坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

水曜日, 5月 24, 2006

断ち切れない罪を決断すること

「彼はまた、彼の母マアカがアシュラのために憎むべき像を造ったので、彼女を王母の位から退けた」(列王記第一15:13)

ハレルヤ、栄光の主イエスを賛美します。今週は、宣教師VISAの申請のために大阪にある韓国領事館に行ってきました。そこで、不思議なことを体験したのですが、VISAの申請をした事のある方、もしくは外国にお住まいの方で分かるかと思うのですが、VISAの申請って緊張します。もしも、受理されなかったら、その国に住めないわけです。以前に、韓国にいた時に入国管理局に教会の日本人の方と一緒に申請に行った時に、「大丈夫とわかってても緊張するので、祈りながら行きます」という会話をお互いにしたことがあります。

今回は、私がVISA申請の受付窓口に行った時に、受付をしてくれる女性がびっくりした表情をされて私を見てこられました。何かしたかな、やましいことなしな、と一瞬思ったのですが、実は以前にソウルのオンヌリ教会の日本語礼拝部にいた姉妹なのを思い出しました。思いもかけない歓迎と出会い、VISA申請の作業をその姉妹がしてくださり、どれほど心が楽だったかわかりません。神は不思議なことをされるな、と思いました。今まで、10回強、VISAの申請をしてこんなことは一度もありませんでした。

神の不思議なサインを感じました。でも、サイン自体がすごいというより、神の示す方向が大事です。

さて、QTですが。アビヤム王の後にアサ王という素晴らしい王が与えられます。彼はダビデのように主の目にかなうことを行い、宗教改革と国の社会を改革し、聖めていきました。また、主の心と一つであった、とされます。その中で、アサ王がしたとことは改革のみならず、自分の肉親である母を偶像礼拝のゆえに、またそれを南イスラエルの民に偶像崇拝をすすめたことから、位から追放するということしたのです。これって、普通できないことでないでしょうか。ある意味親不孝者と見る方もいるかもしれません。でも、そうでないわけです。

しかし、アサ王は「この憎むべき像を切り倒し、これをキデロン川で焼いた」とあります。彼にとって、主の心と一つであり、憎むべき像を倒したのです。これは、アサ王が神のみを信じ、生きることに徹底しており、国のリーダーとして、民を導く者として、歩んだことを示します。アサ王にとって「母を憎むこと」でなく、「問題そのものである偶像礼拝」を憎んだのです。私にとって本質的な「問題」であるより、誤って「その人」を思う感情が悪くなる事がどれほどあるのか、思います。人格を攻撃するのでなく、問題そのものを攻撃するべきです。しかし、アサ王の母マアカはそれだけでなく、「王の母」であるという、公人でした。人々に影響を与えるポジションにいたのです。ですから、その問題は手を付けられるべきことだったのです。

私の中に、どれほど「手をつけられずにいる問題」があることでしょう。また、どれほど「断ち切れずにいる罪」があるのか、と思うと絶望するような気持ちになります。しかも、基本的に問題や罪は人間と関係することです。しかし、主の心と一つになる事は、「手を付けれない問題」や「断ち切れずにいる罪」をそのままにするわけにいきません。そうでなくては、神の祝福の人生はないわけです。一度しかない人生を、神の恵みの中で生きるのか、それとも自分勝手な不自由な人生を送るのか、決断しないといけません。

決断しないといけないのです。帰りのバスの中で、「主の力なしには、自分では進めない領域に行きます。どうぞ、主の恵と力を与えて下さい」という祈りをしました。

韓国行きのVISAがおりました。そこに、大韓イエス教長老会からの宗教VISAであることを見たとき、その恵と責任を覚えて緊張しました。今回は、VISAが受理されるか、の緊張ではなく。私のVISAはキリストの証し人としてVISAだ、と思うとアサ王のようでなくても、神よ、こんな私のような不足な者でも、神の栄光を隠す事が無いように、と祈るしかありませんでした。

ソウルにても、日本の地にても、神の前に決断する祝福を受けることを信じ歩みます。

真の和解とは

「レハブアムとヤロベアムとの間には、一生の間、争いがあった」(列王記第一15:6)

おはようございます。日本を離れる日が近づきました。でも、体は韓国のソウルにあっても、祈りは日本にあります。さて、少し前後しますが、分かち合いたい恵みがありますので、書きます。それは、和解というテーマです。それは、教会で何度も言われ、聞いていることであり、してきたことであり、できずにいることでないでしょうか?

