坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

土曜日, 6月 29, 2013

迫害されていないなら従順を、伝道をしているか?チェックせよ

使徒行伝9章
サウロは、イエスを信じた後で、大胆にイエスを伝え続けました。そのために、ユダヤ教の人から迫害を受けました、すぐに殺されるかもしれない、という陰謀をもたれました。思わされました。伝道をしたら、イエスのためにまっすぐに歩んだら、迫害がついてくるのが当然でないか、と。逆に言えば、迫害が無いのは伝道しないか?主イエスに従順に従っていないからでもあります。サタンは福音が拡がるのを歯軋りして妬みます。教会が成長をするのを外部、内部からも攻撃します。何故、サウロはイエスを大胆に証し、宣教できたのでしょう。①イエスに出会ったからです、迫害したものが赦され、用いられることを知ったからです、いや、罪を赦されたことをまともに、知ったら伝道するしかありません。②一生懸命、聖霊様によって燃やされる人生を体験すること、③イエスに会って喜ぶことです、④バルナバのとりなし、証言です。私たちは一人で伝道できません、一人で教会もできません、信仰生活も出来ません。助けと愛が必要です。サウロを守ってくれた兄弟姉妹がいました。今日、主イエスに会って従順して、伝道していきます。主よ、あなたを喜びます、サタンの迫害や策略に載りません、弱い私を助けてください。

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金曜日, 6月 28, 2013

祈りのトンネルを通ったら、後は輝くだけ

使徒行伝9章11節、
11節「さて, ダマスコ に アナニヤ という 弟子がいた. 主が 彼に 幻の 中で, 「アナニヤ よ. 」と 言われたので, 「主よ. ここにおります. 」と 答えた. 12節「すると 主はこう 言われた. 「立って, 『まっすぐ 』という 街路に 行き, サウロ という タルソ 人を ユダ の 家に 尋ねなさい. そこで, 彼は 祈っています.  」13節「彼は, アナニヤ という 者がはいって 來て, 自分の 上に 手を 置くと, 目が 再び 見えるようになるのを, 幻で 見たのです. 」 14節「しかし, アナニヤ はこう 答えた. 「主よ. 私は 多くの 人¿から, この 人が エルサレム で, あなたの 聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを 聞きました. 15節「彼はここでも, あなたの 御名を 呼ぶ 者たちをみな 捕縛する 權限を, 祭司長たちから 授けられているのです. 」 16節「しかし, 主はこう 言われた. 「行きなさい. あの 人はわたしの 名を, 異邦人, 王たち, イスラエル の 子孫の 前に 運ぶ, わたしの 選びの 器です.16節「彼がわたしの 名のために, どんなに 苦しまなければならないかを, わたしは 彼に 示すつもりです. 」   
サウロは、衝撃的な神様との出会いの中で、祈りました。また同時に、アナニヤ も祈りました、神様の声を聞いたのです、幻を見ました。しかし、彼らには、最初自分たちの考えや今まで生きてきた生き方、価値観がありました。何と言っても、サウロは反クリスチャン、迫害者でした。多くの被害をもたらした人でした。サウロもそれが神のため、と思って生きてきました。しかし、それが間違いであることが示されました。サウロにとって大きな衝撃、そして目が見えない中で祈ったのです。また、サウロを助けるために使わされるアナニヤも同じでした、サウロが迫害者で未だにあるのに「神様の幻」があったのです。ここで、彼らの悩みや考えはあり、神様に話しました。しかし、神様の御心が示された時に、彼らは従ったのです。今日のQT箇所は前半の彼らと神様への交わり、祈りの聖書箇所が長く書かれていて、後半のイエスを力強く証ししたことが簡潔に書かれていることです。それは、主の御心を知り、従う時に時間がかかっても、その時をしっかりして、従うなら、大きな祝福がある、ということです。従うなら、大きな力が伴うと言うことです、今日、主への祈り、交わりの時間を強く持ち従います、主よ、力強く「イエスは神の子」であると証しさせてください。
 
   
 
  1.  

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それでも、あなたを用いたい!

