土曜日, 3月 31, 2007
「愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです」(雅歌8:6)
「大水もその愛を消すことができません。洪水も押し流すことができません。もし、人が愛を得ようとして、自分の財産すべてをことごとく与えても、ただのさげすみしか得られません」
(雅歌8:7)
今朝も、主イエスの愛に感謝をささげます。
愛とは?本当に今ほど混乱している時代はないと思います。そこで、神様の愛が日ごとに伝えられる雅歌の内容は、愛について混乱している私たちには決して簡単に、耳に聞こえてこないかもしれないです。何だ、この恋愛のような歌は?と思ってしまうかもしれません。
しかし、今日も神様の愛はストレートに響いてきます。
愛は死のように強い、何者も邪魔することのできない、こうすることのできないもの。
私に必要なのは、命にも死にも勝利するイエスの愛です(ローマ8章39節)。
私にとって、難しい状況や難しい人に出会うとき、どうするかを考えました。
そこで、示されたのは「愛する」ことです。
愛することで、難しい人や難しい状況に勝利をできることを覚えました。
今日、神様の愛を持って難しい人や状況に向かいます。
水曜日, 3月 28, 2007
何故、愛の告白をするのか
「女のなかで最も美しい人よ。あなたの愛する方は、どこへ行かれたのでしょう。あなたの愛する方は、どこへ向かわれたのでしょう。私たちも、あなたと一緒に捜しましょう。」
(雅歌6:1)
今日のQTも雅歌の箇所です。
朝にリビングライフを開いた瞬間に、「今日もこの告白」だ、と思いました。
何故、何度も同じ告白がされるのだろうか、と考えました。
聖書に不必要なことはないし、必要な言葉が今日もわたしに語られています。
何故、日ごとに「愛の告白」が繰り返されるのか?
忘れるからだ、と思いました。また、慣れっこになるからだと思いました。
私にとって、日ごとに神様からの愛の告白を聞く必要がある、
また、私が神様への愛の告白をする必要があることを覚えました。
日ごとへの神様の恵みは新しく、私を作り変え続けることを覚えました。
「あなたの愛する方はどこへ向かわれたでしょう」
神様への関心はどこにあるでしょうか。神様の居られるところ、神様の願われること
に、愛する者は関心を持ちます。今日の雅歌も、愛の告白に豊かで。
私の人生は、神様への愛の告白に豊かでしょうか。
私は神様に関心を強く持っているでしょうか。
私は神様の愛に馴れ合いになってないでしょうか。
新しい神様への愛で、豊かな恵みの中で生きます。
ロマンチックな神様への愛の告白を賛美します。
火曜日, 3月 27, 2007
愛の告白
「女の中で最も美しい人よ。あなたの愛する方は、ほかの愛人より何が優れているのですか。あなたがそのようにわたしたちに切に願うとは。あなたの愛する方は、ほかの愛人より何がすぐれているのですか」(雅歌5章9節)
雅歌のQTが続いています。今朝は、けっこう落ち着けない状態でQTをすることになりました。今日は、ソウル大学での伝道パーティの日でした。
このために、多くの時間と心を注いできました。昨日も休まずにソウル大学のハングル語学学校で勉強しているクリスチャンの子達と会ってきました。ソウル大学に来ている日本人の魂のために祈り、初めてキャンパスで伝道する彼ら、彼女たちと仕えてきました。
ノンクリスチャンの学生からも問い合わせの電話がかかってきたりもして、神様に感謝していました。
でも、同時にサタンも心の弱さ、クリスチャン内部からも攻撃がありました。
祈らされました。
ところが、今朝、教会の事務の人が病気で苦しんでいることを電話で聞きました。
今日は少数精鋭で奉仕するのに、鍵になるスタッフが苦しんでいました。
事務的な、実務的な準備をしました。
祈ったりを当日する霊的な準備をする時間が難しくなりました。
もちろん早天祈祷会にては祈っていましたが、その後の時間がぎりぎりになったわけです。