私はこのQTをした朝に「一生の間、争いがあった」という箇所から、和解をすることができなかったのか、という御言葉の黙想をしました。そのために、何が必要なのか、考えると双方の罪の悔い改めです。和解は双方の間にされることです。しかし、ここでもう一つを黙想しました。どちらか片一方のみでも、神のもとに立ち返ったならどうなるのか?ということでした。しかし、その反対の側は悔い改めません。双方の悔い改めではない場合です。

でも、考えてみると私たちの人間関係のトラブルはこういうことが多いのです。クリスチャンの場合は、少なくとも神との和解を経験しているはずです。ですから、人間関係に和解が無いときに、葛藤があるはずです(ここまで、私たちと「たち」という二人称を使っていますが、QTでは一人称のわたしで黙想しています)。

私は、どうしたらいいのだろうか?と具体的に適用の人間関係が思い浮かびました。神様はあの人は変わりませんよ、しかもあの人の立場を考えてみてくださいよ、という主張する自分がいました。しかし、イエスの和解は相手が一生変わらなくても、和解する、ゆるしの姿勢でした。ああ、そうか、わかりました。神の裁きにゆだねます。自分のするべき和解とゆるしへ生きます。という決断と悟りが与えられました。今更、という感じですが、自分にとって大切な恵みの時間であり、一日になりました。主よ、続いて神の恵みと力注がれますように。

土曜日, 5月 13, 2006

神を愛する者はアフターケアが違う

「神の人が主のことばによって与えられたしるしのとおり、祭壇は裂け、灰は祭壇からこぼれた。そこで、王はこの神の人に向かって言った。どうか、あなたの神、主にお願いをして、私のために祈ってください。そうすれば、私の手はもとに戻るでしょう。神の人が主に願ったので、王の手はもとに戻り、前と同じようになった」(列王記第一13:5~6)

今朝も、罪を犯した指導者への神の裁きが起こります。ヤロベアムが勝手に造った祭壇と勝手に立てた祭司、そして勝手に祭壇で香をたく行為は、ヤロベアムが自分の権威を持つためにした恐ろしい罪でした。そのような指導者を通して、神が語られるわけもないし、神のわざもなされるどころか、大きな罪への裁きがあります。それを黙想すると、自分は本当に神を恐れること、罪を犯すことへの痛みと恐れがないといけないな、と思います。しかも、それは指導者やリーダーがする時の共同体にもたらす影響の恐ろしさがあります。

今日の黙想の中で、示されることは「クリスチャンは、神を愛する人は物事のトラブルや何かが起こった時にアフターケアが違う」べき、はずである、ということです。

しかし、ヤロベアムはそうでありませんでした。神の人が神の裁きを宣言した時に、逆に怒り、神の人を捕らえようとします。逆恨みですよね。そこで、神が打たれ、ヤロベアム王の手はしなび、戻すことができなった時に、彼のしたことは「手の回復」だけを願いました。さらに、「神の人に食事を誘い、贈り物をして」買収しようとしたのです。なだめすかそう、ということです。ここで、考えることは私たちは、人との関係が悪くなったら、また利益に不利益が生じたら、なんとしてもその関係を良くしようとします。普通の人の行動のしかたとして、ヤロベアムはそのままよくある姿だといえます。しかし、クリスチャンはそうあるべきでしょうか。また、それだけでいいのでしょうか。ヤロベアムに必要なのは、神の前への砕かれた魂、悔い改めでした。神の前に罪を犯した、また人をも罪へと連れて行った、ことへの悔い改め、まことの回復を願うことはなかったのです。神が憎まれることをしてしまった、またそのことを指摘されたときに、怒って逆恨みをしたのです。そこで神のしるしがなされた、ということです。