使徒行伝9章4節「彼は地に倒れて,「サウロ  サウロ .なぜわたしを迫害するのか.」という声を聞た」. 5節」彼が, 「主よ. あなたはどなたですか. 」と 言うと, お 答えがあった. 「わたしは,あなたが迫害している イエス である.  6節「 立ち上がって, 町にはいりなさい. そうすれば, あなたのしなければならないことが告げられるはずです.」
主イエスの恵みは驚くべきものです。イエスを、教会を、クリスチャンを迫害をした人を、誰が用いようとするでしょうか?パウロが才能があるから、とか知識人だからと言う理由では通じません。彼は、ステパノを殺すことに賛成し、クリスチャンを牢獄へ送り、殺害のいに燃えていたのです。①何のために、自分の心を、意思を燃やすのか?何に向かって燃やすのか?大事なことです。スピードは大事なことでありません、大事なのは人生の正しい方向、イエスに向かうことです。天国に向かうことです。パウロは神様のために、とまったく違った方向へ向かっていました。それをイエスは直してくださいました。普通なら、裁きが下ってもおかしくないようなことを覚えます。しかし、主イエスはゆるし、愛するだけでなくて、サウロを用いたい、と召しを与えます。私たちの人生をどれほど大切に、惜しんでくださっていることでしょうか?私も同じものでした。何と神様へ感謝な愛でしょうか?救いだけでなくて、使命も下さるのです、主イエスの私への、私たちへの未来への目はどういったことでしょうか?!まさに、アメージングな愛、計画です。その愛は、私だけでなくて、他の人へ、隣人へ注がれています。私への愛が分かるなら、人を裁くことは出来ないはずです。今日、主イエスの私を、あなたを用いたい、という愛と計画で歩みます。神様の召しの方向へ向かいます。

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水曜日, 6月 26, 2013

次のステージに進みたいか?!

使徒行伝8章26節「ところが, 主の 使いが ピリポ に 向かってこう 言った. 「立って へ 行き, エルサレム から ガザに下るに出なさい. 」(この ガザ は 今, 荒れ 果てている. ) 27節「そこで,彼は 立って 出かけた.」29節「御が ピリポ に「近寄って, あの 馬車といっしょに 行きなさい. 」と 言われた. 」
ピリポは、サマリヤでの伝道奉仕の後「聖霊により、ガザに行きます」成功した後で、その場を離れるのは難しいことです。成功を自分の手から離すことは寂しいことです。しかし、ピリポは政令の導きに従いました。すると、どうでしょうか?イエスの福音を待っている人がいたのです。それは、聖霊の導きに従う人は、①自分に栄光をおかない。神様に栄光をかえす、②すると、自由なのです。③神様に使いやすい人になる、④すると、神様の夢がかなう、つぎのSTEPに進みます。異邦人伝道のさきがけになったのです。使徒たちも行けないサマリヤに、エチオピア伝道をする祝福の管となりました。主に、聖霊の従う人こそが、次のSTEPに進みます、過去の成功、現在の成功にとどまるのは、使徒行伝でないのです、未来志向型なのです。今日、私のサマリヤ、そしてガザはどこか?と思いました。私が今のジュビリー教会がリバイバルした時も、そこにとどまらないことを祈り、進みます。主に従います

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火曜日, 6月 25, 2013

聖霊の働く人とそうでない人の違い

  1. さて, エルサレム にいる 使徒たちは, サマリヤ の 人¿が 神のことばを 受け 入れたと 聞いて, ペテロ と ヨハネ を 彼らのところへ 遣わした.
  2. ふたりは 下って 行って, 人¿が 聖を 受けるように 祈った.
 
 
  1. 彼らは 主 イエス の 御名によって バプテスマ を 受けていただけで, 聖がまだだれにも 下っておられなかったからである.
  2. ふたりが 彼らの 上に 手を 置くと, 彼らは 聖を 受けた.
  3. 使徒たちが 手を 置くと 聖が 與えられるのを 見た シモン は, 使徒たちのところに 金を 持って 來て,
  4. 「私が 手を 置いた 者がだれでも 聖を 受けられるように, この 權威を 私にも 下さい. 」と 言った.
聖霊の働かれる人は、どんな人でしょうか?①罪を悔い改めた人です。②神様と愛し合う、親しい関係になります、③自分よりも、神様の栄光を求めます、いや、自分と神様という区別なしに主だけになります、④神様のものです、⑤神様の夢とビジョンを持って神様と、人に奉仕します、逆に、そうでない人はどうでしょうか?①不義の中に未だにいます、過去から離れません、②自分の生活と神様の生活を別々に持ちます、③苦い嘆じるの中に未だにいることを拒みません、そこには恐れがあります、④お金へのしつちゃくがあり、⑤自分の権威や名声にこだわります、⑥自分に仕えさせ、人を操縦します、⑦神様への栄光はありません、仕えることが出来ません、人の前だけで使えるふりをします。⑧神様の立てた秩序に従うことや、チームワークがもてません、⑨自分の不足さに正直でありません。何と私自身危ない部分があることでしょうか?悔い改めます、聖霊様のきよめをまず受けていきます

