坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

月曜日, 6月 05, 2006

新しい出発に際し、待つことの大切さ


「すると、長老たちや民はみな、彼に言った、聞かないで下さい。承諾しないで下さい」(列王記第一20:8)

昨日、ソウルに着きました。少しだけの久しぶりの韓国です。また、韓国での第二章がスタートというところです。現在は、友人の教会で仮住まいをしています。来週の土曜日に引っ越しますが。

さて、少し過ぎたQTですが、与えられた恵みを少しお分かちします。

この日のQTは昨日の内容と違い、リビングライフのテーマのところにあるまさに「無益な口げんか」でした。あっという間に終わりに来てしまい、ええ、今日はこれでおしまい?次のページがあるのかな?と思いましたが、やはりありませんでした(ページをめくりました)。韓国に来て初日のQTがこれですか?と思いましたが、ふとここまで導かれることを思い返しました。

この韓国にあるサラン教会で学んで、奉仕したたいと思って祈りだしたのは昨日、今日のことでありません。道が開かれるなら、という思いで、韓国内で3つの奉仕したい教会を挙げて祈りだしたのは、すでに6年ほど前になります。その時は、その中からオンヌリ教会で奉仕する道が開かれました。ですから、その時は、神様の御心でないんだな、と思いました。そして、オンヌリ教会で奉仕した後に、日本の四国にある松山協同教会で日本人ながら宣教師として奉仕しました。30日の火曜日に松山空港にて愛する教会の方々の賛美と涙に送られて、ソウルに来ました(本当に松山協同教会の方々に感謝します、あの賛美と涙を忘れることはありません)。今も心に深くささっています。本当に辛い思いでした。

今回このサラン教会での奉仕が導かれるのも、少し待ちました。しかし、ここまで導かれました。その時に、車を運転している時に、聞いた説教のテープに「待つことは大切だ」ということがありました。待たずに、すぐに願いやすることが叶うと、すぐに感動や感謝がしぼんでしまう、待って神様のみわざを得なさいということでした。長く待つことは大切だ、という説教でした。くしくも、このサラン教会の元老牧師のオク・ハンフム先生のメッセージでした。

今日、この無意味なように思える口げんか、早く明日の御言葉が見たい、早く神様の特効薬が欲しい、解決策がみたい、と思える中に、ここを生きないと神様のビジョンがならない、忍耐がないといけない、その神様の栄光が来るその日まで、まつことを覚えました。何も、変化が無いような今日、何も解決策がない日も、大切な神様の御旨の中の一日です。そこを、今日をベスト尽くして生きないといけないのです。

だからこそ、この日を迎えることができたのだと思います。今日のQTは「あれはできない、断ることができなかった」とかの否定形ばかりと、何の解決も無いように思える内容も、神様の御旨の中ではすでに勝利が、みわざが始まっているのです。

神様にある信仰を持って(希望)韓国生活の第二章を歩みます。今回の韓国での奉仕の時間がどれほどあるか、わかりませんが、主イエスにある喜びの日々になるように祈り、日本へ行くその日まで期待していきます。

PS:土曜日の早天祈祷会と、その後久しぶりに神学大学院の同期(サラン教会で奉仕している牧師たち)と会って、教職者朝食会(100人の教職者がいます)がありましたが、万感の思いでした。