そこに、罪を犯すときに、目の前にいる人だけでなく、天地の創造主なる神に罪を犯した、というのがクリスチャンにとって違うことであり、それをゆるし、回復される主イエス・キリストの十字架にすがれる、のが全く違うところです。

はたして、自分は目の前に居る人や、物事だけ見て、神への悔い改めとゆるしを日ごとに受けているだろうか、考えました。自分にどんどん甘くなる、気づいていくことに鈍くなっている自分を考えました。自分は人への怒りや大切なアドバイスへの逆恨みがないか、と考えると自分が日ごとに悔い改めて罪のゆるしをえていないと、自分の中にある傷が疼き、コンプレックスが騒ぎ立てていることに心当たりが大でした。ああ、罪の悔い改めと回復がないと「自分は傷つけマン」になってしまう。自分は疲れていることを感じました。神の前に安らいでない。これでは、平安が実は無いんですよね。

今朝、もう一度神のみ座の前に「主イエス・キリスト」の御名によって罪のゆるしと回復と自由をいただいていきます。主よ、私をあわれんでください。恵みを注いでください。

神の御旨は必ずなる

列王記第一12:15「王は民の願いを聞き入れなかった。それは、主がかつてシロ人アビヤを通してネバテの子ヤロベアムに告げられた約束を実現するために、主がそうしむけらられたからである」列王記第一12:24「~そこで、彼らは主のことばに聞き従い、主のことばのとおりに帰って行った。」

ハレルヤ!義と公正の主イエスのみなを賛美します。

愛する皆さん、キリストの名にあって平安がありますように。
ここ最近のQTはいかがでしょうか。私は昨日と今日の聖書箇所において、祈祷課題を持ってQTをしていました。少し難しい問題があって、朝のQTをして「神様の御声」を聞きたい、そして行動を決めたいと思っていました。神の御声を求める者に必ず応えてくださる主イエスを賛美します。

内容は「自分しか考えない指導者」や「民が拒んだ指導者」というテーマでありました。うーん。難しい。私は、具体的な確信や行動の指針が与えられることを願い、御言葉を開きました。レハベアムは自分の権威を守るために、荒々しく答え、長老たちの助言を用いることをしませんでした。その結果、イスラエルの民から拒否され、従う者が無く、逃亡することになりました。  

強い王となるどころか、その権威を失い、国をほとんど失い、命からがら逃げることになったのです。権威を主張すればするうほど、それを失うのです。逆に、神に従い仕える人は祝福を受けるのです。仕える人は尊敬と愛を受けます。自分のために生きる人はいったい何を受けるのでしょうか。神のために、人のために生きる人は、本当に必要な神の愛を受けます。  

愚かな指導者のために国民は不幸へ招かれましたが、レハブアム自身が不幸へ自ら進んでしまったのです。指導者が神に従う時に国民も幸福だし、自分自身も幸福なのです。

レハベアムはまたそのイスラエルの王位を取り戻すために、イスラエルの家に対して、ユダの全家とベニヤミンの部族で戦おうとしました。しかし、そこで主は「語られたのです」。

「上って行ってはならない。あなたがたの兄弟であるイスラエル人と戦ってはならない。おのおの自分の家に帰れ。わたしがこうなるように仕向けたのだから」と。

それに対して、ユダとベニヤミン部族は王の命令にも関わらず、「主のことばに聞き従い、主のことばのとおりに帰って行った」のです。これは難しいことでないでしょうか。自分の国(南王国)の王の命令に背くことは、危険を意味しないでしょうか。また、そこに人間関係を壊すようなことがないでしょうか。神の人シュマヤを通して語る言葉に従ったのです。