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神様の奇跡と魔術の違い

使徒行伝8;4-8、12
4節「他方, 散らされた 人たちは, みことばを 宣べながら, 巡り 步いた. ピリポ は サマリヤの町に下って行き,人々にキリスト を宣べ傳えた. 5節「群衆は ピリポ の 話を 聞き, その 行なっていたしるしを 見て, みなそろって, 彼の 語ることに 耳を 傾けた.7節「 汚れた霊につかれた 多くの 人たちからは, その霊が大声で 叫んで 出て 行くし, 大ぜいの 中風の 者や 足のきかない 者は 直ったからである.それでその 町に 大きな 喜びが 起こった. 8節」ところが, この 町に シモン という 人がいた. 彼は 以前からこの 町で 魔術を 行なって,サマリヤの人々を驚かし,自分は偉大な 者だと 話していた. 9節小さな 者から 大きな 者に 至るまで, あらゆる人々が彼に感心を 抱き, 「この 人こそ, 大能と 呼ばれる,神の力だ.」と 言っていた. 11節「人々が 彼に 關心を 抱いたのは, 長い 間, その 魔術に 驚かされていたからである. 12節「しかし, ピリポ が 神の 國と イエス · キリスト の 御名について 宣べるのを 信じた 彼らは,男も女もバプテスマを受けた
奇跡とは、魔術の違いは何でしょうか?両方ともすごいことをします、魔術も人間業でしないようなことをするかもしれません(にせものや、サタンの攻撃もあります)。すごい業を起こします。しかし、違いは①神様に栄光があるのか?自分に栄光を集めたいのか?②人気を得たいのか?③福音へつながるのか?→イエス・キリストの十字架の愛につながるのか、十字架とは自己犠牲をされた神様の子である最高の奇跡です。④人にとって愛が起こるのか?それとも、単に驚きだけなのか?奇跡は神様の愛、幸福をもたらします。⑤神様の言葉、聖書につながるのか?聖書の主張と合っているのか?⑥神様の国の支配が来るのか?人間の操縦があるのか?神様の国は平安があります。⑦自己満足でなくて、神様と周りの人が満足するのか?今日、主の国の奇跡を味わって生きます。

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日曜日, 6月 23, 2013

クリスチャンにとって宝は何か?!

使徒行伝7;38「また, この人が,シナイ山で彼に 語った 御使いや 私たちの 先祖たちとともに, 荒野の集会において,生けるみことばを授かり,あなたがたに与えたのです.」
 51「かたくなで, 心と 耳に割礼を受けていない 人たち. あなたがたは,先祖たちと同樣に,いつも聖霊に逆らっているのです.」
私たちにとって宝とは何でしょうか?それは、生ける神様のみ言葉です。私たちは、生ける神様のみ言葉を良いお話を聞いた、とか自分の好きな部分だけ聞いておこうとか、することはできません。なぜなら、彼は神だからです。私は創造主なる神につくられた被造物です。 神様の言われることを無視していいとか、適当に流していいはずがありません。それは、私たちを愛されて、命をかけられた方が言われる言葉だからです。その命をかけられた方が、全てのよいものを下さらないはずがありません、創造の時の祝福を回復しようと言われるのです。それは、神様と会話できる、分からないことがあれば、たずね、祈り、助けを求めることが出来る関係なのです。彼は私たちのことを心配してくださいます。私にとって、神様の言葉は宝でしょうか?そこから来る祝福をGETしたのでしょうか。神様の声を聞いて行った成功をつかんだのでしょうか?!心と耳に割礼の無い、内容の無い、人生と関係の無いクリスチャン生活(クリスチャンと呼べるのでしょうか?)心から、人生からクリスチャンとして歩みます、それは、神様の声を聞く人生です、祝福をGETする人生です。主の声を聞いていきます。

