.」と言った.(ヨシュア24:20-23)

ヨシュア記もいよいよ終りですね。アップデートするのが最近は大変遅れてしまってなかなか厳しい日々です。さて、きょうの聖書箇所は幸せの根源は神様にあると教え宣言しています。逆に今からでも、罪を犯し、神様に逆らうなら「裁き」と「滅び」がある、と神様は教えられます。神様の愛はねたむ愛であり、完全に罪を許されぬ方です。しかし、私たちの罪のために主イエス・キリストを十字架にかけてくださり、私たちは罪から自由にされました。そして、神様と共に生きる日々がスタートしたのです。しかし、その中で自分の思うとおりに生きるのが幸福だと思わせる錯覚があります。
本当の幸福は私たちを愛される神様と共に生きてこそ自由ですし、幸福なのです。
ヨシュア記の終りの部分には、ヨシュアや主がイスラエルに行われたすべてのわざを知っていた長老たちの生きている間、主に仕えたという言葉があります。胸のさされる部分です。自分も牧師として、だれだれのいる間、もしくは牧師である私のいる間は大丈夫だった、ということが無いことを心から願う者です。一人一人が神様のみわざを見た人として歩む弟子作りを目指していきます。