悔い改めさせられました。実務をして御言葉を持たず動こうとしている自分を感じました。
神様へのONLY ONEの告白を朝にしないで歩んでいることを覚えました。
願い事ばかりになっていて。
最近、あるインターネットサイトの日記で、
「なぜ、わたしを好きなの?」と旦那さんに聞いた、という日記を思い出しました。
そこでは、「あなたの黒い目」とかいろいろ話している旦那さんの愛の告白を
楽しく思い出しました。神様とわたしはどうだろうか?と思いました。
何がほかの人よりも優れているのですか?という問いかけに
神様への唯一の愛を告白をすることを祈りました。神様への愛の告白をすると幸福ですね。
すごく甘い一日ですね
無事にソウル大学での働きをできました。ノンクリスチャンが5人来てくれました。
どうか、この愛するイエスに出会ってくれることを祈ります。
FIRST LOVE
「わが愛する者よ、あなたのすべては美しく、あなたに何の汚れも無い」
(雅歌4:7)
今朝のQTの箇所は、花嫁を迎える箇所です。
そこに、鋭く感じさせられるのは「汚れの無いFIRST LOVE」でした。
わたしの神様への愛は、一遍の汚れも無いものだろうか。
まっすぐな、ただ主イエスだけを愛しているのだろうか、
霊的に暗くないだろうか。
疲れた状態に陥っていないだろうか、と思いました。
神様は、わたしに何の汚れも無いFIRST LOVEを下さった。
この感動を忘れることはできない、という迫りを感じました。
今日の主日礼拝を神様への愛をいただき、仕えて生きます。
賛美奉仕の中に「わたしの罪をとりさった主イエスの愛」を賛美します。
土曜日, 3月 24, 2007
満足する人生
「愛する方の声。御覧、あの方が来られます。山々を飛び越え、丘おかの上をはねて」
雅歌2章8節
「私の愛する方は、私に語りかけて言われます。我が愛する者、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで」
雅歌2章10節
愛する皆さん、最近のQTはいかがでしょうか。神様の愛する者よ、という声を日ごとに聞いてらっしゃいますか。雅歌を通しての祝福があふれることを祈ります。
さて、今朝の雅歌の箇所は非常に有名なところであり、韓国語でも賛美がある箇所です。
愛する人の声を聞く一日のスタートはどれほど心地よいものでしょうか。
また、逆に愛する人への告白をしての一日のスタートはどれほどすばらしいことでしょうか。
神様は、そのように私たちに語りけてくださいます。
神様は、どこにいてもその愛する人のことが気になるように、目に入るように、私のことを思ってくださいます。
今日、私に与えられた黙想は、1章で語りかけられている女性が、ブドウ畑の黒い女性であったということです。愛する人にとって、相手の人が黒いとかを見る必要が無い、ということです。ほかの誰と比較しても、白いとか黒いでなくて、不足なところがあるでなくて、
その相手を愛するゆえに見えないことなのです。
その人に満足していることなのです。
私は神様に愛され、満足されている存在なのです。自分にがっかりしたり、傷ついたときに、自分をどこか別の場所において置きたい、隠れておきたい、という気持ちを持つことがあります。しかし、そんな私に神様は「あなたは美しい、満足している」といわれるのです。
こんな福音がどこにあるのでしょうか。自分を愛せないひとや、自分にがっかりして、
逃げている時に、「わが愛する者よ、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで」と
神様は言われます。
今日一日、私自身に、周りの人にも満足して生きていきます。
木曜日, 3月 22, 2007
愛は励ます
「私はシャロンのサフラン、谷のゆり」
「わが愛する者が娘たちの間にいるのは、いばらの中のゆりの花のようだ」
(雅歌2章1,2節)
今日も、愛ご自身である主イエスのみなを賛美します.