その戦争を起こそうとすることが、神の御旨でないことを悟って、それに従ったのです。もともと、やる気のある戦争でなかったかもしれません。また、逆にヤロベアムのほうも神の御旨が成就するために、用いられた人であるにも関わらず、自分の王国を確保したいために、「金の子牛」を二つ作り、一般の民から祭司を選びました。神の御旨よりも、人の策に頼ろうとしました。神に頼る祝福よりも人間の目に見える偶像や、自分で造った祭壇(自分の手による宗教)により人を止めようとしました。それは、罪だったのです。人の目に見えることにより、人を恐れ、目に見えない神を恐れなかったのです。

今朝、私に示されたことは「神の御旨」に従うこと、「主のことばに聞き従い」(12:24)でした。ぼーと何も考えずに歩んだり、行動していると、適当に考えたり、簡単に物事を言ってしまいます。主の御心なのか、そうでないのか、判断する霊の目が曇ってしまいます。また、勇気を失い、すべき正義の道を知っていても、怖くてだまってしまいます。 

目に見えない霊的な戦いに敗北してしまいます。人間関係を壊したり、失礼をすべきでないと思います。そういう部分でも失敗の多い私ですが。しかし、なすべきことを知っていて、そこに歩まないのは罪です。う、つらい。今日、ユダの全家とベニヤミン部族は、すべきでない戦いをしないで、自分の家に帰りました。そこで、血が流されることが無かったのです。神は私たちに「すべきこと」や「してはいけない」ことを語られます。そこに耳を傾ける必要がありますし、しかもそれは日ごとに。また、それに従う信仰が必要です。勇気を持って、神の御旨に向かって進んでいくこと。教職者であるわたしは本当に、神の前に日ごとの吟味がされないといけないし(うーん、重たいですが。その神の愛を信じて)、

一度きりの人生であり、練習のできない人生を、本当に主に従う祝福を享受しながら歩みます。今日も、主イエスの十字架の勝利を与えてください。神の愛が勇気を与えてください。

神の御旨は必ずなることを信じるなら、目に見える状況にだけ縛られず、信仰の目を持って生きていけることを信じ、祈ります。

水曜日, 5月 10, 2006

人生の目的から出る行動

「あなたの父上は、私たちのくびきを重たくしました。今、あなたは、父上が私たちに負わせた過酷な労働と重いくびきとを軽くしてください。そうすれば、私たちはあなたに仕えましょう。」(列王記第一12:4)

今日の恵みの雨を感謝します(松山とか四国の近くだけかな?)。

今日は、ソロモンが亡くなり、レハブアムが王位を継ごうとするところです。今日のレハブアムの箇所には、今までの重税に苦しんだ民が、重荷を軽くして欲しいことを願う場面です。そこに、レハブアムは父ソロモンからの長老と、自分と共に育った若者に相談します。長老たちは、「彼らに親切なことばをかけてやってくださるなら、彼らはいつまでもあなたのしもべとなるでしょう」(7節)と提案します。逆に、若者たちは「私の小指は父の腰よりも太い、~おまえたちのくびきをもっと重くしよう」という提案をします。はたから見ても、若者たちの知恵の無い提案であり、人の心をつかまないであろう、という提案であることが感じられます。しかし、レハブアムのとって提案は若者たちの提案でした。

なぜでしょうか?

①それは、若者の野望と権威への執着を持った人の心をつかんだのです。
②旧世代への大幅な改革のための人間的な反抗(しかも、感情的な反抗であり、プラスの内容でない)
③神の与えた権威でなく、神の仕えるリーダーシップでなく、人間の権威と自分に仕えさせるリーダーの姿でした。

レハブアムの王位継承の場面には、ソロモンのように神に知恵を求めたり、人に仕えるために神の御心を求めることが見受けられません。ソロモンは難しい状況で王になりましたが、神の立てたリーダーであり、神の任せられた人や国に仕えるために、神の前に謙遜に歩む姿を人生の前半は持っていました。レハブアムは、神の前に祈ることもありませんでした。人に相談する前に、神に聞く姿勢がありませんでした。祈りませんでした。

