本当のワールドスタンダード
「あなたが、あなたの父ダビデが歩んだように、全き心と正しさをもって、わたしの前に歩み、わたしがあなたに実行し、わたしのおきてと定めを守るなら、」(列王記第一9:4)
ゴールデンウィークは皆さんいかがお過ごしでしたか。私はQTの時間がとても落ち着いてとれた3日間でした。素敵な休日でした(家族の行事が無いのも大きいですよね)。
さて、最近わたしはちょっと緊張しています。VISAの準備(まだ準備中です)や韓国への引越し、それに伴う家探しなど。そして新しい教会での奉仕がどのようになるのか、これが一番でしょうか。わからないことも多いですし。
以前に、韓国ソウルのオンヌリ教会にいましたが、今度行くサラン教会は同じ韓国でもまた牧会哲学が違う教会です。オンヌリ教会は宣教と活動する教会です。サラン教会は弟子訓練をして、人を育てる教会です。そして韓国の全教会のために仕える働きもあります。また、現在いる愛媛県松山の教会とは大きく違うと思います。だから、どちらが悪いとかではありません。すごく感じるのは、人によって、国によって、場所によって、教会によっても、牧会者によって、人や事件など量るスタンダード(標準)が大きく違うと言うことです。
その意味で久しぶりの日本での教会奉仕は大きな勉強になりました。私は日本の教会で受洗し、奉仕したものでありつつ、韓国教会での奉仕も7年経験しました。そこには、思った以上に「このことはこう考えるべきだ」とか、「このように生きるべきだ」という奉仕の姿勢や教会のあり方にギャップがあることがありました。クリスチャンとしてどのように生きるべきなのか、教職者としての歩みはどうか、考えさせられました。自分はのんびりした性格だと思っていたのですが、長く韓国のオンヌリ教会にいたせいか(責任転嫁でないですよ)、変化と成熟の祝福を受けたところがあり、日本においては少し、スピードのある方と思われたようです。それで、困った方や傷ついた方申し訳ありません。
さて、もう一度韓国に行くとなると、これで大丈夫か?という思いが逆にしてきました。そこで、私の中で期待と共に緊張が入ってきました。それぞれのスタンダード(基準、標準)が違います。それで自分が果たしてできるんだろうか、という思いがあります。今朝の恵みは、「どこにいても、誰といても、いつでも、基準は神にある」ということです。ダビデは列王記における王たちを量る基準でした。それは、神の前を全き心で歩み、神の命令を守る人生でした。神が立てた人に従うことは非常に大切なことです。その人を通してされる方向性やおきてを守ることは、目に見えない神に従うことを意味します。しかし、それだけで目に見えぬところで裁かれる神の前を歩まないならば、意味を失ってしまいます。目に見えぬ神を恐れず、人を恐れるだけならば、まことのクリスチャンとして、奉仕者として変質していくことになります。覚えたいと思います。神の前を歩むことを。
キリストにあるワールドスタンダードを持って歩むことを韓国にても、残された日本にても歩んでいきます。
ゴールデンウィークは皆さんいかがお過ごしでしたか。私はQTの時間がとても落ち着いてとれた3日間でした。素敵な休日でした(家族の行事が無いのも大きいですよね)。
さて、最近わたしはちょっと緊張しています。VISAの準備(まだ準備中です)や韓国への引越し、それに伴う家探しなど。そして新しい教会での奉仕がどのようになるのか、これが一番でしょうか。わからないことも多いですし。
以前に、韓国ソウルのオンヌリ教会にいましたが、今度行くサラン教会は同じ韓国でもまた牧会哲学が違う教会です。オンヌリ教会は宣教と活動する教会です。サラン教会は弟子訓練をして、人を育てる教会です。そして韓国の全教会のために仕える働きもあります。また、現在いる愛媛県松山の教会とは大きく違うと思います。だから、どちらが悪いとかではありません。すごく感じるのは、人によって、国によって、場所によって、教会によっても、牧会者によって、人や事件など量るスタンダード(標準)が大きく違うと言うことです。
その意味で久しぶりの日本での教会奉仕は大きな勉強になりました。私は日本の教会で受洗し、奉仕したものでありつつ、韓国教会での奉仕も7年経験しました。そこには、思った以上に「このことはこう考えるべきだ」とか、「このように生きるべきだ」という奉仕の姿勢や教会のあり方にギャップがあることがありました。クリスチャンとしてどのように生きるべきなのか、教職者としての歩みはどうか、考えさせられました。自分はのんびりした性格だと思っていたのですが、長く韓国のオンヌリ教会にいたせいか(責任転嫁でないですよ)、変化と成熟の祝福を受けたところがあり、日本においては少し、スピードのある方と思われたようです。それで、困った方や傷ついた方申し訳ありません。
さて、もう一度韓国に行くとなると、これで大丈夫か?という思いが逆にしてきました。そこで、私の中で期待と共に緊張が入ってきました。それぞれのスタンダード(基準、標準)が違います。それで自分が果たしてできるんだろうか、という思いがあります。今朝の恵みは、「どこにいても、誰といても、いつでも、基準は神にある」ということです。ダビデは列王記における王たちを量る基準でした。それは、神の前を全き心で歩み、神の命令を守る人生でした。神が立てた人に従うことは非常に大切なことです。その人を通してされる方向性やおきてを守ることは、目に見えない神に従うことを意味します。しかし、それだけで目に見えぬところで裁かれる神の前を歩まないならば、意味を失ってしまいます。目に見えぬ神を恐れず、人を恐れるだけならば、まことのクリスチャンとして、奉仕者として変質していくことになります。覚えたいと思います。神の前を歩むことを。
キリストにあるワールドスタンダードを持って歩むことを韓国にても、残された日本にても歩んでいきます。
0 Comments:
コメントを投稿
<< Home