雅歌を通して、昨日も今日も与えられている恵みは、やはり神様の愛です。
昨日は、QTの後にパワーオブュアラブを賛美しました。
神様の愛に抱きしめられるというのはすばらしいですね。
今日は、まず1節の「谷間のゆり」という言葉が心に示されました。
それは、苦しみの中にある安らぎ、平安、希望でした。
また、2節では「いばらの中のゆり」という言葉が出てきます。痛みや、苦しい中での安らぎ、いやしを感じました。
せちがらい世の中で生きる私たちにとって、傷つくことや悲しみやストレスを背負うことがどれほどあることでしょうか。また、期待しているゆえに、愛しているゆえに近くの人を傷つけてしまうことがあることが、どれほどあることでしょうか。
しかし、神様の愛はそのような中で「安らぎ」であり「癒し」なのです。
私にとって今日の働き、出会う人への気遣いがありました。その人にどのように仕えることができるのか、正しい目標を示しながらも、愛を持って慰め、励ますことを祈りました。
私に出会う人が、慰めと癒しを体験できるように、神様と共に生きることからの影響力を
求めました。自分の力でなく、神様の愛が影響を与えてくださることを
ひざまづいて祈りました。
神様の愛の「ゆり」のような存在として、人を励まして生きます。
水曜日, 3月 21, 2007
私への愛の歌
おはようございます。主イエスにいただいた唇で愛する主イエスを賛美します。
今朝から、QTは雅歌です。いやー結構チャレンジを感じています。
「エルサレムの娘たち。私はケダルの天幕のように、ソロモンの幕のように、黒いけども美しい」(雅歌1章5節)
今朝、私に与えれた恵みは「視点のチェンジ」でした。神様の愛は、私に最高の表現で、最上級の表現で迫ってきます。さて、その愛を私は額面どおりに受け取っているのか、と思います。
私自身のセルフイメージをどのように持ってるのか、思いました。
人から受けた傷、痛みを持っている者をそのまま、しかも最高の愛で受け入れてくださっている。「私は日に焼けて黒いけど、美しい」とぶどう畑の女性は告白しています。
私の現在のその姿をはっきりと見つめて、そのまま受け入れており、しかし、神様の目に私の目に、愛する者の目にどれほど美しいのか、知っているのです。
自分のありのままの姿を受け入れ、神様に最高に愛されていることを知っているのです。
日ごとに、神様の愛を、神様の愛の告白を聞き、受け止めているのです。
どれほど、幸福ですばらしい生き方でしょう。
私を低く見ることや、存在を否定されるような、私のしたことで私を評価される時代です。
しかし、神様は「黒いけど美しい」と「私の目にはしみも傷も無い」と言われるのです。
QTをしながら、私への愛の歌と聞くのに難しい自分を感じました。私たちと読みたい自分を感じました。しかし、神様の愛の告白を受け取ります。
主の最高の愛を感謝します。
おはようございます。主イエスにいただいた唇で愛する主イエスを賛美します。
今朝から、QTは雅歌です。いやー結構チャレンジを感じています。
「エルサレムの娘たち。私はケダルの天幕のように、ソロモンの幕のように、黒いけども美しい」(雅歌1章5節)
今朝、私に与えれた恵みは「視点のチェンジ」でした。神様の愛は、私に最高の表現で、最上級の表現で迫ってきます。さて、その愛を私は額面どおりに受け取っているのか、と思います。
私自身のセルフイメージをどのように持ってるのか、思いました。
人から受けた傷、痛みを持っている者をそのまま、しかも最高の愛で受け入れてくださっている。「私は日に焼けて黒いけど、美しい」とぶどう畑の女性は告白しています。
私の現在のその姿をはっきりと見つめて、そのまま受け入れており、しかし、神様の目に私の目に、愛する者の目にどれほど美しいのか、知っているのです。
自分のありのままの姿を受け入れ、神様に最高に愛されていることを知っているのです。
日ごとに、神様の愛を、神様の愛の告白を聞き、受け止めているのです。
どれほど、幸福ですばらしい生き方でしょう。
私を低く見ることや、存在を否定されるような、私のしたことで私を評価される時代です。
しかし、神様は「黒いけど美しい」と「私の目にはしみも傷も無い」と言われるのです。
QTをしながら、私への愛の歌と聞くのに難しい自分を感じました。私たちと読みたい自分を感じました。しかし、神様の愛の告白を受け取ります。
主の最高の愛を感謝します。
火曜日, 3月 20, 2007
復活の朝の「おはよう」
「こう言った。閣下。あの、人をだます男をまだ生きていたとき、「自分が三日の後によみがえる」と言っていたのを思い出しました。」(マタイの福音書27:63)