自分の人生の前に神を置きなさいと教会ではよく言われます(ですよね?)。しかし、実際はどうでしょうか?私の人生の目的は何でしょうか。神に仕え、人に仕え、教会が愛に満たされていくことです。しかし、忙しさや行動することに追われ、先に神に聞くことはどうでしょうか、と思いました。また、気づかないうちに行動していることがあります。気づかないうちに、心の中の野望が自分の中心を占めようとします。また、現実生活の安楽にひたりたい誘惑に陥りやすいものです。今朝、もう一度、主の計画にある私の人生を歩みます。サラン教会への渡航準備も、神にゆだねていきます。なかなか、自分の思うような感じで進まないのですが、もっと余裕もってしたいのですが、厳しいです。

しかし、真実な主イエスにゆだねます。私の人生をもう一度、ひごとに創造していってください。

火曜日, 5月 09, 2006

ソロモンとダビデの行動のギャップ

「彼の父ダビデのようには、彼はわたしの見る目にかなうことを行わず、わたしのおきてと定めを守らず、わたしの道を歩まなかったからである」(列王記第一11:33)

ダビデを守られた、導かれた主が今日も私たちを導かれることを感謝します。こんにちは。最近のQTはいかがでしょうか。ソロモンの堕落と神の約束どおりの裁きが続いています。今朝は、ヤロベアムがイスラエルの10部族を率いて反乱することになる箇所です。

この反乱が起ころうとするときに、ソロモン王がとった反応は「ヤロベアムを殺そう」とすることでした。自分の王座を守り、自分に敵対するものを殺そうとし、自分が引き上げたものが裏切るのを受け入れることができなかったのです。この世の生き方や価値観では当たり前です。

しかし、ふと、思い出されたのは父ダビデとの反応のギャップでした。息子アブシャロムに反乱された時、またサウル王に命を狙われた時、「当然主張すべき自分の権威や、自分を守る」ために、したことは何だったか、と思いました。ダビデは決して相手を殺すのでなく「逃げた」のでした。ダビデは「自分の権力や王座」に固執することなく、神の御心なら、自分は死ぬと言う態度までとりました。世の王として権力者としては、格好よくは見えなかったでしょう。また、当然主張すべきことをしないでダビデは置いたのでした。

果たして、このダビデとソロモンのギャップは一体?

自分ならどうろうか、間違いなくソロモンと同じ反応をするだろうし、自分の行動の正当性を人々に広告するだろう、と思いました。

ソロモン王は主の宮を建てるという、非常に大きな業績を残しました。それは、誰もエジプトを出てから480年の間ダビデもできなかったことでした。しかし、その業績よりも生きたそなえものであるダビデの生き方は、ソロモンの堕落の後も2つの部族を残すこと、一つのともしびを保つ(36節)、またダビデに免じて(34節)、ということを神が与えてくださいました。その子孫からメシアなるキリストがお生まれになったのです。

ソロモンは、この神の懲らしめを悔い改めと謙遜のチャンスとすることができませんでした。神の訓練を得ることができませんでした。また、神からの祝福である、管理を任された王権を自分のものとしてしまう間違いを犯してしまいました。

今日は、QTをしながら「三人の王の物語」というジーン・ハワードの本を思い出しました。三人とは、サウル、ダビデ、アブシャロムのことです。その中で変わらない姿勢であったのは若いダビデ、年老いたダビデでした。年老いたサウルは自分の権力を守るために年若く人気のあるダビデを殺そうとしました。若く才能あふれるアブシャロムは、年老いたダビデから国を盗みました。それは、自分の権力を守ろうとするあまり、人を傷つけ、殺そうとします。ダビデは、若い時に、年老いた時にも訓練を受けました。それは、いわれのない苦しみの中から得た貴重な訓練でした。この本は、私に貴重なメッセージを与えてくれています。自分の中に居るサウルのような心、アブシャロムのような心、そして姿が取り除かれるために。