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土曜日, 6月 22, 2013

主に呼ばれてこそ、輝く

使徒行伝7章35節『だれがあなたを 支配者や 裁判官にしたのか. 』と 言って 人¿が 拒んだこの モ ― セ を, 神は 柴の中で彼に現われた御使いの 手によって, 支配者また 解放者としてお 遣わしになったのです.
今日はステパノが、モーセの信仰を通して私たちは、何かをしようとしても、「人間の力ではできない」こと、そして人間の時でなくて、神様の約束の時に準備されること、神様のCALLINGについて語ってくれます。モーセは最初自分の力で使用としました、しかし、同じ国民から排除され、認めてもらえなかったのです。失意の彼に、80歳になった彼に、神様は再び呼んでくださいました。神様のCALLINGは、①神様に出会う経験、体験(仕事から呼ばれるのでない!)神様に出会う体験は、関係を持つことを意味します。そうでなければ、虚しいものです。②聖めがあります、それはこの世から区別されることです、これがなくては、後で失敗したり、倒れます。自分だけでなくて、周りに悪い影響を与えます。自分も気をつけないといけないと思います。③神様の声を聞く、神様の心を知る時間です、④神様に遣わされます、それはエジプトの全ての学問を学び、行いもすべてのことが卓越していたころのモーセと違った年老いたモーセでしたが、神様の力が臨む時に神様の計画が始まりました。⑤周りの人々も認めるリーダー、解放者として建てれました、しかし、それには長い時間、訓練と神様のGOサインの出るときまで待たないといけませんでした。今朝、思わされたのは神様の約束の時、リバイバルを期待して、準備して待つ、ことでした。神様の深い関係を持って行きます、主よ、あわれんでください。

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金曜日, 6月 21, 2013

想定外どころでない神様の祝福

使徒行伝7;3-8、3節『あなたの 土地とあなたの 親族を 離れ, わたしがあなたに 示す 地に 行け. 』と 言われました. 4節「そこで, アブラハム は カルデヤ 人の 地を 出て, カラン に 住みました. そして, 父の 死後, 神は 彼をそこから 今あなたがたの 住んでいるこの 地にお 移しになりましたが, 5節「
ここでは, 足の 踏み 場となるだけのものさえも,相續財産として 彼にお 與えになりませんでした. それでも, 子どももなかった 彼に対して, この 地を 彼とその 子孫に 財産として 與えることを 約束されたのです.6節「また 神は 次のようなことを 話されました. 『彼の 子孫は 外國に 移り 住み, 四百年間, 奴隷にされ, 虐待される. 』 7節そして, こう 言われました. 『彼らを 奴隷にする国民は, わたしがさばく. その 後, 彼らはのがれ 出て,この所で, わたしを 禮拜する. 』 8節「また 神は, アブラハム に割礼の契約をお与えになりました. こうして, 彼に イサク が 生まれました. 彼は 八日目に イサク に割礼を施しました. それから, イサク に ヤコブ が 生まれ, ヤコブ に 十二人の 族長が生まれました. 
 
  



神様のアブラハムへの約束を通して、私たちに信仰を持って、神様の約束のみ言葉を握って生きる人の人生の祝福をステパノを通して語ってくださるのが、今日のQTです。それは、単に私たちの人生が、この世の富貴を一瞬だけを楽しむことにとどまらず(もちろん、祝福はあります)、神様の約束は、全世界的、全時代的、全宇宙的な空間、時代、地域に制限されないものです。ですから、アブラハムの相続の地が無かったと聞くと「ええ~」と思うか知れません。しかし、まことの祝福は「神様がわたしと共にいる」こと、神様が全ての供給主なのに、この世の権威や、力、お金、にたよるのは、何ともったいないことでしょうか。全ての艱難から救い出される方に頼るべきです。今日、神様に頼る価値観を持ちます。ただ、神様の約束を信じ、歩む人生を生きます。


 
 

 
 
 
  

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木曜日, 6月 20, 2013

あなたの顔はどんな顔か?

使徒行伝6:15、15節「議會で席に着いていた人々はみな,ステパノに目を注いだ.すると彼の顔は御使いの顔のように見えた.」
ステパノの顔は天使の様に見えたとあります。彼の顔は礼拝の中で、賛美の中で、祝福に見える環境の中でそう見えたのでなくて、イエスを伝道しても、宗教学者や同じ国民からのわなや、嘘の証言の中で、裁判にかけられる時に、危機の中で、緊張の中で、天使のように見えたのです。苦しい中で、人を恨んでも仕方が無いとも思える、言える、中でも、天使のように見えたのです。はたして、私ならそのような時にどんな顔をしているのでしょうか?怒ったり、傷ついたり、恐れたりするのでないでしょうか。そのような状況だから仕方が無い、というのでないでしょうか。しかし、聖書はステパノの顔は天使のようだった、とあります。いかに恐れの無い顔でしょうか?そのために、そのようになるために必要なことは何でしょうか?それは、今日の私にとって「祈り富言葉の学び」の準備をする、備えることでした。未来、いつどのようになるのか分かりません。今日と言う日は二度ときません。主の準備を楽に出来るのはいつまでも無いかもしれません。 祈り富言葉と学びを準備する今日にします

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火曜日, 6月 18, 2013

毎日イエスを伝える人!