「すると、イエスが彼女たちに出会って「おはよう」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ」(マタイの福音書28:9)
イエスキリストの受難、十字架の死の後に祭司長たち、パリサイ人たちはピラトのところに集まって
「イエスの預言」を否定するために集まります。そこにあるのは、イエス・キリストを十字架で殺してなおかつ満足できない、安心できない、不安な人の様子です。
イエスをねたみから殺しておいて、それで、さぞかし満足であろうという朝に彼らのした行動は、
未だに安心できない、満足できない人の罪ある姿勢でした。
人の前にも、神様の前にも確信がある人生を生きていない姿です。
今朝の黙想は、罪ある人の人生は(人を許さないで生きる人の)、満足が無いということです。
イエスは、神様はその十字架で打たれた傷跡を見て満足されるのです。
イエスは復活された朝に、出会ったマグダラのマリや、ほかのマリヤに天使は言われました。
「恐れてはいけません」でした。そしてイエスの言われた言葉は「おはよう」でした。
私の人生は、日ごとに罪の許しをイエスの十字架にいただいて満足しているでしょうか。
感謝しているでしょうか。平安な日を生きているでしょうか。
今日を与え下さったイエスに満足して、平安な一日を生きます。
金曜日, 3月 16, 2007
自分のエネルギーはどこから
「ピラトは彼らがねたみからイエスを引き渡したことに気づいていたのである」
(マタイの福音書27章18節)
「~では、キリストといわれるイエスを~」
(マタイの福音書27章22節)
今朝のQTで与えられた恵みは、
主イエスを裁判する場所での祭司長、長老たちとピラトの裁判する、人を判断することの原因は、
そのエネルギーはなんだったのか、ということを黙想しました。
祭司長たち、長老は
①イエスへのねたみが、イエスを裁く(殺そうとする)原因でした。
②それは、祭司長と長老たちの宗教者としての外見だけの生き方をつかれたことへの
怒り、それは罪への自己防衛、自己主張でした。それは、自分の罪を守るために、
人を殺してもかまわない心でした。
↓
果たして、私は「人へのねたみ」また「罪の自己防衛(簡単に言うと逆恨み)」から、
人を傷つけたり、その存在を否定したり、心の中でその人を殺そうとしていないか、
その人の働きを止めていないか、と黙想されました。
③主イエスを動かした原因は、神様にある愛でした。それは、自分を主張せずに
人を許し、人を自由にし、人を生かすことになりました。
④「ねたみ」は、キリストを拒む人生を送ることになりました。「キリストと言われるメシア」を受け入れない人生です。しかし、そんな人たち、私のためにキリストは自己主張もされず、神様にその人生をゆだね、従順に生き、十字架にかかってくださったのです。
個人適用:今日、私の中にある「ねたみ」を告白して生きます。キリストによって変えられた人生を送ります。今日出会う留学生に「私の罪の責任を負ってくださったイエス」を伝えていきます。
木曜日, 3月 15, 2007
命のない、感動のない宗教家
さて、夜が明けると、祭司長、民の長老たち全員は、イエスを死刑にするために協議した
(マタイの福音書27章1節)
祭司長たちは銀貨を取って、「これを神殿の金庫に入れるのはよくない。血の代価だから」
と言った(マタイの福音書27章6節)
主イエスの苦難、裁きが続きます。しかし、これはすでに祭司長たち、民の長老たち全員が
イエスを裁くために、人為的に用意したわなであり、すでに偽の証人たちまで用意していたのです。
そして、イスカリオテのユダがイエスを売ったことを後悔して、銀貨30枚を返し、首をつった時の
祭司長たちの反応はなんだろうか、と思わされました。
彼らは、立派な宗教家であり、旧約聖書の律法を守る人たちであり,宗教指導者でもありました。
しかし、彼らの中には命がありませんでした。感動がありませんでした。
①イエスを殺すことに何のためらいもなく、
②自分の中のねたみや、罪に恥ずかしさもなく、もちろん悔い改めもなく、
③しかし、律法には守ることを厳守し(血の代価だから)ていました。
それは、神様との関係が壊れた姿でした。
それは、命のない、感動のない人生でした。
逆に、主イエスは最後まで神様との関係をもたれていた方でした。
その方は、ペテロが三度イエスを知らないと言ったペテロのためにすでに祈られた方でした。
私は果たしてどうだろうか?と思いました。
ペテロは、三度イエスを知らないということで、自分の力や経験や、未来への自分の計画を捨て、
徹底的にイエスだけを信じ、生きることを教えられることになりました。
私にとって、主イエスだけなのでしょうか!!!
