命のない、感動のない宗教家
さて、夜が明けると、祭司長、民の長老たち全員は、イエスを死刑にするために協議した
(マタイの福音書27章1節)
祭司長たちは銀貨を取って、「これを神殿の金庫に入れるのはよくない。血の代価だから」
と言った(マタイの福音書27章6節)
主イエスの苦難、裁きが続きます。しかし、これはすでに祭司長たち、民の長老たち全員が
イエスを裁くために、人為的に用意したわなであり、すでに偽の証人たちまで用意していたのです。
そして、イスカリオテのユダがイエスを売ったことを後悔して、銀貨30枚を返し、首をつった時の
祭司長たちの反応はなんだろうか、と思わされました。
彼らは、立派な宗教家であり、旧約聖書の律法を守る人たちであり,宗教指導者でもありました。
しかし、彼らの中には命がありませんでした。感動がありませんでした。
①イエスを殺すことに何のためらいもなく、
②自分の中のねたみや、罪に恥ずかしさもなく、もちろん悔い改めもなく、
③しかし、律法には守ることを厳守し(血の代価だから)ていました。
それは、神様との関係が壊れた姿でした。
それは、命のない、感動のない人生でした。
逆に、主イエスは最後まで神様との関係をもたれていた方でした。
その方は、ペテロが三度イエスを知らないと言ったペテロのためにすでに祈られた方でした。
私は果たしてどうだろうか?と思いました。
ペテロは、三度イエスを知らないということで、自分の力や経験や、未来への自分の計画を捨て、
徹底的にイエスだけを信じ、生きることを教えられることになりました。
私にとって、主イエスだけなのでしょうか!!!
ただ、主イエスだけに徹底的に信じ、生きる人になることを祈ります。
神様との命の関係、感動のある人になることを決心します。
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