坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

水曜日, 5月 24, 2006

真の和解とは

「レハブアムとヤロベアムとの間には、一生の間、争いがあった」(列王記第一15:6)

おはようございます。日本を離れる日が近づきました。でも、体は韓国のソウルにあっても、祈りは日本にあります。さて、少し前後しますが、分かち合いたい恵みがありますので、書きます。それは、和解というテーマです。それは、教会で何度も言われ、聞いていることであり、してきたことであり、できずにいることでないでしょうか?

私はこのQTをした朝に「一生の間、争いがあった」という箇所から、和解をすることができなかったのか、という御言葉の黙想をしました。そのために、何が必要なのか、考えると双方の罪の悔い改めです。和解は双方の間にされることです。しかし、ここでもう一つを黙想しました。どちらか片一方のみでも、神のもとに立ち返ったならどうなるのか?ということでした。しかし、その反対の側は悔い改めません。双方の悔い改めではない場合です。

でも、考えてみると私たちの人間関係のトラブルはこういうことが多いのです。クリスチャンの場合は、少なくとも神との和解を経験しているはずです。ですから、人間関係に和解が無いときに、葛藤があるはずです(ここまで、私たちと「たち」という二人称を使っていますが、QTでは一人称のわたしで黙想しています)。

私は、どうしたらいいのだろうか?と具体的に適用の人間関係が思い浮かびました。神様はあの人は変わりませんよ、しかもあの人の立場を考えてみてくださいよ、という主張する自分がいました。しかし、イエスの和解は相手が一生変わらなくても、和解する、ゆるしの姿勢でした。ああ、そうか、わかりました。神の裁きにゆだねます。自分のするべき和解とゆるしへ生きます。という決断と悟りが与えられました。今更、という感じですが、自分にとって大切な恵みの時間であり、一日になりました。主よ、続いて神の恵みと力注がれますように。