ただ、主イエスだけに徹底的に信じ、生きる人になることを祈ります。
神様との命の関係、感動のある人になることを決心します。
土曜日, 3月 10, 2007
永遠の価値を持ったもの
永遠の価値を持ったもの
「ひとりの女がたいへん高価な香油のはいった石膏のつぼを持ってみもとに来て、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ」(マタイの福音書26:7)
「こう言った。彼をあなたがたに売るとしたら、いったいいくらくれます。すると、彼らは銀貨30枚を彼らに支払った」(マタイの福音書26:15)
今朝のQTは、イエスの十字架の死に備えて、自分の貴重な財産をささげて香油をイエスに注いだ女性と、イスカリオテのユダの裏切りの2つの話がありました。
今朝に私に与えられた恵みは、二つの対照的な「財産の使い方」でした。
香油をささげた女性は、自分にとって大切な財産をささげるのふさわしいイエスにささげものをしました。それは、罪を許されたことの大きなの現れであり、イエスを愛することを表現した犠牲であり、献身でした。それは、主イエスに福音の伝えられる全世界で記念されるという光栄な証となりました。
逆に、イスカリオテのユダはイエスを裏切ることで「銀貨30枚」を得ましたが、彼の人生は生まれてこないほうが良かった、と言われる人生であったのです。
私にとって、本当に価値のあることに、自分の時間や人生をささげているのだろうか、と思いました。キリストに人生をささげていることは大前提としても、日ごとに牧師として意味のある時間の使い方、お金の使い方をしているだろうか、と思いました。
日ごとに、奉仕を仕事をこなすような生き方をしてないだろうか、と思いました。
天国に行った時に、神様に喜ばれる人生を生きているのか、目の前にあることに流されていないだろうか、と思います。
今日、出会う人々と、聖書研究をする人々と生きておられるイエスを分かち合うことを祈ります。今日の奉仕を祈って仕えていきます。香油をささげた女性のように、今日一日を教会で出会う人々にささげます。
「ひとりの女がたいへん高価な香油のはいった石膏のつぼを持ってみもとに来て、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ」(マタイの福音書26:7)
「こう言った。彼をあなたがたに売るとしたら、いったいいくらくれます。すると、彼らは銀貨30枚を彼らに支払った」(マタイの福音書26:15)
今朝のQTは、イエスの十字架の死に備えて、自分の貴重な財産をささげて香油をイエスに注いだ女性と、イスカリオテのユダの裏切りの2つの話がありました。
今朝に私に与えられた恵みは、二つの対照的な「財産の使い方」でした。
香油をささげた女性は、自分にとって大切な財産をささげるのふさわしいイエスにささげものをしました。それは、罪を許されたことの大きなの現れであり、イエスを愛することを表現した犠牲であり、献身でした。それは、主イエスに福音の伝えられる全世界で記念されるという光栄な証となりました。
逆に、イスカリオテのユダはイエスを裏切ることで「銀貨30枚」を得ましたが、彼の人生は生まれてこないほうが良かった、と言われる人生であったのです。
私にとって、本当に価値のあることに、自分の時間や人生をささげているのだろうか、と思いました。キリストに人生をささげていることは大前提としても、日ごとに牧師として意味のある時間の使い方、お金の使い方をしているだろうか、と思いました。
日ごとに、奉仕を仕事をこなすような生き方をしてないだろうか、と思いました。
天国に行った時に、神様に喜ばれる人生を生きているのか、目の前にあることに流されていないだろうか、と思います。