韓国のソウルに帰る前に、今一度なぜ列王記を神はQTとして与えられるのか、と思いました。

ああ、自分はソロモンのように生きてるな(主の宮建てるのでなく、ヤロベアムのような人を除こうとする部分だけ)、と思いました。ちょっと落ち込みました。自分にがっかりしました。同じことを繰り返しているような気がして、ブルーな気持ちになりました。

しかし、この警告のサインや気づかせてくださる神の恵みに感謝し、悔い改めます。

神の与えてくださる「一つのともしび」である主イエス・キリストにあって歩みます。なぜ、今の時期もう一度ソウルに行くのか、人間的に見ると計算に合わないかもしれないけど、神にあって偶然は無いことを信じ、神の必要な訓練の中で行きます。今、必要だから、神は私に列王記を通して語られるし、状況を通して教えられます。

必要だから、わたしを訓練させられます。神の任せられているものを、なぜ預けられているのか、その神の御心をもってソウルに行く準備をしていきます。

本当のワールドスタンダード

「あなたが、あなたの父ダビデが歩んだように、全き心と正しさをもって、わたしの前に歩み、わたしがあなたに実行し、わたしのおきてと定めを守るなら、」(列王記第一9:4)

ゴールデンウィークは皆さんいかがお過ごしでしたか。私はQTの時間がとても落ち着いてとれた3日間でした。素敵な休日でした(家族の行事が無いのも大きいですよね)。

さて、最近わたしはちょっと緊張しています。VISAの準備(まだ準備中です)や韓国への引越し、それに伴う家探しなど。そして新しい教会での奉仕がどのようになるのか、これが一番でしょうか。わからないことも多いですし。

以前に、韓国ソウルのオンヌリ教会にいましたが、今度行くサラン教会は同じ韓国でもまた牧会哲学が違う教会です。オンヌリ教会は宣教と活動する教会です。サラン教会は弟子訓練をして、人を育てる教会です。そして韓国の全教会のために仕える働きもあります。また、現在いる愛媛県松山の教会とは大きく違うと思います。だから、どちらが悪いとかではありません。すごく感じるのは、人によって、国によって、場所によって、教会によっても、牧会者によって、人や事件など量るスタンダード(標準)が大きく違うと言うことです。

その意味で久しぶりの日本での教会奉仕は大きな勉強になりました。私は日本の教会で受洗し、奉仕したものでありつつ、韓国教会での奉仕も7年経験しました。そこには、思った以上に「このことはこう考えるべきだ」とか、「このように生きるべきだ」という奉仕の姿勢や教会のあり方にギャップがあることがありました。クリスチャンとしてどのように生きるべきなのか、教職者としての歩みはどうか、考えさせられました。自分はのんびりした性格だと思っていたのですが、長く韓国のオンヌリ教会にいたせいか(責任転嫁でないですよ)、変化と成熟の祝福を受けたところがあり、日本においては少し、スピードのある方と思われたようです。それで、困った方や傷ついた方申し訳ありません。

さて、もう一度韓国に行くとなると、これで大丈夫か?という思いが逆にしてきました。そこで、私の中で期待と共に緊張が入ってきました。それぞれのスタンダード(基準、標準)が違います。それで自分が果たしてできるんだろうか、という思いがあります。今朝の恵みは、「どこにいても、誰といても、いつでも、基準は神にある」ということです。ダビデは列王記における王たちを量る基準でした。それは、神の前を全き心で歩み、神の命令を守る人生でした。神が立てた人に従うことは非常に大切なことです。その人を通してされる方向性やおきてを守ることは、目に見えない神に従うことを意味します。しかし、それだけで目に見えぬところで裁かれる神の前を歩まないならば、意味を失ってしまいます。目に見えぬ神を恐れず、人を恐れるだけならば、まことのクリスチャンとして、奉仕者として変質していくことになります。覚えたいと思います。神の前を歩むことを。