使徒行伝5;40-42、40節「
使徒たちを呼んで, 彼らをむちで 打ち,イエスの名によって語ってはならないと言い渡したうえで釈放した.41節「 そこで,使徒たちは,御名のためにはずかしめられるに 値する 者とされたことを喜びながら,議会から出て行った.42節「そして、每日、宮や 家々で教え,イエスがキリストであることを宣べ伝え続けた.
使徒たちは、迫害の中でも「イエスを毎日宣教し続けました」迫害を受けても喜ぶクリスチャン、それは誰に従うのか?!分かった人の祝福です。現在、クリスチャンにこのような信仰があるのでしょうか?私にこのような喜びがあるのでしょうか?逆に、宗教学者たちはイエスを十字架にかけたことに責任をとろうとしませんでした。本物は、責任を取ることを喜びます、またイエスのために迫害されることをこの上も無い喜びとします。そして、宮でも家でも、社会的にも、個人的にもイエスを伝え、教えていきました。毎日イエスを伝える人になること祈ります。

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日曜日, 6月 16, 2013

今日も求められる教会の清さ

使徒行伝5;3-6、
3節「そこで, ペテロ がこう 言った. 「アナニヤ .どうしてあなたはサタンに心を奪われ,聖霊を欺いて,地所の代金の一部を自分のために殘しておいたのか. 4節「それはもともとあなたのものであり, 賣ってからもあなたの 自由になったのではないか. なぜこのようなことをたくらんだのか. あなたは人を欺いたのではなく,神を欺いたのだ.」 5節「アナニヤ はこの 言葉を 聞くと,倒れて息が 絶えた. そして, これを 聞いたすべての 人に, 非常な 恐れが 生じた.」6節「   靑年たちは 立って, 彼を 包み, 運び 出して 葬った.
今日の聖書箇所は、今も忘れない金サムエル先生を通しての説教の事が思い出されました。それは、アナニヤの欺きは神様に対してであり、教会の清さを守るためになされたことである、というメッセージでした。そして、ユーモアを持て言われたのが「今の時代こんなことがあったら、みな死んでしまいますね、私も含めてね」と言われたことでした。本当だな、と思いつつ、先生はユーモアをこめて私たちを傷つけずに、ご自身も正直に話されたと思いました。果たして、どうでしょうか?私たちも、現在の教会も「教会を侮ること、あざむくこと」への恐れがあるでしょうか?また、霊的指導者がはっきりと罪を見抜き、指摘し、裁かれるべき罪を言えるのでしょうか?私にとって多くの適用があります。本当に、現在もこんなことが起こったら、私も死んでいると思います。しかし、神様は初代教会にどうしても必要だから、この裁きがあり、私たちへの警告と、愛をもって「心を見られる」方であることを示されています。それは、現在の教会への愛であり、教会も変わらず清さを持つ必要があります。今日、勇気を持って清さを自分から、また教会へ使えていきます。
 
  

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土曜日, 6月 15, 2013

燃える人は、教会は、神様を体験する

使徒行伝4;29-33、
29節「主よ. いま 彼らの脅かしをご 覽になり, あなたのしもべたちにみことばを大胆に 語らせてください. 30節「御手を 伸ばしていやしを 行なわせ, あなたの 聖なるしもべイエス の 御名によって, しるしと 不思議なわざを 行なわせてください. 」   31節「彼らがこう祈ると, その集まっていた場所が震 動き,一同は聖霊に満たされ ,神のことばを大胆 に語りだした.32節「 信じた 者の 群れは, 心と 思いを 一つにして, だれひとりその 持ち 物を 自分のものと 言わず,すべてを共有にしていた.33節「 使徒たちは,主イエスの復活を非常に力強くあかしし, 大きな恵がそのすべての者の上にあった.
今朝の御言葉を聞きながら思わされたのは、教会と言う文化に慣れたり、教会生活と言う生活になれない信仰生活をしたい、と思いました。初代教会は常にリバイバルや奇跡が起こっています。でも、それは迫害のない中でなくて、またイスラエルの内部からの攻撃がありつつも、いつも祈る中で、聖霊様が励まし、力を与える中で、力強く信仰してきました。力強く、福音だけを宣教し、一致し、共同体になり、救われる人が起こされていきました。私はどうでしょうか?私たちの教会はどうでしょうか?初代教会のように燃えて宣教しているのでしょうか?燃えて迫害されても祈っているのでしょうか?燃えているところに迫害や攻撃がるのは当然です。しかし、そこで祈って神様の事件を体験しているのでしょうか?それとも、既に教会と言う文化になれた生活をしているのでしょうか?21世紀のアメリカでも日本でも、世界でも神様の事件を体験したいと思っているのでしょうか?文化でなくて、生きたイエスを賛美し、祈り、宣教し、教会の共同体を形成していきます。
 