今日、出会う人々と、聖書研究をする人々と生きておられるイエスを分かち合うことを祈ります。今日の奉仕を祈って仕えていきます。香油をささげた女性のように、今日一日を教会で出会う人々にささげます。
金曜日, 3月 09, 2007
忠実なしもべとは
「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたはわずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう」(マタイの福音書25章21,23節)
こんにちは。私たちを忠実なしもべと呼んでくださる主イエスを賛美します。
ずいぶん久しぶりのQTプログです。言い訳すると、忙しかったり、自分のミニストリーが
机の上に座ってのミニストリーでなかったので、QTをしながらも、ここまでプログの書き込みをできなかったのですが、最近、QTセミナーをサラン教会で受け、自分のミニストリーでもQTをすることが多くなり、やはりQTの恵みの分かち合いの必要を感じて、再開することにしました。
よろしくお願いします。
今朝は、神様に預けられたタラントをどのように用いるのか、という聖書箇所でした。
ここ最近の終末の時にイエスが再臨されて、この預けたタラントを精算するという箇所は
負担の感じる箇所でした。自分は、神様に預けられたタラントを用いてよい働きをしているのか、
ということは、自己コンプレックスを感じさせるような思いでした。
しかし、このタラントはわずかな額ではなく、非常に大きな財産です。
わずかな物に忠実だった、といわれる額でありません。
逆に、タラントを恐れて土に埋めていた役に立たぬしもべはどうだったでしょうか。
「~集めることを知っていたというのか」(26節)と言われました。
ここで思ったのは、何よりも役に立つしもべと、そうでないしもべの差は
神様の心を知っている人か、神様の愛を知っている人か、神様と親しい関係を持っているのか、
ということだと思いました。
主イエスが私に巨大な期待をしてくださっている。さまよう人生を送っていた私に確かな人生の目標を
与えてくださった方に感謝と喜びをささげます。
主イエスの愛と人生の目標を、今日私の会う人(留学生たち)に伝えます。
こんにちは。私たちを忠実なしもべと呼んでくださる主イエスを賛美します。
ずいぶん久しぶりのQTプログです。言い訳すると、忙しかったり、自分のミニストリーが
机の上に座ってのミニストリーでなかったので、QTをしながらも、ここまでプログの書き込みをできなかったのですが、最近、QTセミナーをサラン教会で受け、自分のミニストリーでもQTをすることが多くなり、やはりQTの恵みの分かち合いの必要を感じて、再開することにしました。
よろしくお願いします。
今朝は、神様に預けられたタラントをどのように用いるのか、という聖書箇所でした。
ここ最近の終末の時にイエスが再臨されて、この預けたタラントを精算するという箇所は
負担の感じる箇所でした。自分は、神様に預けられたタラントを用いてよい働きをしているのか、
ということは、自己コンプレックスを感じさせるような思いでした。
しかし、このタラントはわずかな額ではなく、非常に大きな財産です。
わずかな物に忠実だった、といわれる額でありません。
逆に、タラントを恐れて土に埋めていた役に立たぬしもべはどうだったでしょうか。
「~集めることを知っていたというのか」(26節)と言われました。
ここで思ったのは、何よりも役に立つしもべと、そうでないしもべの差は
神様の心を知っている人か、神様の愛を知っている人か、神様と親しい関係を持っているのか、
ということだと思いました。
主イエスが私に巨大な期待をしてくださっている。さまよう人生を送っていた私に確かな人生の目標を
与えてくださった方に感謝と喜びをささげます。
主イエスの愛と人生の目標を、今日私の会う人(留学生たち)に伝えます。