キリストにあるワールドスタンダードを持って歩むことを韓国にても、残された日本にても歩んでいきます。

月曜日, 5月 08, 2006

求めるべき神の祝福

「ときに、シェバの女王が、主の名に関連してソロモンの名声を伝え聞き、難問をもって彼をためそうとして、やってきた。」(列王記第一10:1)
「なんとしあわせなことでしょう。あなたにつく人たちは。なんとしあわせなことでしょう。いつもあなたの前に知恵を聞くことのできる家来たちは。」「あなたを喜ばれ、イスラエルの王座に着かせられたあなたの神、主はほむべきかな。主はイスラエルをとこしえに愛しておられるので、あなたを王とし、公正と正義を行わせられるのです」 (列王記第一10:8-9)

子供の日どのように過ごされましたか?私たちの次世代が神を恐れる世代として歩むことを祈ります。

クリスチャンは、この世にあって「地の塩、世の光」です。この世の中へ唯一の希望であるイエス・キリストを証する仕えるリーダーです。そのために、どうすればいいのでしょうか。シェバの女王が、「主の名に」関連してソロモンの名声を聞いた、とあります。ソロモンの知恵や財や繁栄が神にあることを伝え聞いたのです。クリスチャンを見るときに、世の人は実を見て判断します。そこには、大きなプレッシャーがあります。とうてい私にはできそうもないと。

しかし、この朝に私に与えられたのは「神に祈り求める祝福」でした。祝福や繁栄を求めることは、なにか高慢な感じがします。しかし、本当に必要な祝福であるクリスチャンとしての聖霊の実を結ぶことはどうでしょうか。また、クリスチャンとして世に影響を与える神の愛や力を求めることはどうでしょうか。

ともすれば、私(わたし)たちは、今必要なお金であるとか、人間関係であるとか、現実に見える部分ばかり求めえて、大切なクリスチャンとしての「キリスト」に似ていく人格を求めているでしょうか。具体的に祈っているでしょうか。わたしはすごく少ないような気がしました。

今朝のソロモン王から見る祝福は、

①シェバの女王の持つ質問を話させることのできる人格
②それに全て応えることのできる能力を与えられている
③部下が一緒にいて幸福なリーダーである
④その言葉を聞いて恵まれる
⑤自分の思いでなく、神の公正と正義を行う。


それらを、ソロモンは自分のためでなく、神の栄光のために求め、用いたのです。

これを得るために、私のすべきことは何か、思いました。それは、まず何より

①神が私を喜ばれている、愛されている御声を聞くことです。

私たちクリスチャンや、いや私は外側の行動ばかりに気をとられしまうことや、仕事を先にすることにおぼれ、神の私はあなたを愛していることを忘れ、結果主義になってしまうことがよくあります。しかし、「あなたを喜ばれ」(列王記第一10:9)と異邦人のシェバの女王が神を認め、しかも、神があなたを喜ばれ、とまで告白しています。

仕事をする前に、神の愛してる声、神が私を喜ばれている声を聞くものが、挫折しても立ち上がることができ、落ち込んでも、勇気を得ます。そうしてこそ、神のリーダーとして立てられます。愛があって、そしてキリストの正義と公正を持つリーダーが人に仕え、その共同体に祝福を流すことができます。

②リーダーは愛だけでなく、公人として「正義」が必要です。

その結果は、「だれもこのようなものを見たことがなかった」(列王記第一10:12)祝福です。韓国において、日本においても、神の人になっていくリバイバルの祝福を祈ります。

もしかして、あなたはクリスチャンと呼ばれる恵みが、ありますように。

土曜日, 5月 06, 2006

誠実に生きることの尊さ

「しかし、ヒラムがツロからやって来て、ソロモンが彼に与えた町々を見たが、それは彼の気に入らなかった。それで彼は、兄弟よ、あなたが私に下さったこの町々は、いったい何ですか。と言った。」(列王記第一9:12~13)
「すべての領地に建てたいと切に願っていたものを建設した」(列王記第一9:19)