  

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金曜日, 6月 14, 2013

イエスにだけ従う強さ

使徒行伝4;19-20、
18節「そこで 彼らを 呼んで, いっさい イエス の 名によって 語ったり 敎えたりしてはならない,と命じた.」19節「 ペテロとヨハネは彼らに答えて言った. 「神に 聞き従う より, あなたがたに 聞き従うほうが,神の前に正しいかどうか,判断してください.」 20節「私たちは,自分の見たこと,また聞いたことを,話さないわけにはいきません.」 21節「そこで, 彼らはふたりをさらにおどしたうえで, 釈放した.それはみなの 者が, この 出來事のゆえに神をあがめていたので,人々の手前、 ふたりを罰するすべがなかったからである.」
 ペテロとヨハネを呼び寄せた宗教指導者、社会指導者たちは「彼がイエスとともにいた」と言うことを知ります。彼らが無学な(しかし、まったくの無学という意味でなくて高学歴で無いとい意味でしょう)人でありながらも、イエスの事を伝える大胆さに驚きます。そして、彼らがイエスの事を伝えないように脅した(脅した!と書いてあります)後も、ペテロとヨハネたちは「神に聞き従う」ことより、あなたがたに聞き従うのが神の前に正しいのか?判断してください、と言います。続いて「自分の見たこと、聞いたこと」を語らないわけに行きません、といいます。そうです、クリスチャンの伝道、奉仕はここから来ます。人間的に何か作るのでなくて、イエスを見た人は、聞いた人は、真実に命を懸けます、逆に、宗教指導者たちはイエスの業を賛美する人々の前に自分たちの主張も行動も出来ませんでした。そこには、人への恐れがあったからです。しかし、イエスを恐れる人には人間への恐れがありません、迷いがありません、ただ、すべきことをします。今朝、イエスだけしか知らない人として集中して歩みます。恐れを持たず伝道していきます。
 
 
  

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木曜日, 6月 13, 2013

イエスしか知らない時に恐れが無くなる!

使徒行伝4;10-12、10節「皆さんも,またイスラエル のすべての 人¿も, よく 知ってください.この人が直って, あなたがたの前に立っているのは あなたがたが 十字架につけ,神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス · キリストの御名によるのです.」 11節『あなたがた 家を 建てる 者たちに 捨てられた 石が, 礎の 石となった. 』というのはこの 方のことです. 12節「この 方以外には, だれによっても 救いはありません. 世界中でこの 御名のほかには, 私たちが 救われるべき名としては, どのような 名も, 人間に 與えられていないからです. 」ペテロとヨハネが、神様の奇跡をした後に、イスラエルの宗教指導者たちに囲まれるシーンです。ここで驚くべきことは、弟子たちの変貌振りです。以前は、イエスの十字架の事件当時は恐れて隠れていた人が「聖霊に満たされて」(8節)、宗教指導者や社会の指導者の前で堂々とイエスを語ってことです。そして、「あなたがたが十字架にかけた」と語ったことです。自分のことは話しやすいことです、でも、相手の罪を語るのは「本気の愛」がなくてはできないことです。神様の心をなしには語れないことです。何よりも、勇気のいることです。しかも、拘束された次の日の事です。恐れがなかたったのでしょうか?KEY POINTはただ一つ聖霊に満たされること!そして、イエスの十字架と復活以外に救いが無いことです!私たちは、はたして頼るのはイエスの十字架だけでしょうか?イエスのみなだけでしょうか?それとも、他に頼るものがあるのでしょうか?他に頼るものがあるときに、CORNER STONEである
イエスを逃します、本当の力を受けることが出来ません。今日、主イエスだけを頼り、主イエスの栄光のためだけに生きていきます。  
  

