坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

火曜日, 5月 09, 2006

ソロモンとダビデの行動のギャップ

「彼の父ダビデのようには、彼はわたしの見る目にかなうことを行わず、わたしのおきてと定めを守らず、わたしの道を歩まなかったからである」(列王記第一11:33)

ダビデを守られた、導かれた主が今日も私たちを導かれることを感謝します。こんにちは。最近のQTはいかがでしょうか。ソロモンの堕落と神の約束どおりの裁きが続いています。今朝は、ヤロベアムがイスラエルの10部族を率いて反乱することになる箇所です。

この反乱が起ころうとするときに、ソロモン王がとった反応は「ヤロベアムを殺そう」とすることでした。自分の王座を守り、自分に敵対するものを殺そうとし、自分が引き上げたものが裏切るのを受け入れることができなかったのです。この世の生き方や価値観では当たり前です。

しかし、ふと、思い出されたのは父ダビデとの反応のギャップでした。息子アブシャロムに反乱された時、またサウル王に命を狙われた時、「当然主張すべき自分の権威や、自分を守る」ために、したことは何だったか、と思いました。ダビデは決して相手を殺すのでなく「逃げた」のでした。ダビデは「自分の権力や王座」に固執することなく、神の御心なら、自分は死ぬと言う態度までとりました。世の王として権力者としては、格好よくは見えなかったでしょう。また、当然主張すべきことをしないでダビデは置いたのでした。

果たして、このダビデとソロモンのギャップは一体?

自分ならどうろうか、間違いなくソロモンと同じ反応をするだろうし、自分の行動の正当性を人々に広告するだろう、と思いました。

ソロモン王は主の宮を建てるという、非常に大きな業績を残しました。それは、誰もエジプトを出てから480年の間ダビデもできなかったことでした。しかし、その業績よりも生きたそなえものであるダビデの生き方は、ソロモンの堕落の後も2つの部族を残すこと、一つのともしびを保つ(36節)、またダビデに免じて(34節)、ということを神が与えてくださいました。その子孫からメシアなるキリストがお生まれになったのです。

ソロモンは、この神の懲らしめを悔い改めと謙遜のチャンスとすることができませんでした。神の訓練を得ることができませんでした。また、神からの祝福である、管理を任された王権を自分のものとしてしまう間違いを犯してしまいました。

今日は、QTをしながら「三人の王の物語」というジーン・ハワードの本を思い出しました。三人とは、サウル、ダビデ、アブシャロムのことです。その中で変わらない姿勢であったのは若いダビデ、年老いたダビデでした。年老いたサウルは自分の権力を守るために年若く人気のあるダビデを殺そうとしました。若く才能あふれるアブシャロムは、年老いたダビデから国を盗みました。それは、自分の権力を守ろうとするあまり、人を傷つけ、殺そうとします。ダビデは、若い時に、年老いた時にも訓練を受けました。それは、いわれのない苦しみの中から得た貴重な訓練でした。この本は、私に貴重なメッセージを与えてくれています。自分の中に居るサウルのような心、アブシャロムのような心、そして姿が取り除かれるために。

韓国のソウルに帰る前に、今一度なぜ列王記を神はQTとして与えられるのか、と思いました。

ああ、自分はソロモンのように生きてるな(主の宮建てるのでなく、ヤロベアムのような人を除こうとする部分だけ)、と思いました。ちょっと落ち込みました。自分にがっかりしました。同じことを繰り返しているような気がして、ブルーな気持ちになりました。

しかし、この警告のサインや気づかせてくださる神の恵みに感謝し、悔い改めます。

神の与えてくださる「一つのともしび」である主イエス・キリストにあって歩みます。なぜ、今の時期もう一度ソウルに行くのか、人間的に見ると計算に合わないかもしれないけど、神にあって偶然は無いことを信じ、神の必要な訓練の中で行きます。今、必要だから、神は私に列王記を通して語られるし、状況を通して教えられます。

必要だから、わたしを訓練させられます。神の任せられているものを、なぜ預けられているのか、その神の御心をもってソウルに行く準備をしていきます。