坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

水曜日, 5月 10, 2006

人生の目的から出る行動

「あなたの父上は、私たちのくびきを重たくしました。今、あなたは、父上が私たちに負わせた過酷な労働と重いくびきとを軽くしてください。そうすれば、私たちはあなたに仕えましょう。」(列王記第一12:4)

今日の恵みの雨を感謝します(松山とか四国の近くだけかな?)。

今日は、ソロモンが亡くなり、レハブアムが王位を継ごうとするところです。今日のレハブアムの箇所には、今までの重税に苦しんだ民が、重荷を軽くして欲しいことを願う場面です。そこに、レハブアムは父ソロモンからの長老と、自分と共に育った若者に相談します。長老たちは、「彼らに親切なことばをかけてやってくださるなら、彼らはいつまでもあなたのしもべとなるでしょう」(7節)と提案します。逆に、若者たちは「私の小指は父の腰よりも太い、~おまえたちのくびきをもっと重くしよう」という提案をします。はたから見ても、若者たちの知恵の無い提案であり、人の心をつかまないであろう、という提案であることが感じられます。しかし、レハブアムのとって提案は若者たちの提案でした。

なぜでしょうか?

①それは、若者の野望と権威への執着を持った人の心をつかんだのです。
②旧世代への大幅な改革のための人間的な反抗(しかも、感情的な反抗であり、プラスの内容でない)
③神の与えた権威でなく、神の仕えるリーダーシップでなく、人間の権威と自分に仕えさせるリーダーの姿でした。

レハブアムの王位継承の場面には、ソロモンのように神に知恵を求めたり、人に仕えるために神の御心を求めることが見受けられません。ソロモンは難しい状況で王になりましたが、神の立てたリーダーであり、神の任せられた人や国に仕えるために、神の前に謙遜に歩む姿を人生の前半は持っていました。レハブアムは、神の前に祈ることもありませんでした。人に相談する前に、神に聞く姿勢がありませんでした。祈りませんでした。

自分の人生の前に神を置きなさいと教会ではよく言われます(ですよね?)。しかし、実際はどうでしょうか?私の人生の目的は何でしょうか。神に仕え、人に仕え、教会が愛に満たされていくことです。しかし、忙しさや行動することに追われ、先に神に聞くことはどうでしょうか、と思いました。また、気づかないうちに行動していることがあります。気づかないうちに、心の中の野望が自分の中心を占めようとします。また、現実生活の安楽にひたりたい誘惑に陥りやすいものです。今朝、もう一度、主の計画にある私の人生を歩みます。サラン教会への渡航準備も、神にゆだねていきます。なかなか、自分の思うような感じで進まないのですが、もっと余裕もってしたいのですが、厳しいです。

しかし、真実な主イエスにゆだねます。私の人生をもう一度、ひごとに創造していってください。