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水曜日, 6月 12, 2013

イベントで終わらない信仰、教会

使徒行伝3;11-12。11節「この 人が, ペテロ と ヨハネ につきまとっている 間に, 非常に 驚いた人々がみないっせいに, ソロモンの廊という回廊にいる彼らのところに,やって来た。 12節「ペテロ はこれを 見て, 人¿に 向かってこう 言った. 「イスラエル 人たち. なぜこのことに 驚いているのですか. なぜ, 私たちが 自分の 力とか 信仰深さとかによって 彼を 步かせたかのように,私たちを見つめるのですか.」
ペテロを通してなされた神様のわざは、人々がみないっせいにやってくるようにさせます。なぜなら、歩けない人を歩けるようにさせて奇跡を見たからです。しかし、これにたいしてペテロは、自分が「した」とかでなくて、ましてや「自分の信仰深さ」でもない!と断言します。昔のペテロなら、奇跡や大きなイベントにとどまったり、していたことでしょう。果たして、私たちならどうでしょうか?このような大きな奇跡をしたら、自分の力といわなくても、自分の信仰深さ、自分のジマンに何気なく陥ることは無いでしょうか?しかし、ペテロがただ神様の計画によってこられたイエスご自信を指し示しました。それが、使徒行伝の最初の宣教をとめることにならなかった理由です。果たして、私は「ただ、神様の栄光だけ」そして「イベントにとどまらず」聞きたくないかもしれない、日の心をさすイエスの話だけを、私の罪を、あなたの罪を語り、十字架の愛を伝えているのでしょうか?悔い改めを伝えているのでしょうか?初代教会の力は、目に見える部分だけでなくて十字架のメッセージ、悔い改めを伝え勧め、変えられる人が起こされ続けるところからあったのです。今日、主イエスの十字架だけを語ります、イベントに終わりません。

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日曜日, 6月 09, 2013

ナザレのイエスは誰か?!

使徒行伝2;25節「ダビデ はこの 方について, こう 言っています. 『私はいつも, 自分の 目の 前に 主を 見ていた.主は,私が動かされないように,私の右におられるからである.」26節「 それゆえ, 私の 心は楽しみ,私の舌は大いに喜んだ. さらに私の肉体も望みの中に 安らう.」27節「あなたは 私のたましいを ハデス に 捨てて 置かず, あなたの 聖者が 朽ち 果てるのをお 許しにならないからである. 」28節「あなたは, 私にいのちの を 知らせ, 御顔を 示して, 私を 喜びで満たしてくださる.』
 36節「 ですから, イスラエル のすべての人々は, このことをはっきりと 知らなければなりません. すなわち,神が,今や主とも キリスト ともされたこの イエス を, あなたがたは 十字架につけたのです. 」  
  
今日は3つのメッセージが一人の人についてあります。それは、ナザレ人イエスとは誰か!?です。①神様の計画の中で、イエスはこの地に来られて、不法な者に〈イスラエルの宗教指導者、群集、私たち)十字架にかけて殺した。②24節、しかし、神様はイエスを復活させた。③ダビデは預言者として「自分に与えられた永遠のメシア、主なるイエス」を預言しました。しかし、そんな神様の最高の愛の計画であるイエスを十字架にかけたのは、私たち、私なのです。ペテロたち、弟子たちは聖霊が下るまで、神様の事を証言するのを恐れていました。しかし、聖霊様が下って以来に、旧約聖書から約束の神様の子イエス、ダビデがメシアとしてこられる方イエスを語り、そのイエスを十字架にかけたのはあなたである、私たち弟子はその証人である、と語りました。恐れから開放されて、かえってイエスの福音をまっすぐに語るようになったのです。イエスの苦しみのために、私たちは神様に出会うことが出来ました。神様のプレゼントをこっわした私たちにさえ、神様に会う祝福があったのです。主を賛美します。

ラベル:

土曜日, 6月 08, 2013

あなたに神様のわざが起こっていますか?

使徒行伝2;16節「これは,預言者ヨエルによって語られた 事です.」 17節『神は言われる.終わりの日に,わたしの霊をすべての人に注ぐ.すると,あなたがたの息子や娘は預言し,靑年は幻を見,老人は夢を見る.」18節「 その日,わたしのしもべにも, はしためにも, わたしの霊を注ぐ.すると,彼らは預言する.」
イスラエルの人々が彼らが他国の言葉、異言で話したので、驚き怪しみます。そこで、ペテロがリーダーシップを持って話します。それは、自分たちに起こったことが「神様のわざ」であることを「聖書から」話したのでした。私たちは、自分たちに起こっていることを「聖書から」神様のわざであることを証し出来るでしょうか?そのように聖霊様が注がれて「幻」を「夢」を見ているでしょうか?その人の人生は、楽しく、エキサイトなものです。じっとしていられません。神様のWONDERが起こっているからです。神様のわざが私に起こっているからです。私に神様のわざをなさってください。 また、燃え尽きない幻を注いでください。

ラベル:

木曜日, 6月 06, 2013

神様しか出来ないわざがACTSだ!

