坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

土曜日, 5月 13, 2006

神を愛する者はアフターケアが違う

「神の人が主のことばによって与えられたしるしのとおり、祭壇は裂け、灰は祭壇からこぼれた。そこで、王はこの神の人に向かって言った。どうか、あなたの神、主にお願いをして、私のために祈ってください。そうすれば、私の手はもとに戻るでしょう。神の人が主に願ったので、王の手はもとに戻り、前と同じようになった」(列王記第一13:5~6)

今朝も、罪を犯した指導者への神の裁きが起こります。ヤロベアムが勝手に造った祭壇と勝手に立てた祭司、そして勝手に祭壇で香をたく行為は、ヤロベアムが自分の権威を持つためにした恐ろしい罪でした。そのような指導者を通して、神が語られるわけもないし、神のわざもなされるどころか、大きな罪への裁きがあります。それを黙想すると、自分は本当に神を恐れること、罪を犯すことへの痛みと恐れがないといけないな、と思います。しかも、それは指導者やリーダーがする時の共同体にもたらす影響の恐ろしさがあります。

今日の黙想の中で、示されることは「クリスチャンは、神を愛する人は物事のトラブルや何かが起こった時にアフターケアが違う」べき、はずである、ということです。

しかし、ヤロベアムはそうでありませんでした。神の人が神の裁きを宣言した時に、逆に怒り、神の人を捕らえようとします。逆恨みですよね。そこで、神が打たれ、ヤロベアム王の手はしなび、戻すことができなった時に、彼のしたことは「手の回復」だけを願いました。さらに、「神の人に食事を誘い、贈り物をして」買収しようとしたのです。なだめすかそう、ということです。ここで、考えることは私たちは、人との関係が悪くなったら、また利益に不利益が生じたら、なんとしてもその関係を良くしようとします。普通の人の行動のしかたとして、ヤロベアムはそのままよくある姿だといえます。しかし、クリスチャンはそうあるべきでしょうか。また、それだけでいいのでしょうか。ヤロベアムに必要なのは、神の前への砕かれた魂、悔い改めでした。神の前に罪を犯した、また人をも罪へと連れて行った、ことへの悔い改め、まことの回復を願うことはなかったのです。神が憎まれることをしてしまった、またそのことを指摘されたときに、怒って逆恨みをしたのです。そこで神のしるしがなされた、ということです。

そこに、罪を犯すときに、目の前にいる人だけでなく、天地の創造主なる神に罪を犯した、というのがクリスチャンにとって違うことであり、それをゆるし、回復される主イエス・キリストの十字架にすがれる、のが全く違うところです。

はたして、自分は目の前に居る人や、物事だけ見て、神への悔い改めとゆるしを日ごとに受けているだろうか、考えました。自分にどんどん甘くなる、気づいていくことに鈍くなっている自分を考えました。自分は人への怒りや大切なアドバイスへの逆恨みがないか、と考えると自分が日ごとに悔い改めて罪のゆるしをえていないと、自分の中にある傷が疼き、コンプレックスが騒ぎ立てていることに心当たりが大でした。ああ、罪の悔い改めと回復がないと「自分は傷つけマン」になってしまう。自分は疲れていることを感じました。神の前に安らいでない。これでは、平安が実は無いんですよね。

今朝、もう一度神のみ座の前に「主イエス・キリスト」の御名によって罪のゆるしと回復と自由をいただいていきます。主よ、私をあわれんでください。恵みを注いでください。