ソロモン王にとって、繁栄の時を向かえ自分のしたいと思っていることをできる、という聖書箇所です。ゲゼルの町を再建し(リビングライフの地図もあります)、建てたいと思ったものを建て、さらに聖絶できなかった民族を奴隷の苦役に徴用する、という時でした。主の宮と王宮を20年かかって建て終わった時でもあり、まさに、繁栄の時です。

自分たちの人生において、自分が思うままに「物事」をできるとか、言いたいままにできるとかは、ほとんど無いのでないでしょうか。羨ましい限りです。また、これらの聖書箇所を読む時に、お金や物へのコンプレックスや
成功へのコンプレックスを感じる人も多いでしょう。ちょっと、かえって恵みを受けるのにそれが障壁になるかもしれません。まさに、今日のリビングライフの「繁栄の時に何をすべきか」です。

ソロモンは、この主の宮と王宮を建てるのに、大きな協力と業績のあった人に誠実に応えることをしませんでした。神が下さった祝福には、謙遜に感謝すべきであり、その祝福を持って他のへ良い影響を与える、祝福を分かち合う義務があります。神の与えてくださった恵みに感謝し、謙遜に歩む必要があります。神の下さった繁栄を正しく歩まないと、落とし穴になります。

私の生活は、どうかと思いました。神の与えてくださった恵みを感謝しているか、それを分かち合っているのか、と思いました。ソロモン王は、大きな繁栄を下さった神に、主の宮のささげものをし
たけれど、ヒラムに対して誠実に応えるクリスチャンとして(いや、人として)の姿にかけてしまいました。

私の生活の場は、日本から再び韓国になります。日本と同じような家や生活ができないと思います。ちょっと、心配もしています。しかし、そこでも祝福してくださる神に感謝して、分かち合う生き方ができることを祈ります。大きな業績だけでなく、誠実に歩めることを期待します。

水曜日, 5月 03, 2006

折にかなった助け

「誰でも、あなたの民イスラエルがおのおの自分の心の悩みを知り、この宮に向かって両手を差し伸べて祈るとき、どのような祈りも、願いも、あなたご自身が、あなたの御住まいの所である天で聞いて、赦し、またかなえてください」(列王記第一8:38)

少し遅れての内容ですが、日曜日のQTの恵みをお分かちさせてください。今週の日曜日は、久しぶりに牧会祈祷の奉仕がありました。韓国に居たときには、代表祈祷が一時期よくご奉仕させていただいていたのですが、執事や長老の方がされるようになって、あまり代表祈祷が回らなくなりました。これ
は、その教会の成長によることで、感謝なことでした。そしてここ松山においては、牧会祈祷なので牧師先生が通常されることで、あまり私に回ってこないご奉仕でした。つい今週の日曜日は、牧師先生が他教会での奉仕のために、宣教師の二宮先生が説教をして、そして牧会祈祷は私ということになりました(説教はとても感謝でした)。

で、その牧会祈祷ですが、どのように準備すればいいだろうか、と思っていました。霊的な普段からの準備、そして祈るべき内容が行ったり来たりしないように、内容を準備すること。しかし、文章を読むような祈りでなく、霊とまことによる祈りになるように、考えてましたが、いまだにどうしたらいいのか、わからないような気持ちで、主日礼拝を迎えました。まだ整えられていないような不安な気持ちがありました。

主日礼拝の朝のQTはソロモン王の祈りでした。内容は、まさにイスラエルの民のために「とりなしの祈り」をしているソロモン王でした。素晴らしすぎて、どれほど、感謝だったかわかりません。

①神への賛美と感謝、
②罪の悔い改め
③とりなし
④祈りと願い


礼拝者としての姿勢のすべてがあるものでした。このQTの時間が、私にとってどれほど整えられる時間であったのか、恵まれる時間であったか、わかりません。私とって、礼拝者として整えられ、とりなしの祈りをする者として立たせられるQTの時間でした。

自分を飾る祈りでなく、文章を読む祈りでなく、人を意識するのでなく、教会の公同礼拝に臨在される神に向かって、祈る時間でした。感謝します。すべての栄光は神様に。私を、私たちを導かれる主イエスを賛美します。