使徒行伝2章4節「すると 、みなが聖霊に満たされ,御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした. 」5節「さて,エルサレムには,敬虔なユダヤ人たちが,天下のあらゆる国から 来て住んでいたが,」6節「この物音が起こると, 大ぜいの 人¿が 集まって来た. 彼らは,それぞれ 自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて,驚きあきれてしまった」7節 「彼らは 驚き 怪しんで 言った. 「どうでしょう. いま 話しているこの 人たちは, みな ガリラヤの人ではありませんか.」 8節「それなのに, 私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは,いったいどうしたことでしょう.」
使徒行伝の最初のスタートは聖霊が降臨することです。それは、人間のわざでなくて神様だけしかなされないことです。それが、ACTSです、使徒行伝です。聖霊が下ってこそ、教会が誕生しました。神様しか作れないのが教会です。教会は人が作るものでありません。聖霊様が下ってこそ出来るものです、何故でしょうか?聖霊が下ると、①聖霊に満たされます(自分の傷やコンプレックスでなく、憎しみでもなく、主イエスに満たされます)、②聖霊様の語るとおりに語ります(自分のことを語るのでありません)、③他国の言葉で話します(自分の出来ないことです、奇跡です)異言とも言います。それは、自分の限界をはるかに乗り越えることでした、今朝、私へのチャレンジは自分の限界を乗り越えて働くことでした。自分の枠を出て行くことでした。 自分じゃ出来ないところへ行動していきます、教会のACTSを主が創造されるとおりに仕えていきます。 
  

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神様のチームを再編成するためには

使徒行伝1;21-2221節「ですから,主イエスが私たちといっしょに生活された間,」22節すなわち, ヨハネ の バプテスマ から 始まって,私たちを離れて 天に 上げられた 日までの 間, いつも 私たちと 行動をともにした者の中から、 だれかひとりが, 私たちとともに イエスの復活の証人とならなければなりません. 」 弟子たちは、聖霊の受ける前に祈りました、そしてその中でしたことは、ペテロがリーダーシップを持って①イスカリオテのユダの事件を整理しました(これは、何気に難しいこと、触れたくない事件です)、次に②イエスの復活の証人を再編成しました。ペテロは難しい、また触れたがらないことを、聖書から話して解決しました。また、もう一度イエスの証人になるために、準備しました。聖霊を受ける前に準備すべきことがあったのです。それは、弟子たちの再編成だけでなくて、祈りをする人々を集めました。今日、私に与えられたのは「祈祷会」の準備、セッティングです。祈りと神様のチームを再編成する必要を思いました。新しく、祈りのメンバーを作って、集めていきます。

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あなたが思っている以上のあなたにされる聖霊様

使徒行伝1;4-8、
4節「彼らといっしょにいるとき, イエス は 彼らにこう 命じられた. 「エルサレム を離れないで,わたしから聞いた父の約束を待ちなさい.」5節「 ヨハネは水でバプテスマを授けたが,もう間もなく,あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです」    
 
「そこで,彼らは,いっしょに 集まったとき, イエスにこう尋ねた。「主よ.今こそ,イスラエルのために国を再興してくださるのですか.」 7節「イエスは言われた. 「いつとか, どんなときとかいうことは, あなたがたは 知らなくてもよいのです. それは, 父がご 自分の 權威をもってお 定めになっています. 8節「しかし, 聖霊があなたがたの 上に 臨まれるとき, あなたがたは 力を 受けます. そして, エルサレム ,ユダヤとサマリヤの全土,および地の果てにまで,わたしの証人となります」
今日のQTの中で、イエスと弟子たちは東問西答をします。それは、イエスの関心は「聖霊の力を受けること」そして「全世界へ証人になる」ことにあったのに、弟子たちは「イスラエルの再建」自分たちの国の事だけ、自分の事だけ、目の前にしか視点がありませんでした。しかし、神様はもっと彼らが創造する以上の働き、人生を願われます、人間の力では終わらないことを願われます。この日QTだけでなくて、午後の夜サラン教会の他民族祈祷会でもおなじみ言葉が与えられました。 
ルーマニア、インドネシア、タイ、フィリピン、スペイン語の人々が集まり、この南加州のリバイバルのために祈りました、特別に大きな目的があって集まったのでないのですが、恵みがありました。思えば、北米日本人宣教を祈ってこの地に来て奉仕をしてから、神様は私の想像以上の奉仕、願いを下されています。何と感動的なことか、と思いました。自分の思っている以上に期待される方、しかし、それは人間の力でなくて、聖霊の力によらないといけません。主の働きのために聖霊の力を持って仕えていきます。
 

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